第39話 不細工と鏡
「アタシは不細工だ」
鏡に映る自分は涙で見えないのに、汚らわしいその顔が脳裏に焼き付いて離れない。
結局女の子は――――見た目が全てだった。
――――二年前の教室。くだらない古語を話す女の先生を無視して、アタシはぼーっとクラスメイトを眺めていた。
「なにこの光源氏って人、浮気しまくってる」
「夜這いとか、人妻とか、そんな話してて先生恥ずかしくないのかな」
「おい、光源氏ってイケメンらしいぞ、イケメンパワーってやつ?」
「えー」
「イケメン……パワー!! やー!!」
相変わらず騒がしいけど、それだけ皆は元気なんだなと羨ましくもある。
ああいう女の子はみんな可愛いし、綺麗だから、何言っても許されると思うし、男子は顔なんか関係なく、声が大きければいいって感じ。
でも机に耳を当て、目を閉じる。やっぱり耳だけなら――――動物園の猿共と変わることはない。やっぱり見た目よりも心が大事だってことだ。
「あの、プリントなんだけど」
「あ!」
ちょっと怖い唸りにハッと心臓が止まりそうになって、申し訳なく俯いたまま、急いでプリントを受け取ろうとした。
「え?」
取れない。前の人がプリントを掴んで離さない。なんで。
早く放してほしいと願いつつ、アタシは恐る恐る顔をあげた。
「あのさ、下ばっか向いてるなよ」
「――――あ」
彼と目が合って、こんなことがあるのかと一瞬だけ疑った。けれどすぐに彼の美しさにアタシは麻痺して、時間がまるで止まったように感じた。
こんなにカッコいい男の人って本当にいたのかって驚きもあった。
「離すよ?」
「あ、ご、ごめんなさい!」
ちょっとだけ怖い囁きに心臓はどんどん動き出して、息が詰まりそうなまま、私はゆっくりプリントを受け取った。
目を開けていて嬉しい事なんてあったんだ。
――――それからずっと私は彼のことを考えていた。ぼんやりとしたまま、周りの声が聞こえなくなるくらい。
席に座り、ちょっとだけ前を向いて、彼がこっちを向いてくれたら嬉しいなってどうしても期待して、頬が灯り、変な汗が止まらなくなって私は気付いた――――これは恋なんだと。
だけどその実感のせいで、どうしても私は彼の顔を見ることはできない。その癖に学校の中でしか、浮つけなかった、恋が学校の中にしかなかったのは、帰宅してどうしても見なければならない鏡に自身の歪んだ現実を突きつけられるから。
「鏡なんてなければアタシは自信を持って彼に触れられるのかもしれないのに」
汚すぎるこの顔は本当にアタシ自身なのだと、学校に行くたびに浮ついて突き落される。
その残酷すぎる現実に涙を濡らすことが増えたのは、眠るたびに心が干からびそうになるのは、どうしても変えられない生まれのせいだった。
そう毎日自室に籠って落ち込んでいるときにも時計は進んで、アタシを挟み込んでは連れ去ろうとする母の声が突き刺してくる。
「ねぇ、もしもずっとその声を無視したらアタシはその名前を無くせるの? そしたら別人になって彼の前に立てる?」
親を憎むことはあった。でも最終的には落ち着いてやめることになってしまう。
見た目の悪い人間は心を磨くしかないって自分を励まして、だったら親を憎むだなんて間違っているって。
それに心配をかけたくなかった。
……そうだ、変わらないことを憂いても仕方ないんだ。だってそうだ、彼への気持ちだってそれ以上に疑う事なんてなかったのだから。
アタシが見たいのは鏡よりも彼のほうだ。だったらそのように行動すればいい。このままじゃダメなのはアタシの弱い心のほうなんだ。
――――私は気持ちを固め、緊張しながらも休み時間、席に座る。
彼は人気者だ。彼の周りにはいつも男女関係なく立っている。
授業中は声なんてかけられないし、今だって壁のように人がいて迷惑が掛かってしまう。いいタイミング見つけて――――今だ!
