第22話 これはチャンスなのだと。
◆ ◆ ◆
火曜の放課後。
この曜日には朝から夕方まで多くの履修を詰め込んでいた。毎週思う事なんだけど、ラストのひとコマが終わる頃にはもう疲労困憊で、クタクタになっている。不運にも受けたい科目がこの曜日に集中していたから仕方がないんだけど。
それでも何とか講義が終わって、凝り固まった身体をほぐしていたところ。
ちなみにこの講義は、最近仲良しの
帰り支度を始めているが、ペースはのんびりだ。今日はバイトも無いことだし、急いで帰る必要もない。
それに今は、講義室を出ようとする多くの学生がドア周辺に殺到している。わざわざ混雑しているところに近付くのは避けたいので、押し寄せている人が減るまで待っている最中だ。
そんな時、不意に誰かが私の肩をトントンと叩いてきた。
一体誰だろうか。この講義には知り合いは居なかったと記憶しているが・・・
少し警戒心を持ちながら振り向くと、これまで毎日のように一緒にいたグループのメンバーの1人である
・・・あの飲み会の時のメンバー。
そう認識すると、急に拍動が早くなったように感じる。
「わっ、千鶴じゃん!びっくりした!」
出来るだけ平静を装ったつもりだったけどどうだろう。
正直びっくりして声も出ないかと思ったほど。
心の中に
常にフワフワしていて、おっとりマイペースな千鶴だけど、稀に見透かすような、そして冷徹な表情に変化する時があった。私はいつその表情が出てくるかと、酷く恐れていたのだった。
ひとまず表面上は穏やかそうな笑みを浮かべているのを見て安堵する。
「めぐみちゃん、講義お疲れ様。何だか久しぶりじゃない?」
「お疲れ様。本当、久しぶりだよね。瞳ちゃんも久しぶり」
「そうだねー」
瞳ちゃんに対しても同じだった。彼女とはこれまであまり絡んだことがないから、どういったキャラクターなのかいまいち掴みきれていないところがあるけど、あの日を一緒に過ごしたことから避けることを選んでいた。
まあ、元々グループが違うので顔を合わす機会は非常に限られていたことが幸いだった。
普段通りに返答したはずが、どこかぎこちない。発した声が震えている気がするし、上手く笑えているかどうかも微妙だ。
それに頭の回転も酷く遅い。
あの日から、いつも通りに振る舞うことは到底出来なかった。
目の前の2人だけではなく、同じグループのメンバーに対してもそうだった。普段通りに接することも出来ていなくて、意識的に避けてしまっていた。
学校生活を送るうえで、かなり気を付けていた要素だったというのに、今は最低限の交流ですら取れていない。そうした状況から抜け出すことが出来ずに今に至る。
ずっとずっと、心を暗い気持ちが占めている。それは日が経つにつれてどんどん酷くなり、心の平穏はもはや存在しない。これほどまでに辛く自分が惨めだと感じたことはない。尤も、その全ては自らが招いたことなんだけど。
そんな状態で話をする今も、ボロがでないかと気が気でない。勘の良い彼女だからと慎重に考えてしまい、他愛ない言葉でやり過ごそうとするが、普段のように言葉が出てこない。
千鶴とはこれまで、たくさんお話したりして多くの時間を共に過ごしてきたけど、いつまでも話題は尽きなかったし、話し足りないと常々感じたものだった。
ところが今、久しぶりに話すというのに大した話も出てこない。精々聞かれたことに答えるだけで、かなり重症であった。
何もかもが上手く出来ない。
あの日の出来事が、不潔で許されざる事実が、ずっと頭の中にいて邪魔をする。
控えめに言って私を取り巻く状況は最悪で、どれから手をつけて良いのかもわからないまま時間だけがいたずらに過ぎていくのだ。
あの飲み会からもうすぐ一週間が経とうというのに、私は今も前に踏み出すことが出来ずにいる。
考えたくもないが、このタイミングで2人揃って私に話しかけてきたということは、この間の出来事と関連する何かの用があるのかもしれない。
あの日のこと。
二次会のカラオケルーム。他のメンバーが眠り落ちている状況において、彼氏の友人と不貞を働いたこと―——。
自分の目の前には、長く一緒に過ごしてきた恋人が居たというのに、寝ているから大丈夫と言う何の根拠も無い相手の言葉を信じてしまい・・・。
口付けをされ、身体に触れられるが拒むことが出来ずに、むしろ喜びの感情が頭に現れていたのかも知れない。自分の思考がフワフワと宙に浮いているような感覚が続いていて、正常な判断は出来ていなかったと思う。
なされるがまま愚かにも絡み合う2人に破滅を突き付けたのは、寝ていたはずの恋人だった
これまで見たこともないような無の表情で。
後日メッセージでお別れを告げられ、時間はそこで止まっている。私の破滅など些事ではあるが、慶次くんにとって心を壊すようなことをしてしまい、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
被害者ぶるつもりなど毛頭無く、私の愚行を何とか受け入れようとはしているのだけど・・・
それでもこの事実をすべてを受け止めることが出来ず、避けて、向き合うことをせず、ただ隠そうとしている卑怯者のままであった。
同じカラオケルームにいたこの2人に対してもそうだ。
その時の状況を覚えているか尋ねたところ、寝ていて覚えていないと言っており、安易にその言葉を信じ、そしてそのままひた隠しにしようとした。
だけど安心したのは一瞬であり、不安感はまるで消えていない。
少しだけ冷静になった頭で考えると、何故その言葉だけで信じきっていたのか自分でもわからなかった。たったそれだけの言葉でなぜ満足していたのか。
自分にとって都合の良い不確かな情報を、それ幸いと鵜呑みにして目を背ける・・・。つくづくおめでたい頭をしている。そして私は自分をまた嫌いになるんだ。
自らの浅慮に気が付いてしまった今、疑心暗鬼に陥りもはや何の言葉も信じることが出来ていない。
だけど、今さら答え合わせをする勇気なんてのも無かった―――。
そんな私だからこそ、心を覆い尽くす程のどす暗い黒い闇は、遂に今まで晴れることは無かったのである。
されど時間は進んでいた。私の止まってしまった思考などお構いなしに。
お腹は減るし日は昇り沈んでいく。学校に出て講義にも出ないといけない。流れるように過ぎていく毎日、問題からずっと逃げ続けることもできない状況下で、いっそのこと消えて無くなりたいと、そんな願望すら出てくる。
私の心の弱さが招いた愚行を吐き出せば、きっと皆が軽蔑する。
そう思うと全てが嫌になり、だからこそ実は当時の状況を知っていたもしくは今後知りうる可能性が大いにあるこの2人と接触するのは気が引けた。
ネガティブな思考はまるで纏まらず、矛盾しどんどんと混沌を極めていく。
いや、本当はすべきではことは分かっていた。右に左に反れたとしても最終的に辿り着く答えはいつも一つだったから。
そう、頭では理解していたのだ。
―—このままではいけないと。私が前に進むには、逃げずに一歩足を踏み出すことが必要なのだと。
あらゆることに向き合いもせず、元通りとはいかないと思う。自分も相手も傷つかずになんて、そんな都合の良い方法なんて間違いなくないから。
だけどその一歩が重く、どうしても前に進めなかった。
話したい。だけど話せない。
話せない。だけど話したい。
話した先は暗闇か、それとも・・・
結局、鉛のように重い身体はとうとう今の今まで動くことはなかった。
改めて2人を見る。いつもの可愛らしい笑顔で千鶴が、感情を探らせないような微笑みで佇み、後ろの位置にいる瞳ちゃんは少し強張った顔付きでこちらを伺っている。
少しの諦めの感情からか、いつもと様子が違うことが何となく分かる。
情けないことに、私には思い当たることが多すぎた。
隣にはいつものグループのメンバーではなく、瞳ちゃんの姿もあることから、やはり例の飲み会のことなんだろうね。
「・・・あの、用があるんだよね?」
「うん、このあと少しいい?」
千鶴の私へ向けている目の鋭さが変わる。微笑んでいるのは変わりないんだけど。
久しぶりに見たその表情は、周りの温度まで冷たくするかのようだった。死刑宣告を受けたかのように、その目を見てもともと疲労困憊だった体が更に重くなる。
具体的にどういった話をされるのか不安を感じるけど、もしかするとこれはチャンスなのかとも思う。
抱え込んできた私の罪を告白するチャンス。
どん底まで堕ちてしまった私に向けられたチャンス。
・・・そう考える私は楽観的過ぎるのだろうが。
既に私のことを心底失望して、友人関係のリセットを告げにきたようにも思える状況だ。
帰りの支度を整えて、千鶴と瞳ちゃんの後ろを歩いていく。あれほど混雑していた講義室も既にほとんど人が居ない。
特に何事もなく、お互い無言で目的地へ辿り着いた。学校近くの全国展開する珈琲店、その2F奥の席に座り、話を広げていく。
自分でも恐怖を感じる中、その一歩を踏み出すことができるのだろうか。
後手後手になり過ぎた私の最後のチャンス―――。
もう、間違えてはいけない。
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