04:愛すべき妹の愛らしい妹日
誰しもね、相手を理解したいわけじゃない。
理解した気になれたらそれでいいんだ。
〇
「つまりお前は俺を売ったんだな」
「そういう捉え方もできるよね」
時刻は21時過ぎ。
わたしが体験した放課後の顛末を報告するため、自室のベッドに寝そべりながらレンちゃんと通話していた。
一連の流れを掻い摘んで説明する際、伏せておきたい部分も多分にあったので言葉足らずもむべなるかな、レンちゃんに届けた情報を総括すると、確かに売った形となるだろう。
受験シーズンに間違えて買った商売繁盛の御守りが関係しているのかもしれない。神様ってすごい。
「ごめんね。ちょっと協力してくれないかな」
「もちろん。元々俺のせいだしな。それに言っただろ、お前のワガママには慣れてるって。だから謝るなよ」
「それだと一度や二度じゃないように聞こえるけど」
「一度や二度じゃねえんだよ」
やれやれ、と聞こえてきそうなニュアンス。しかし、偏った受け取り方かもしれないけど、どこかレンちゃんも楽しそうに感じられた。
ふと昔を思い出し、わたしは部屋の窓を開けて外を見る。
少し離れた隣の骸輪家、その二階。わたしの部屋と丁度向かい合う位置にある窓からレンちゃんが顔を出していた。
片手を小さく振り気取っていたから、わたしは肩を竦めてかっこつけを粉砕する。
「それで? 俺は何をしたらいいんだ」
「さっき話したリノちゃんって子と会って欲しい」
いまだ引き合わせることに不安は尽きないが、リノちゃんは意外と愉快な子だったし、冷静に判断する力も備えていたから今の所ギリギリアウト。
アウト、なんだけど。
セーフの範疇に収まるでしょう、と、どうも理性と別の部分がわたしの判断に異議を唱え、境界線上でせめぎ合いつつ緩やかに決定をすり替えようとする。
そこまでされて悪い気はしないので受け入れてしまったのだった。
ギリギリセーフ。
出来れば今日のうちにもうちょっと話しておきたかったけど、あの後リノちゃんは黙り込んでしまい、わたしがどう声を掛けようか思案するわずかな間隙を突き、見事に姿を消していた。
まあ、顔と名前は分かったし、明日早い段階で見つけ出して打ち合わせをするつもりだ。簡易的な取り扱い説明書を作ってレンちゃんに送ろうと思う。
「17時だよな。会うだけでいいのか?」
「うん。それ以外はなにもしなくていいから」
例えば、アリバイ工作。
浮気が常態化しているレンちゃんなら頼むまでもなく行うだろうから、今回はあらかじめ、その必要はないと告げておく。
するとレンちゃんは沈黙した。
「どうしたの? 電波悪い?」
「……いや、驚いた。俺としては助かるけど。場所は? どこに行けばいい?」
「レンちゃんの部屋」
間髪入れずに答えるとレンちゃんから間抜けな単音が放たれ、可笑しかったからわたしも真似した。
変なの。
ややあって、話の本流へ戻る。
「お前はまた勝手にそんな……というかそれ大丈夫なのか? その――」
「煉夏ちゃんはわたしがなんとかする」
レンちゃんが言い切るより先に、わたしから。
なんとかする。
現時点で具体的な考えはなく、運任せな場当たりの割合が大きいけれど、決めたのだ。
煉夏ちゃんがわたしを無視するというのなら。
無視できない存在になればいい。
そう決めた。
ただし、決めただけ。
ただ決めただけ。
決意することそれ自体に意味なんてなくて、いきなり人は変われないし、いきなりでなくとも果たして自分が変われるのかどうかも自信はない。
多分変われない。
変われないからわたしはここにいる。
変わりたくないからわたしは、ここにいる。
心の底に欲張りな自己を押し込んで――けれど押し込みきれなくて、退屈を嫌いながら退屈に甘んじて、変化を望みながらも変化を拒む、至極明瞭な不安定を生きている。
ゆらゆらと、どっちつかずに揺蕩って、生きている。
もしかするとそんな部分が煉夏ちゃんの気に障ったのかもしれない。
あの子はたった一つを目指して歩んでいける子だから。
だから、わたしも。
向き方くらいは決めたいと思う。
「なんとか、するから」
自分を奮起させるため、寒天のような頼りない意志ではあるものの、退路を塞ぐ宣言をした。
「…………分かった。だったら俺も諸手を挙げて協力させてもらう」
「もろこし輪太郎」
「は?」
「ありがとうって言ったの」
照れくさくなったのを悟られないよう当意即妙に答えるわたしだった。
恥ずかしい。こんなわたしを見ないで。
「なあ岬葉」
「な、なによ」
「俺からも一つ頼みがあるんだけど」
頼み……?