「あ、あの!」
「え?」
いろいろ話題は考えていた。なのに彼を目の当たりにしたら、なんか、わからなくなってしまった。
狼を前にした震えるウサギのように私は固まってしまって、何もできない。
「おーい、次の時間はパセリの調理実習だぞー! ってあれ? 邪魔だった?」
「いや、なんでもない? みたい」
「じゃー行こうー家庭科室にー!」
あ、結局、なんにも話せなかった。
私は何をやっているのだろう。
いやでも同じ班だし、調理実習なら何か話せるかもしれない。
よし、気持ちを切り替えよう。
私は教室の戸のレールを飛び越えると同時に落ち込んだ心を立て直した。
あ、廊下の先に彼が友達と話してる。あんな猿みたいな男子を友達にするなんて変わってるな。でも――――、
「てかさ、あの”怪獣女”と関わるの辞めとけよ、お前まで変な顔になるぞー? こうやって!」
「お、おい、やめ!?」
怪獣女?
尖った言葉の破片が心を突き刺し、勘違いした私は校舎の窓を。割れてはいない、だがそこには忌々しいその形相がいくつも映っていた。
そしてアタシがこの廊下を歩いて見られる窓ガラスの数よりも多い人数が、アタシの気持ち悪い顔を毎日見ていたんだと思い出した。
酷く冷たい廊下の空気。心が裂けるように傷む。
こんなことを忘れていただなんて、そうだ、不細工はどこに行っても不細工なんだ。
どれだけ恋と気持ちで隠そうとしたって、通り過ぎた人たち全員、彼だって、どこかでこの顔に嗚咽していたんだ。
――――なんでアタシは生まれてしまったの?
その日の家の鏡は静かだった。むしろアタシは落ち着いていた。きっと全てに諦めが着いたんだ。それか疲れ切ってしまった。
親を恨めば、心を磨けと言われ。恋をすれば、盲目になれたけど、実際はアタシは最低の顔。
そもそもこんなアタシが彼に釣り合うわけがなかったし、視界に映るだけで迷惑なのに、そんな妄想なんて、そのどこが綺麗な心なの?
アタシが彼に近づけば、彼を苦しめるかもしれないのに、そうなったらアタシは不細工の上に性格も最低な猿以下の人間だ。
好きだった気持ちが強いほど、嫌いの気持ちも強い。どっちかがだけなんてあり得ない。
誰かが恋を謳歌しているのならば、その分の失恋がある。そして生まれながらモテる人間がいるなら、私は生まれながら嫌われる人間だ。
いや――――死ぬべき人間なのか。
――――いつかの休み時間。彼は楽しそうだった。
いつもは色んな友達に囲まれているのに、彼は珍しく一対一で話していた。それもクラスで一番可愛い女子と。
二人とも凄く笑顔で、笑ってて、やっぱり綺麗な女の子と話すのは楽しいよね。
アタシを見るときの彼はとてもあんな感じじゃなかったんだろうな。
やっぱり、いるだけで不快なんだろうな。
――――恋は終った。どれだけ幻想を抱こうが、分厚い現実の空気の断層には敵わない。
こんな人間がどう生きるかなんて最初から決まっていたんだ。
あー、もう何もしたくない。
それからアタシはずっと寝込んだ。そのまま死んでしまえばいいとも思った。
なのに生存本能は悪魔のように、アタシを生かす。嫌われる存在を生んだこの世は、その仕組みを持ってアタシを消そうとするくせに、同時に生かそうとする。
こんなどうしようもないままに、アタシは寝込んでスマホをいじった。何も考えたくなくて、とにかく情報を頭に押し込んで。
そんな中だった。アタシは偶然あの美女に――――――――茨田紗綾に出会った。
画面に映る彼女は今まで見てきた同じくらいの年の女子で一番綺麗だった。
恰好は大人びていて、でも表情はちょっと可憐で、身体は細いのに、いつもテンション高くて元気を貰えた。
だけど逆に元々美人な癖にもっと綺麗になろうとする思考が嫌でもあった。
そう感じる人は多くて、コメント欄は割と『ブス』『見栄っ張り』『可愛くない』とかばっかり、そんな美人なんだから落ち込んで辞めてしまえばいいのに、絶対にレスバトルして、懲りずに動画をまた上げていた。
どうしてこんなに綺麗なの。こんなに強いのって理不尽だよって嫉妬もあったけど、それにも屈しない彼女にアタシは夢中になった。
『メイクをすればどんなに完璧な女にだって負けることないって、私は信じてる。てかそんなの許せないし、落ち込んでいる暇があったら綺麗になる! 誰に無理って言われても!』
茨田紗綾の言葉はその美貌よりも眩しくて真っすぐで、私もそんな風に生きられたらって、倒れた何もかもを奮い立たせ、誰よりも嫌いな鏡に誰よりも長く向き合うと決めた。
