第54話 いつもの匂い

 翌日、僕は理沙のことを心配しながらも、学校に行く。

 朝、メールを入れておいたけれど、すぐには返信がなくて、1時間くらい経ってから「昨日はありがとう」と届いていた。


 学校が終わると、僕はすぐに理沙が入院している病院に向かう。

 昨日の個室からは移動したらしくて、4人部屋に彼女はいた。


「傷は痛まない?」

「う……ん。結構痛いよ。痛み止めが効いてる時はいいけど……」


 理沙はお腹の辺りを少し押さえた。

 点滴を腕に繋がれたままで、痛々しく見えた。


 内視鏡での手術と聞いていたから、小さな穴なんだとは思うけれど、それでも体に穴を空けていることには代わりない。


「すぐ良くなると思うから、がんばって」

「うん。ありがとう。……お父さんに言われたんだ。ひろくんが来てなかったら、たぶん開腹手術しないといけなかったって。そしたら、もっと大きな傷が残ったよって」

「そういう話、僕も聞いたよ。理沙が手術してるときに」


 もう少し遅かったら、もっと危なかったって。

 盲腸って大したことないって思ってたけど、結構恐ろしい病気なんだなって、そのとき初めて知った。


「実は、一昨日から少しお腹痛いなって思ってたんだ。こんなことになるって、全然思ってなかった。……はぁ」


 理沙は少しがっかりしたような表情で、ひとつため息をついた。

 

「お腹が痛くなるくらい良くあることだし、仕方ないと思うよ」

「うん……。でも、そのとき病院行ってたら、薬だけで済んだかもって」


 そう言うと、理沙は枕に頭を押し付けるようにして、天井を仰ぎ見た。


「あはは、まぁもう仕方ないけどね。……あ、今晩から少し食べられるみたいだけど、ケーキは無理だから、ごめんね」

「良いって。退院したら、一緒に食べに行こうよ。店の中にちょっとしたカフェもあるから」

「うん。楽しみにしてる」


 もう一度頭を上げて、僕に笑顔を見せてくれた。


「それじゃ、今日は帰るね」

「ごめんね。しばらくご飯作れそうになくて」

「大丈夫。なんとか頑張るよ」

「うん。退院したら美味しいの作るから待ってて」

「それまで栄養失調にならないようにしとく」

「あはは、大丈夫だよー。そのくらいなら、1日1食でも生きていけるよ」


 そう言って笑う理沙に手を振って、僕は病室を後にする。

 痛いって言ってたけど、とりあえずは元気そうで一安心だった。


 昨日のような辛そうな顔は、できればもう見たくないと思うし、ひとりで過ごすって怖いことだなって思った。

 突然なにかあったとき、人が呼べれば良いけど、そうじゃないときだってあるんだから。


 だから、父さんや母さんが、僕が一人暮らしをするのを心配してくれてるのも、なんとなくわかった。


 ◆


 それから3日後。

 理沙は若いからか、順調に回復して、退院の許可が出た。

 週末を跨いで、月曜日のことだった。


 運悪く、その日は理沙の両親ともに夜勤だと聞いて、理沙は僕の家に泊まって、明日から学校に出席することにした。

 夕方、夜勤になる前に理沙のお母さんが僕の家まで、わざわざ車で送ってきてくれた。


「それじゃ、理沙をよろしくね。……激しい運動はしばらくダメよ?」

「ありがとうございます。ええ、わかってますって」


 理央さんの「運動」が何を指しているかはわかる。

 もちろん、すぐに無理なのはわかっているし、まだ薬を飲まないと傷が少し痛むみたいだから、できるだけ安静にしておかないと。


 理央さんを見送ったあと、理沙は久しぶりに僕の家に足を踏み入れた。


「ただいま」

「おかえり」


 さっきも挨拶はしてたけど、笑顔でもう一度挨拶をして、玄関で彼女はおもむろに抱きついてきた。


「……久しぶり。すっごく我慢したよ。……褒めて」

「うん。お疲れ。退院おめでとう」


 今日は括っていない理沙の髪をそっと梳く。

 すると、いつものシャンプーの香りがふわっと漂う。


「あれ、お風呂入ってきた?」

「あはは。すごい、良くわかるね」

「匂いがいつもの」


 僕の答えに、理沙は僕の胸元で嬉しそうな顔を見せた。


「昨日、日曜日でお風呂に入れなかったから。ひろくんと会うのに汚れてるの嫌だなって」

「そうなんだ」


 僕は理沙の頭をそっと抱き寄せて、彼女の髪に顔を付けて大きく息を吸い込んだ。


「――わわっ、臭くない?」

「ううん、良い匂い。いつもの理沙の」

「よかった。……それじゃ、早くご飯食べてゆっくりしよ。今日は家でおかず作ってきたから、すぐ食べられるよ?」


 理沙はそう言って、持ってきていた紙袋の中からタッパーを取り出して、僕に見せて笑った。

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