そりゃあ出来る限りは断らないけど、レンちゃんがわたしにストレートな頼みごとをするなんて珍しいことがあったものだ。時の流れを感じる。
「えーと、ちょっと待っててくれ」
そう言ってレンちゃんは一度顔を引っ込める。
カタン、に続いて何かをガサゴソ漁る音。テーブルにスマホを置いて鞄かなにかを漁っているのかな。
もしくは睡眠導入。
動画配信を始める手伝いをしてくれという話かもしれない。
わたしも移動してベッドへ横たわる。
意識がとろりとしてきたその時、向こう側に異変が起こった。
本日二度目、レンちゃんが素っ頓狂な声を上げたのだ。
これは何事だと野次馬根性に火が灯り、わたしはは勢いよく身体を起こし電話口に耳を澄ませる。
「にーさん♡ ふふふ」
「きゅ、急に入ってくるのはやめてくれるか?」
「ふふふふふ。にーいさん♡」
聞こえてきた声にわたしは身を震わせた。
砂糖菓子みたいな甘ったるい声。
煉夏ちゃんだ。
「お風呂の準備ができました」
「俺はさっき入ったよ」
「私がまだなんです。これがどういう意味かは考えるまでもありませんね、兄さん」
「準備ってそういうことか」
うわあ。
相変わらずお兄ちゃん大好きだなあ、煉夏ちゃんは。
久しぶりに聞く煉夏ちゃんの声に感慨ひとしお。
昔はわたしにもあんな風に甘えてくれてたのにな。
いま現在レンちゃんがどういう状態にあるのかは分からないけど、わたしはこの盗み聞きが放つ背徳感にすっかり取り憑かれていた。
危ない橋を渡っているのは分かるけど、止められない。
「可愛い妹を好きにしたいと思うのは兄として当然のことです。しかり」
「い、いいから風呂入ってこいって。髪乾かすのは手伝うから」
「もう! またそんな意地悪を言って!」
いじけた風で声を弾ませる煉夏ちゃんと、狼狽えながら追い出そうとするレンちゃん。
恐らく電話がバレないように身体で隠しているのだろう。今の内にわたしが電話を切れば問題解決。
でもごめんね。
わたし、切らないよ。
「兄さんはいつもそうです。そりゃあ手伝ってくれることもありますけど、寝ちゃうことの方が多いじゃないですか! 互角の時代が終わりました!」
「ごめんな。今日は絶対大丈夫だから、ほら行ってきな」
「むう。その前に、いつものあれやっておきましょうか」
電話越しでも表情が分かるくらい嬉々とする煉夏ちゃんは、ふふふ、と焦らすように笑う。
いつものあれ?
