天使(生活保護)
片葉 彩愛沙
第1話 出会った日・前
確かハチスと初めて会った日のことだったと思う。
俺は廃ビルの屋上でタバコを吸っていたのだが、そこへ彼がやって来たのだ。その時のことは鮮明に覚えている。空は青く澄んでいて雲ひとつなかった。風が強く吹いていたので、少し寒かったのを覚えている。
「あなたを幸せにします」
突然、頭にそんな声が響いた。誰だと思い振り返ると、そこにいたのがハチスだった。
ウェーブのかかった綺麗な長い金髪が、風を包むカーテンのように揺れている。屋上の中央にいるそいつは薄い唇を動かし、同じ言葉を繰り返した。
「あなたを幸せにします」
「は?」
意味がわからなかったので聞き返すと、彼はまた同じことを口にした。
新手の宗教勧誘か? 体張ってんなぁ。タイミングとしてはギリギリアウトだ。
「悪いが他当たれ」
「私はあなたが良いのです」
まさか食い下がるとは思わなかった。
「っていうかお前誰だよ?」
「申し遅れました。私の名前はハチスといいます。主なる神に遣わされし天使です。以後よろしくお願いします」
ハチスはぺこりと頭を下げる。胡散臭すぎる自己紹介だ。下手な詐欺師でも『天使』はチョイスしないと思うが。だが、不思議と嘘っぽい感じでもなかった。
彼は、整った顔をしていて美形だ。初めは女かと思ったが、話している感じは男っぽい。細めの体で、性別がはっきりしない感じ、なるほど天使っぽいかもしれない。しかし、違う部分もある。服装がワイシャツとジーパンってのは百歩譲っていいとして。
「天使ってのは輪っかとか羽とか生えてるもんじゃねえのか?」
「それは人間のイメージによる産物ですね」
「へぇ……じゃあ本当に天使なのか?」
「ええ、もちろんです」
自信満々といった様子で言うので、こいつは“ガチのやつ”だと悟った。関わらないほうが良さそうだ。無視して飛び降りようとすると、服を引っ張られた。振り返ると、背後の手すりのすぐ後ろに、彼がいた。顔が近い。灰色っぽいような青い目。一瞬で距離を詰められた。
「どこへ行くんですか?」
「見てわからないか? ここから飛ぶんだよ。止めても無駄だからな」
「止めるつもりはないですよ」
なんだって? 自称天使というくらいだから俺を止めるつもりなのかと思ったがよくわからん奴だな。そう思っていると、不意にもう片手が伸びてきて抱きつかれる。そして寄り添うように頭を付けられる。
「一緒に降りましょう」
ゾクッとする感覚があった。恐怖を感じたというよりはむしろ快感に近い。そのせいで一瞬躊躇してしまった。それを察したのか、すかさず追い打ちをかけてくる。
「怖いですか? 大丈夫。私がついています」
俺が立ち尽くしていると、ハチスは手すりを乗り越えてこちら側へとやって来る。そして、優しく微笑みかけてくる。
「安心してください。怖くありませんよ。ほら?」
彼は両手を広げるとずいっと距離を詰めてきて、俺は慌てて後ずさりした。すると、腕を掴まれる。そのまま引っ張られてバランスを崩し、落下しそうになった。何とか踏み止まろうとするものの、結局は引き摺られるようにして落ちていく。地面まで残り数メートルというところで止まった。重力がなくなったように空に浮いている。
何が起こっているんだ?
