乱視で見える世界の光は美しかった

 その日、私は特におかしかった。いつものように不安で眠ることができず、感情の荒ぶる波に流され、激しい怒りと絶望的な悲しみが押し寄せてきて、


「ここにいたくない」


と、強く思ったのだ。夫が隣で眠るベッドの上で。


 誰に言い訳するでもないが、夫を含めて特定の何かに不満があるわけではない。むしろ、何に不満があるのかわからず、不安で満たされているような。


 突発的な衝動は、私を寝間着のまま外へ連れ出した。


 視力が裸眼で0.02、おまけに乱視。

 秋の夜は肌寒く、金木犀がうっすら夜の匂いに混じっている。ギリギリまで細めて見た次は半月なのに、乱視が酷いせいで細めた目を開けば、大きな丸い月になった。


 田んぼばかりで、近くに川がある長閑なところ。遠くで踏切の音がする。こんな遅くまで電車は走っているし、それを利用している人がいる。そんな当たり前のことは、私をひどく責めているように感じた。

 こんなことを思うのが、すでに正気でない証拠。


 ゆっくりと見慣れた道を、ほとんど見えていない状態で進んだ。遠くの赤信号も、近くの街灯も、走り去る車のライトも、月と一緒で大きな丸い光に見える。

 なんで、綺麗なの。


 そんな能天気な感想を胸に、橋まで辿り着いた。目のせいだけでなく、暗くて今は見えないけど、ここの川は水嵩が浅くて川底の石が見えていることを知っている。


 どうせ、怖くて実行できない。

 夫は、私が家を出たことに気づいたかしら。

 でも今なら見えないから怖くないかもしれない。

 誰か悲しんでくれるのかな。


 支離滅裂のようで、私の中では繋がっている言葉が、橋の欄干へ背中を押した。


 その時、恐らく見えていなかっただけで、欄干にとまっていたのであろう何かの虫が、大きな羽音を立てて飛び立った。


 私は虫が怖かった。

 今、しようとしていたことより怖かった。

 だから、正気に戻ってしまった。


 怖くて堪らなくなって、そのまま家に逃げ帰った。夫は鼾をかいて眠っていた。私はそのままベッドに戻った。


 悲しくて、不安で、寂しくて、不満で、そんな負の感情の詰まった涙ですでに湿った枕に頭を横たえて、さらに濡らした。

 虫が怖かった。そのことだけを考えて目を閉じたら、いつの間にか眠りに落ちることができたのであった。

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