なんだろう。
「今日は四通貰いました。それでは読みますね。こほん。こほんこほん。可愛いですか?」
「可愛い可愛い。分かったから早く済ませてくれ」
「やった。ではいきます」
わたしは息を呑み呼吸を止めたまま静かに待った。
「骸輪煉夏様、始めまして。僕は一年の
滑舌よく長広舌を振るっていた煉夏ちゃんは、そこで喋るのを止めた。
終わり、でいいのだろうか。
聞き終えて最初に浮かんだ感想は、なにこれ。
「勝手に覗いてる立場だからとやかく言いたくないけど、大丈夫かそいつ」
「恋は人をダメにするって言いますからね」
他人事のように言って、煉夏ちゃんは同じような内容の同じような不気味をあと三度繰り返した。
一応、自分が貰ったラブレターを読み聞かせていることは分かった。
何をしているかは分かったけど。
何故そうしているかは分からない。
その答えは煉夏ちゃんの口よりもたらされた。
「嫉妬しましたか?」
「しないしない。俺はお前が心配になってきたよ」
「やった。私で頭がいっぱいなんですね。それはもう同棲ですよ」
「今も一緒に住んでるだろ」
兄を嫉妬させたいが故の行動らしい。
常軌を逸している。
「ではこの手紙は枕カバーの中に保管しておきます」
「自分の枕でやってくれるか? どうして俺の部屋に、それも枕の中に入れるんだよ」
「兄さんが怒るからですよ。私としては燃やしてしまいたいのに。しかしまあ、それならそれで利用価値はあります。部屋に充満した恋心に中てられた兄さんが、夜這いを仕掛けてこないかと毎夜毎晩期待していますよ。どうですか兄さん♡」
乙女チックな声色でそんな風に言われたら、わたしならその気になっていると思う。
可愛いなあ、煉夏ちゃん。
「ずっと聞こうと思ってたというか言おうと思ってたというか……お前がいままで貰ったラブレターの数、合計で学校二つ分くらいになってるよな」
「鼻が高いですか」
「違ったら謝るけど……もしかしてお前、自分で書いてないか?」
いきなり恐ろしいツッコミを入れるレンちゃんだった。
まさかそんな、いくらなんでも自分で書くだなんて考えられ……ないこともないけど。
「流石兄さん。お見通しでしたか」
認めちゃった!
「その日の兄さんの体調を見て、必要な量に達しない場合は自分で補填しています」
「お前には何が見えてるんだ」
「ちなみに今日のは全て本物です」
「くそっ、銅島くんは実在しないでほしかったのに」
楽しそうに掛け合いをする二人。
羨ましい、そこにわたしも混ぜて欲しいものだ。
心のモヤモヤを振り払うため枕に頭を埋めると、思わず溜息が出てしまった。
はあ、と煉夏ちゃんが繰り返す。
「――っ、ほらもういいだろ! 風呂入ってこいって」
「ふむ。入ってきた瞬間から感じてましたが、兄さんなにかを隠してますね」
煉夏ちゃんの指摘にわたしの肩は跳ね上がった。
まずい。ごめんレンちゃん気が抜けてた。
名残惜しいけど切ろう、と終話ボタンに手を掛けようとして、しかしそれは一手遅かった。
「これですか。
「――っ! お前どうやって」
「もしもし。こんばんは基井さん」
煉夏ちゃんがわたしに語り掛けてくる。
基井梶郎とはレンちゃんが登録したわたしの偽名だ。クラスメイトの名前だったことはいま初めて知った。
どういった動きがあったかは不明だが、レンちゃんはスマホを奪取されたらしい。
焦ったわたしは裏声で応じる。
「こ、こんばんは。妹さんだよね。ごめん、聞くつもりはなかったんだけど、つい」
「へえ」
冷たい声。
さっきまでの和気藹々を知っているのも相まって精神的にかなり参る。
助けてレンちゃん。
わたしのせいだけど。
「煉夏、そいつは悪くない。返してくれないか」
「私の真の姿を知った者は生かしておけません」
大魔王みたいなことを言い始めた。
「いやほんとごめんね。すぐに切るから」
「ここで切ったら私は信念に基づきこれからあなたの家へ踏み込みます。兄さんのクラスメイトの情報は住所をはじめ家族構成まで把握していますから、逃げられるなんて思わないでください」
「あはは……怖いなあ」
その発言を折に、どたんばたんと扉を開閉する音がした。
階段を下りる音。
再び、扉の開閉音。
三拍子。
嫌な予感がわたしの背中を上から下まで全力で駆け抜け、窓から外を窺うことは躊躇われた。
来てる……?
