203 飯島みどり

「こんばんは」

 みどりはビクリと体を震わせた。振り向くと、着物姿に羽織を羽織った高齢の女性がみどりの後ろをすり抜けて、階段を上って行くところだった。

「こんばんは…」

 蚊の鳴くような声でみどりは返事をした。

 女性は会釈して、ゆっくりと階段を上がっていった。

 みどりは急いで鍵を開ける。飛び込むように部屋に入ると、鍵をかけた。

 女性と会うのは初めてではない。今月ですら、もう数度目だ。


 みどりが入ってしまったのは、決して小さくはなかったが、いわゆるブラック企業に近い体質の会社だった。毎日の厳しい研修に泣いたことも片手で足りる回数ではない。しかもどちらかというと、それをよしとする体育会系の企業だった。感化され、取り憑かれたように研修をこなしていく同期たちもいたが、みどりはどうしてもなじめなかった。

 女性に会ったのはそんな時だった。疲れ切って帰ってきた際のちょっとした挨拶に、緊張した心が解けるのを感じていた。

 しかし、それが何度も重なるうち、少しおかしいのでは、と思い始めた。

 こんなにしょっちゅう、夜間に帰る高齢の女性というのは、少し珍しいのではないかと。

 軽く腰も曲がっているようだが、まさか仕事をしているわけでもあるまい。誰かが送っている様子もない。みどりは田舎に住んでいる自分の祖母のことを思い出した。祖母宅に泊まりに行った時、祖母はもうこの時間には寝る準備を始めていた。先程の女性は祖母よりもさらに高齢に思えたが。


 みどりは以前、女性と挨拶した後、家に入ってから耳をすませたことがある。古い普請の団地の一棟であるこの棟は、どこかの部屋が開け締めされれば、よほど気を使って開閉しない限り玄関に居れば音が聞こえる。

 出かけるときなど、よその扉の開く音が聞こえれば、鉢合わせないよう少し待って時間をずらすこともよくあるからだ。

 女性が上がっていった3階からは、音がしなかった。この団地に3階より上は、ない。


 みどりは鍵をかけ、息をついた。服を脱ぎ、積み上がったゴミ袋の上にかける。明日は駅裏の銭湯に行こう。生まれつきあまり汗をかかない体質であるみどりは、数日風呂に入らなくとも、さほど体臭は気にならないタイプだった。空のペットボトルをおしのけると体を横たえ、目を閉じた。

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