第2話 出会った日・後
「お邪魔します」
家に上がるなり、ハチスは礼儀正しく挨拶をした。こういうところを見ると育ちの良さを感じる。天使の育ちの良さってなんだ?
俺は軽く返事をしてリビングへと向かった。ソファに座ってテレビをつける。ハチスはきょろきょろと辺りを見回していた。足は洗ってないが、ほとんど汚れてないから良しとした。
「ここがあなたの部屋ですか?」
「ああ、そうだ」
「これは?」
テーブルに置いていた封筒に注目している。俺は曖昧に返事をしてそれをしまう。ちなみに、今月分の家賃と遺書が入っている。
「きれいですね」
「まあな」
生前整理をしたから。と言っても本と服くらいだが。売ってみると一か月分くらいの生活費になった。家具はそのままにしていた。この前大掃除したばかりだから汚れてはいないはずだ。ハチスは部屋の中をあちこち見て回っている。楽しそうな表情をしていた。
「何か面白いものでも見つけたか?」
「いえ、何もありません」
こいつは何をしに来たんだ?
「暇ならそこのパソコンでネットサーフィンでもしてろ」
「はい、わかりました」
ハチスは素直に従うと、パソコンの前に座った。天使でもインターネットはやるのか。
俺は突然の来客へのおもてなしをどうしようかと悩んでいた。冷蔵庫は空っぽだ。まずはお茶を出すべきか? それとも出前でピザを取るべきだろうか? というか天使って何食べるんだ?
そんなことを考えているうちに、ハチスはマウスを動かし始めた。カチカチというクリック音だけが部屋に響く。
「何を調べてるんだ?」
気になって声をかけてみると、ハチスはこちらを振り向いて答えた。
「あなたについて調べています」
「俺のことなんか知っても何も面白くないぞ」
「いいえ、興味深いです」
ハチスはそう言って微笑む。天使というのは人間のことを見守っていると聞くし、情報収集するのが好きなのかもしれない。
「ところで、天使は食事とかどうするんだ? 必要なら出前取るけど」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。私は天使ですから、食事を摂らなくても生きられるんです」
「へぇ……」
俺は感心しながら相槌を打つ。とはいえ完全に信じているわけではない。はちみつとか木の実とか、そういうオーガニックなやつをこっそり食べているんじゃないか?
彼はいらないと言ったものの、何も用意しないというのも居心地が悪い。
コンビニに行き、適当に買ってきた。リビングテーブルにおにぎり二個とペットボトルを並べる。ハチスは自分の前に置かれたそれを見て不思議そうにしている。
「なんですかこれ」
「おにぎりだよ。見たことないのか?」
「いえ、あるんですけれど。これを私に?」
ハチスは興味津々といった様子だった。俺の手からそれを受け取るとまじまじと見つめている。両手でつまみながらくるくる舐め回すように見る。俺はそれを横目で見ながら、買ってきたペットボトルに入った麦茶を一口飲んだ。で、自分の焼肉おにぎりを食べる。
ハチスはこちらをじっと見たかと思うと、手の中のそれにそのまま齧り付いた。おかかと書かれたフィルムの歯触りに首をかしげている。
「おい馬鹿」
俺は慌てて彼の手からおにぎりを奪い取った。
「お前、天使なのにこんなものも知らないのか?」
「はい、知りませんでした」
「お前なぁ」
これは厄介だ。パソコンのやり方はわかるのにおにぎりすら食えないとは。どういう知識の偏りなんだろう。
俺はフィルムを剥いでやると、彼におにぎりを返した。ハチスは恐る恐る口に含むと、そのまま「美味しいです」と言った。だが、口に入れたものを咀嚼しようともしない。俺が自分のおにぎりを食べてみせると、彼も真似して顎を上下させた。くるみ割り人形みたいだ。さっき美味しいと言ったのも、人間に対しての礼儀なのかもしれない。礼儀ってなんだ? よくわからん。なんだこいつ。そもそも味覚があるのか?