どうしよう。
ここで無理矢理電話を切っても本物の基井なにがしが被害を受けることはないだろう、煉夏ちゃんは……既に相手をわたしだと看破している、と思う。
ちょっと嬉しくなってしまったのは秘密だ。
心にゆとりを取り戻したのも束の間、次はインターホンの音が聞こえてくる。
これがどっちから聞こえてるのかは考えるまでもない。
急転直下。
心の準備が整う前に対面は難易度高すぎるって!
そして聞こえてきたのはわたしも毎日聞いている――母の声だった。
「あらあら。久しぶりね煉夏ちゃん」
「お久しぶりです。こんな時間にすみません。すぐにお暇しますのでお邪魔してもいいでしょうか」
「ふふ。泊まっていってもいいのよ」
すごい行動力! あっという間に真下へ来てる!
「妹さん? いまどこにいるのかな?」
「どこだと思います?」
「考えたくないなあ……」
妨げようのない邂逅が目前まで迫っている。
誤魔化そうにも妙案は浮かばず――こうなったらもう腹をくくるしかない。
今日まで虚仮を巧みに着こなし生きてきたわたしができる事はただ一つ。
なんとかなるなんとかなるなんとかなる。
そう自分に言い聞かせながら立ち上がりデスクの椅子に腰かけ、背筋を正し顎をあげ、尊大に構えたその時、部屋の扉が開いた。
立っていたのは幼馴染――見目麗しき大和撫子。
「久しぶりだね、煉夏ちゃん」
「……私と兄さんに近付かないよう言ったはずですが」
威圧的な切れ長の目が、敵を射殺さんとばかりにこちらへ向けられる。
煉夏ちゃんがスマホを持つ手を下ろしたのを見て、わたしも同じようにした。
「よく分かったね。わたしのこと覚えててくれたんだ」
「自分で名乗ったじゃないですか。夕方、電話で。よくもまあ姉などと名乗れたものですね」
夕方。
言われて自分の行動を顧みると、思い当たる節があった。
レンちゃんとの一回目の電話、そうかあの時、あれは電波が悪かったわけではなく、煉夏ちゃんが応答していたわけだ。
だから喋らなかった。
それなのにわたしはペラペラと自分から……バカすぎる。
いくらレンちゃんが上手く迷彩を施しても、隠すべき対象が自由に動き回るのでは台無しだ。
お前は決定的に危機感が欠如している――と、過去に誰かがわたしを評したことを思い出す。
正鵠を射た評価だと思う。しかし自覚はしても直らない。
「こそこそ連絡を取り合っているということは――え」
殺気だけで全てを圧し潰そうとしていた煉夏ちゃんが、急にぽかんとした表情をする。
そして。
「なんですかそれ」
真っすぐわたしを指さしての問い。
わたしは首を傾げて続きを待った。煉夏ちゃんが気まずそうに視線をずらす。
「その……首」
言われてようやく、首に呪いを受けていたのだと思い至った。
そうだ、リノちゃんの奇行のせいで首に奇妙な痣がある。
父が動揺のあまり寝込み、母が執拗に詳細を知りたがった痣。
煉夏ちゃんは間違いなく、よくない勘違いをしていた。
「これはちょっと色々あって。煉夏ちゃんが想像しているようなことはないよ」
「……ふん。まあ私はあなたが誰と何をしていようとどうでもいいんですけど」
「どうしてそういうこと言うかなぁ」
目を泳ぎに泳がせた煉夏ちゃんは、落ち着きを取り戻すと再び、矢のような視線をわたしへ刺し付ける。
「あなたが兄さんと何を企んでいるのか、いいです聞かないでおきましょう」
「え、いいの?」
「正確には聞く必要がない、ですね。自分から話してくれるまでに指は何個残るでしょうか」
そう言ってサディスティックな笑みを湛える愛しの幼馴染。
わたしの指を個で数えてる……昔からやり方を選ばない子だったから、本気でやりかねないのが恐ろしいところだ。