不思議に思っていると、ハチスが口を開く。
「危ないので動かないでくださいね。今降ろしますから」
その瞬間、ハチスが手を離し、俺は地面に叩きつけられた。衝撃で息が出来なくなる。吐き気がこみ上げるが腹には何もない。苦しくて咳き込んでいると、ハチスは地面に降りて躓きそうになりながら傍に来た。
「ごめんなさい! 間違えました!」
「おま……っ! 殺す気か?」
「そんなわけないじゃないですか!」
「だったらなんなんだ今のは!」
「あなたを助けるためです。……少々、高すぎました」
こいつの考えていることが全く理解できない。
「あなたが死んだら私は悲しいです」
「そりゃどうも……」
確かに死ぬことはなかったが、代わりにとんでもない目に遭った。全身が痛い。この感じ、どっか折れてる。
「お前天使なんだろ? 治癒魔法とか使えないのか」
「使えませんけど」
役立たずめ。言葉には出さなかったが彼には伝わったようで、「ごめんなさい」と言いつつ涙ぐんでいた。
「でも安心してください。私が居れば平気ですから」
そう言って胸を張るハチスを見て、俺は不安しか感じなかった。屋上から飛び降りて助かったのは事実だから、彼が人間ではないことはわかる。だが、天使だという証拠もないのだ。悪魔とか、宇宙人とかだったらどうする?
命と引き換えに契約でも持ちかけられたらどうしようもないじゃないか。
ハチスは俺の手を握ってきた。彼の手は温かく柔らかい。それから指を絡めるようにして握ってくる。俺は振り払おうとしたのだが、思いのほか強い力で握りしめられているらしく離れない。
しばらく呼吸を頑張りながら脱力していた。明るかった青空はゆっくりと赤くなってきた。その間、奴はずっと俺の手を握り、「大丈夫です、大丈夫」と祈るように額を押し付けていた。しつこい、とっとと救急車を呼んでほしい。が、病院は厄介だ。畜生、詰んだ。と泣きそうな気分になっていると、ふと妙なことに気付いた。痛みが、消えている。落ちたてと比べて、嘘のように引いていた。
もしや、傷が、癒えている?
俺はもう片手をグーパーと動かし、腕を動かす。そして、そっと体を起こした。
「よかった……」
ハチスが笑顔で言いながら、自分の袖を俺の顔にポンポンと押し付けてきた。離すと赤い血が付いていた。俺から流れたものらしい。
夕陽が奴に影を落として、まるで彼の血のようにも見える。
「お前は一体何者なんだ?」
「天使ですよ」
「それは聞いた。お前、治癒魔法は使えないって言ったじゃないか」
「はい、使えませんよ?」
「でも傷が治ったじゃないか」
「私が居たからです」
彼は当たり前のように言う。多分、天使の傍にいればそれだけで傷が治ってしまうということらしい。当の本人はそれを能力だと認識していないようだが。
俺は溜め息をつき、手をさりげなく振りほどいてこう尋ねた。
「これからどうするつもりだ?」
「もちろんあなたの傍にいます」
即答されたので少し戸惑う。まさか一緒に住むつもりなのか? いくら何でもそれはないだろうと思いたい。
「家に、帰らないのか? 家族がいるんだろう?」
「いえいえ、私たち天使はいつでも主と共にあります。そして、これは主の御意志なのです。私の使命なのです」
「じゃあ好きにしろ」
俺は投げやりにそう言い放つと、自宅であるマンションに向かって歩き出した。ハチスはついてきた。まあ、勝手にすれば良いさ。どうせすぐ飽きてどこかへ行くだろう。
それから十分くらい歩くと、足音がしないことに気が付いた。振り返ると、彼はついてきていた。こいつ、浮いてる。
振り返られたことが嬉しかったのか、話しかけてくる。
「あなたのおうちはどこですか」
童謡か。
「歩いてあと四十分くらい」
タクシーで金を使いきったから歩くしかない。すると、彼はそっと手を握ってきた。
「飛びましょうか?」
「飛ぶって……飛ぶのか?」
「はい。そのほうが早く着きますよ」
「遠慮する」
うっかり落とされたらたまらない。どうやら治癒能力は即効ではないらしい。だから、瀕死のまま何時間も苦しむことになる。
それから手を握ったまま、ハチスは地面に足を着けて、ゆっくりと歩きだした。俺の真似をしているようだ。ようやく気付いたが、奴は俺より少し背が低い。そして裸足だった。痛そう。思わず俺もゆっくりになってしまう。彼が躓いたりこけたときはグッと引っ張られるが、たまに浮いてしまったときはまったく重みを感じない。人間サイズのでっかい風船だ。
夜も更けてきたので、いい加減早く帰りたい。俺はハチスを負ぶってやった。軽すぎる。
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