302 高橋直哉

「うちには赤ちゃんがいるんですよ」

 直哉が困惑していると、女はそうわめきたてた。

「もう少し静かにしてもらえませんか。騒音に迷惑しているんです」

 玄関ドアを開けたら、階下に住んでいるらしい女が立っており、そう言った。

「今日も朝からずーっとパタパタ音がしてて…いいかげんにしてください!」

 パタパタならば、さほどうるさくはないのでは、と思ったが、直哉はそうは口にしなかった。

 言いながら、直哉は目の前に飛んできた虫を払った。季節柄にしても少し早いと思うが、少し前から虫が飛んでいるのがやけに目につくようになったのだ。

「あの、それうちじゃないと思います。俺、今日は日中、家にいなかったんで…」

 夜ならまだしも、昼に音がするわけがない。

「はぁ!? そんなわけないでしょ! 3階にはあなたしか住んでないでしょ!」

「……。そうなんですか? すみません、よく知らなくて」

「ご家族にもよく言ってくださいよ!」

「えっ、でもうちは…」

「とにかく! お願いしますよ!」

 なにがとにかくなのかはわからないが、とりあえず相手の気はすんだらしい。

 それにしても、と直哉は思った。3階には直哉しか住んでいないのは本当だろうか。直哉の曾祖母くらい高齢の女性と3階ですれ違ったことがある気がするのだが。

 部屋に入ったところで、違和感を覚えた。シンクに入っていたはずの食器がきれいに洗われている。

 不思議に思いながらも、直哉は部屋に入って鍵をかけた。どこかの部屋のインターホンがかすかに聞こえた。

 そういえば、先程の女が言った、「家族」とは誰のことなのだろう。

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