「あの……照らし合わせるだけの数がないとただの憂さ晴らしになっちゃう気が。ババ抜きとかにしない?」
「そんな仲睦まじい光景を誰が喜ぶんですか?」
わたしわたし。
煉夏ちゃんは部屋のあちこちを見回すと、最後に窓の方へ視線を遣って言う。
「今日は月が綺麗ですね。月の重力は地球の6分の1ということですが、さて、愛の重力はどのくらいなんでしょうね」
「えーっと……地球三個分くらい?」
「そういう適当に答えるところが気に入りません」
わたしなりに真摯に向き合った結果なのだけど、そこまで言わなくてもいいじゃん。
分かるわけないし。
手を伸ばした煉夏ちゃんが層一層目つきを鋭くわたしに一歩近付く。
「愛は何より重く愛の重さに人は死にます。たかが人間ひとり圧し潰すくらい訳もなく――」
「やめろ煉夏!」
「はいっ!」
不意に現れたレンちゃんが、号令のように強い口調で煉夏ちゃんの行動を抑えた。
煉夏ちゃんは意志と裏腹に反射で返事をしたようで、直立不動のまま唇を尖らせ、不満げにしている。
可愛らしい。
「どうやって部屋から出たんですか?」
「ドアが開かなかったから窓から出た」
「不覚です」
息を切らしたレンちゃんは、煉夏ちゃんの肩を掴んで引き寄せると入れ替わりでわたし達に割って入った。
「いきなり押しかけて何してたんだ」
「……だってあいつが」
「あいつとか言うな」
「兄さんが私に黙ってコソコソ企てるからじゃないですか。兄さんは悪くないですけど」
案の定わたしに全責任があるという認識である。
予想していたとはいえ声が付くとへこむ。
けれどもわたしは寛容に努め、つまりは気にしてないフリをする。
「ちょっと話してただけだからさ。あんまり怒らないであげてよ」
「その余裕がムカつきます」
レンちゃん越しに見えるむすくれ顔には兄への親しみとわたしへの敵意が同居していて、感覚的に6割くらいがわたしへの悪感情。
6割くらい、わたしを意識している。
「ほら帰るぞ。悪かったな岬葉」
「兄さん! 名前で呼ぶのやめてください! ほらもう帰りましょう」
兄の背に回り押しながら、抱き着いて顔を押し付けながら立ち去ろうとする姿を見て――二人がこの場からいなくなろうとするのをただ眺めて、冷やりとした寂寞感が去来する。
また、一人になる。
三人揃って。
二人だけがいなくなる。
仕方がない。
仕方ないことは、仕方がない。
――それはもうダメだよね、リノちゃん。
「待って」
わたしは立ち上がって二人を引き止める。
「さっきさ、何かわたしに頼みがあるって言ってたよね」
「お、おう……言ったけど、今は」
「いま言ってよ」
わたしが言うと、レンちゃんは困惑し、煉夏ちゃんは顔を顰めた。
見たいのはそんな顔じゃないけど。
わたしを、見ている。
「分かった。いまじゃなくてもいいよ。時間はあるし。明日から一緒に学校行こう」
「は?」「は?」
兄妹揃って同じ音に同じ顔。
「終わったら迎えに来て。一緒に帰るから。そうだ、お礼にお弁当とか作っちゃおうかな」
「こ、の――」
渋面のまま迫ってきた煉夏ちゃんに肩を掴まれ、そのままベッドへ押し倒される。
わたしを覗き込むようにして、帳のように垂れた髪が、煉夏ちゃんの表情をわたしだけのものにする。
「煉夏っ!」
止めようと寄って来るレンちゃんを、左手を出して止める。
兄がいる状況で。
ようやくわたしだけを見たね、煉夏ちゃん。
「おかしくなったのは私の耳か、それともあなたの頭か。どっちでしょうね」
残念ながらどちらも正常で、強いて言えばおかしくなったのはわたし達、だ。
わたしは目だけをレンちゃんの方へ向けて、言う。