それから、ハチスはおにぎり一個の完食に一時間かけた。なぜか見ていてずっと飽きなかった。彼は最後の一口を飲み込んで、喉を何回か撫でた。こちらを見て『どうでしたか?』とでも聞きたげな彼に質問する。
「それで? 俺を幸せにしてくれるって言ったけど、具体的に何するつもりだよ」
「もちろん、あなたの望みを叶えますよ」
「俺の願いか……そうだな……じゃあ、世界平和かな」
冗談半分で言うと、ハチスは少し考え込んだあと、真面目な顔つきになってこう切り出した。
「あなたの言う通り、それが私の使命なのでしょう。しかし、申し訳ありませんが、それはできません」
「どうしてだ?」
「私の力では到底及ばないのです」
「ふぅん。まあいいさ」
なんだか、いろいろがっかりだ。彼がガチ天使かどうかというのは、差し置いてもだ。神というのは万能じゃないんだな。
俺はテーブルに頬杖をつく。ハチスはしばらく黙っていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「あなた自身には特に望みは無いのですか?」
「そうだな……」
俺はハチスを試すつもりで、瞳を見た。
「俺のこと養ってみる?」
「はい、わかりました」
あっさり了承されてしまった。
「えっと、俺の言いたいことわかってるか?」
「はい、つまり、私があなたの面倒を見るということですよね?」
「まあ、そういうことだが、お金とか、そういうのも稼いできてくれるわけ?」
ハチスは自分の胸に手を当てると、宣言した。
「私は天使です。人間を幸せにする義務があります。ですから安心してください」
「言ったな? 神にかけて誓えよ」
彼は一瞬息を呑んだように見えた。が、
「はい、主の御名にかけて!」
「よっしゃ」
これで俺は働かなくて済むし、好きなだけ引きこもれるわけだ。しかも美人の同居人付き。なんて贅沢なんだろう。
すると、ハチスは不安げにこちらを見て、「でも……」と呟いた。
「私、料理ができません」
「ああ」
さっきのおにぎりの件を踏まえて、そうじゃないかと思った。
「洗濯とか掃除とかも、やったことがありません」
天使というのはもっと何でもできるものだと思っていた。でもそうじゃないらしい。むしろ欠陥品なんじゃないか?
俺の考えを読み取ったのか、ハチスは慌てた様子で付け足してきた。
「でも、天使ですから! きっとすぐに覚えてみせます!」
必死な様子が面白い。
「別にいいよ、ゆっくりで」
「いえ、やります。絶対に」
やる気満々といった感じだ。なるほど、彼は無垢というか、成長途中なのかもしれない。幼稚園児や小学生のような。
「わかった。じゃあ、最初は俺が教えてやるから覚えてくれよ」
「お願いします!」
彼は俺の手を握ってきた。
「ところで気になっていたんだが、お前ってどっちなの?」
「どっちとは?」
「性別」
未だに判断が付かなかった。体型は中性的だし、声は聞こえるのだが頭に直接響く感じなのでわからない。
「そうですね。今は男性体を取っています」
ハチスはそう言って立ち上がると胸元まで垂れていた髪を背中へ流し、上を向いた。喉仏とか下半身とかに注目してみると、男に見える。
「天使に性差はないので」
「へぇ。女になったりできないのか?」
「なれますよ。今、なってみてもいいですか?」
「おう」
そう答えると、ハチスは服を脱ぎ始めた。
「ちょっ」
ストップ! と手でジェスチャーをかける。
「どうしましたか?」
ハチスは不思議そうな顔をしている。
「いや、いきなり脱ぐなよ」
「では、着たままにしますね」
「あぁ、うん……」
俺は横目で彼を見る。袖が、白い。俺の血が付いていたはずなのに綺麗になっている。ひょっとしてそういう能力もあるのだろうか。自浄作用……ちょっと違うか。
彼はシャツのボタンを留め直すと俺の傍にやってきた。
「どうですか?」
「え、もう?」
彼の体を見ると、胸の膨らみや腰のくびれなど、女性的な部分が強調されている。ふむ。これはシリコンや肉襦袢の触感ではないな。俺は「おぉ……」と感嘆した。
「すごいな。完璧に女の子だ」
「ありがとうございます」
ハチスは嬉しそうだ。こんなに可愛い子が彼女だったらいいなと思う。いや、むしろ嫁にしたいくらいだ。いや、実質これから嫁みたいなもんか。それに男にもなれるんなら一石二鳥……いや三鳥だ。
「あの、それで、何かして欲しいことはありますか?」
「うーん、とりあえず一緒に風呂入ろうぜ」
「おふろですか、私は天使なので水浴びは必要ないんですよ」
「じゃあ、俺の背中流してくれる?」
「わかりました」
俺はハチスを連れてバスルームに入った。彼にシャワーを渡して使い方を教えながら、ちょっと遊んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます