第55話 背中くらい流してあげるね

「テスト近いのに、まさかだったよ」


 僕たちは向かい合って夕食を食べながら、久しぶりにふたりきりでの会話を楽しんでいた。


「うん、でも病気とかって、自分で選べるものじゃないよね」

「それはそうなんだけど。手術したの初めてだもん。麻酔効いてるうちはいいけど、切れたらあんなに痛いって、聞いてなかったよ」

「説明聞けるような状態じゃなかったよね。救急車で運ばれて、すぐに緊急手術だったんだから」


 その時の彼女の痛みは想像できないほどだった。

 僕自身はまだ一度も入院したことがないし、大きな怪我もしたことがなかったから。


「あはは、あれほど痛かったのは初めて。……出産のときとかは超痛いって聞くけど、比べたらどうなんだろうね?」

「それ、僕には比べようがないやつ……」


 理沙が聞いてくるけど、僕が出産できるわけないから、比べようもない。


「だよねー。まー、そのときになったら、今回の痛みがどのくらいだったかなんて、忘れてると思うけどねー」

「痛みとか、辛いことって防衛本能で忘れるようにできてるって聞いた気がするけど、ホントかなぁ?」

「んー、正直、私もどれくらい痛かったかって、もうあんまり覚えてないよ。ただひたすら痛かったっていう、その事実だけ覚えてて、痛み自体はすっかり忘れてるもん」


 確かに理沙が言うことも、なんとなくわかった。

 痛みとかだけじゃない。痒かったり寒かったり、暑かったり。

 身体で感じることって、そのときが全てで、それがなくなるとどうだったかって覚えていないから。


「まぁ、その方がいいよね」

「うん。……でも、この傷は一生消えないね」


 理沙はお腹をめくって、手術の跡を僕に見せる。

 まだ抜糸が終わってないから、雑菌が入らないように透明のテープが貼られていたけど、透けて見える傷口は痛々しい。


「仕方ないよ。だんだん目立たなくはなると思うから」

「だといいんだけど……」


 そう呟いて、理沙は傷を服に隠す。


「このあと、ちょっと勉強したいんだけど、いい?」


 僕は話を変えて理沙に提案する。


「うん。私もあんまり勉強できてないから、真面目にやらないと今回はまずいかも」

「入院中は勉強してた?」

「あはは、実は全然。時間はいっぱいあったんだけど、本ばっかり読んでて……」


 そう言って頬に指を当てた。

 理沙なら多少勉強が足りなくても、成績を大きく落とすことはないんだろうけど、今回は正直僕もやばい。

 いつもなら理沙に教えてもらってたけど、入院してた間は全然勉強できていなかったし。


「じゃ、ふたりで頑張ろう。と言っても、また体調崩さない程度にね」 

「あははー、もう大丈夫だよ。……たぶんね」


 理沙は自信なさげにそう言った。


 ◆


 夕食のあと、僕たちは2時間ほどテスト範囲のおさらいをした。

 理沙に言わせると、まずはざっと見て、どのあたりが理解できてないかを把握することが大事らしい。

 だから、一通りチェックして、駄目なところをこれから重点的に勉強していく、という計画だ。


「ふー、やっぱひろくんは物理の理解度が低いね。数学は苦手じゃないのにね」

「うーん。山田先生の授業って、なんかやる気が出なくて……」


 物理の担当の山田先生は、どうしても僕には苦手だった。


「先生にもよるけどね、どっちにしても後で勉強しないとなんだから、授業中もっと頑張ろうよ」

「善処するよ……」


 理沙の言うとおりだけれど、正直、あの先生の授業を起きている自信はないんだよね。

 僕には眠くなる呪文にしか聞こえなくて。


「明日はみっちり物理頑張ろうね。……そろそろ寝よ。明日も学校だし」


 時計を見ると、もう10時を回っていた。


「うん。それじゃ、僕お風呂入ってくるから」

「――あ、待って」


 理沙はそんな僕を呼び止める。


「どうしたの?」

「ううん。……ねぇ、私も一緒に入っていい? 身体冷えちゃったから」


 確かに、だいぶ夜は寒くなってはきていた。

 でも、これまで何度も身体を重ねたことはあっても、一度も一緒にお風呂に入ったことはなかったのに。


「僕はいいんだけど……」

「じゃ、決まり。私はもう洗ってるから、湯船に浸かるだけにするよー」


 理沙はそう言うと、お風呂の自動お湯張りのスイッチを押した。

 さっき洗って栓をしたのまでは確認済みだ。


「あはは、背中くらい流してあげるね」


 理沙は笑いながらパジャマを片手に、僕の手を引いた。

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