リノちゃんを真似て。
リノちゃんのように。
「返事は?」
「……わ、分かった」
返答と同時に、煉夏ちゃんの顔全体に広がっていた怒りが、すん、と消え――無表情になった。そして鼻から赤い液体が垂れ、わたしの顔に落ちる。
「鼻血、出てるよ」
「――――ふふ。ふふ、ふふふふ。ふふふふふふふふふふ」
血を拭うこともせず口元だけ笑った煉夏ちゃんが、空疎な笑い声を放ちながら、ゆらりと立ち上がる。身体ごとレンちゃんを向き小走りで寄っていく。
そして、表情は見えないけれど、わたしの前では見せなかったあどけなさを、わたしの部屋に、流し込んだ。
「にーいさん♡ 兄さん兄さんにーいさん♡」
「……鼻血出てるぞ。なにか拭く物を」
「舐め取ってください。兄さんいつも言ってるじゃないですか。同じ血が流れてるんだって。だったら何も問題ないですよね」
「分かったから、ほらもう帰るぞ。悪かったな岬葉、いきなり押しかけて」
気にしないで、と答えるとレンちゃんは済まなさそうに煉夏ちゃんの背を押しながら部屋を出る。
その間際に一度振り返り、
「約束だからな」
そう言い残して今度こそ確かに去って行った。
わたしは寝ころんだまま手を振って、その手で顔に付いた血を拭う。
赤黒い。
この血を舐めたらどうなるのだろう。
煉夏ちゃんの気持ちがいくらか理解できるだろうか。
わたしも血で繋がることができるだろうか。
さんにんに、なれるかな。
――――。
「なんてね。そりゃ無理か」
起き上がりデスクの椅子に座り直す。
これは落ち着かないが故の行動だったけど、結果的に失敗だった。誓って同年代の平均体重を上回っていないわたしが座った途端、ベキッと嫌な音がして、背中から思い切り床に叩きつけられる羽目となったのだ。
びぇ、という情けない声が自分から出たことに驚いて、そして恥ずかしくなった。
疲れてるのかな、わたしも椅子も。
恥ずかしさを振り払うため意識を折れた部分へ転じると、無視できない異質が飛び込んできた。
なにこれ。
支柱パイプが真ん中から折れている。
いや、折れているというのはこの場合当てはまらない。
捩じ切れている――それすらもこの場合、正しくないように思う。
捩じ切れたのではなく、捩じ切られた。
こちらの方がしっくりくる。
パイプの両端を掴んで雑巾を絞るようにした、捩り切った形。
用法を守っている限りあり得ない破断面。
意図的に外部から力を加えなければ、こんな挙句になるわけがない。
無作為ではなく作為的。
根拠は無いけれど、そう感じる。
特殊能力――リノちゃんがそんな言葉を口にしていた。
眼前を覆う無数の上履きや自由自在の神出鬼没、活殺自在の落丁本。思い返せば特殊能力を冠するに相応しい出鱈目っぷりだ。
その彼女が煉夏ちゃんには通用しない――と、それはすなわち、煉夏ちゃんも何かしらの特殊性を有している、ということでいいだろう。
これは煉夏ちゃんがやってくれたのかな。
もしかしたらわたしにも、自分でまだ気づいていない特殊な性質があるのかもしれない。
素敵な言葉だよね、希望的って。
さて、これが煉夏ちゃんの仕業だと仮定して。
わたしは残酷な仕打ちを受けた椅子の傷口を凝視する。
一片の希望すら持てない程の不可逆。
一度壊れた面と面を、完膚なきまでに否定する意思表示。
二度と噛み合わない。
そう言われている気がした。
考え過ぎかな。
まあいいや。
煉夏ちゃんは煉夏ちゃんだったし。
壊れて直せないというのなら、作り直せばいいだけなんだから。
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