――――そして数か月後の転校初日、私は現実を書き換えた。自分を完膚なきまでに殺そうとした、その形相を、誰もが見惚れるほどまで仕上げた。
あれほど私を睨んだ廊下の窓ガラスは今や味方になって、窓ガラスに映る私を女神と錯覚したかのように見惚れる馬鹿な猿を黙らせ、忌み嫌った視覚と視界は、その周りにいる愚か者を私に引きずり込んで離さない。
やっぱり見た目が全てだろう。そうでなければ、こんなに世界を愛することができるだろうか。溢れんばかりの自信をもって自分の席に座ることができただろうか。
私は生まれ変わった。今なら彼も、どんな男だって、私のモノにできる。
運命が私を歪めたように、今度は私が運命を歪める番だ。
――――私はその美貌と欲求のままに全てを支配した。いえ、勝手に侵食されたというべきだろう。告白を何度もされ、友達もできて、校内一番のイケメンと付き合うこともできた。
何もかもが充実して、青春以上の青春を手に入れた。
けれど――――飽きてきた。しだいに飽きてきてしまった。
圧倒的な美しさを前にして猿は猿のまま、私の周りで煩いだけだった。
校内一のイケメンとか、俳優とか、アイドルとか、某企業のおっさんとか、どいつもこいつも身体目当てばっかりだった。
せっかく綺麗になったのにその身体を男共は穢そうとし、女どもは広くなった視界を狭めようと壁のように並ぶ。
「ねぇ、〇ッキーと付き合ったことあるって本当ー!?」
「それあたしも聞いた! あの黒い瞳がキュートな元〇―ズの○○○〇の!」
ああ煩い。どこに居ても目立つし、そっとしてくれないし。なんか疲れるな。
大概意味のない会話ばっかり、欲望への憧れに浸かってて気持ちいいものなのかな。
「えっと、ここって3年A組ですか?……あれ?」
扉を勢いよく開けた透き通る声に「誰?」と騒めく教室。
どこにでもある男の声なのに、なんで一斉に不安がるものなのか。アホらしい。
あと見えない。女壁のせいで誰かも見えない。
「……だ、誰?」
「あ、ごめん。見えなかった?」
「別に男子がただ覗いてきただ――――」
どこにでもある男子の姿のはずなのに息が止まった。
見た目はそうだった、でも記憶はそうではなかった。そう、あれは初恋の彼だった。
「ちょっと、トイレ行くから空けて!」
「え?」
「早く!!」
「そんなに漏れそうだったのかな?」
嫌だ。私は思う間もなく、歯を噛みしめ、力んで、顔を崩れそうになって、廊下を駆け、トイレの鏡へ向かっていた。
着けばすぐに道具を取り出し、メイクを入念にチェックし、髪を完璧に整えていた。実在しないほどに完璧に。
それでは時間は足りない。チャイムが鳴って私は冷静になった。
こんなに急いで繕って何を不安になっているんだと。
周りの奴らが私に見惚れるくらい、私は完璧。そう、その事実があるのだから、どれほど自分を誤魔化そうとしても意味はない。
全員が私に恋をするなら、私は間違いなく美女なんだ。
気を取り直し、私は教室に戻る。
後ろの扉から入ると、緊張しながらも転校の自己紹介と挨拶をする彼と目が合った。
「……なに?」
見たことのある目をした彼に小さく私は怒鳴り、その気を切り離した。
別に怒る必要なんてない、そんな不細工は過去にあるだけ、今の私は違う。私はその意志のままに心を奪える。あの頃とは違う。けれど――――彼にそんな目をしてほしくなかった。
――――どこかで変わってほしい優雅な日々があった。けれど彼は私に干渉してこなかった。他の誰とも同じで、どこにでもいる気弱な男子と同じ。決して僕には届かないと憧れの視線をぶつけてくる猿と同じだった。
今までそんなのは喧しいほどにどこか満たされていて、気にも留めなかった。だってその余裕こそが品性だと思っていた。
けれどその一部に失恋をなぞる、過去をなぞる一筋が際立って消えない。
そして彼も気付いているのだろう。だから男友達と「今、こっち見てなかったか?」とかって盛り上がって、気分が悪い。ああ、気分が悪い!!
どうして初恋はそんなに弱いの。私が綺麗になるほどに、彼の平凡さが目立って気分が悪い。
だったらその因縁だって食い潰してやる――――全部、お前がこうしたんだって覚えさせてやる。
私がそう心に決めるのに半年くらいかかっただろう。けれど彼が私の前で喘ぐのにかかったのは数時間後だった。
あっけないのは、まるでそのひと時と同じよう。こんなにつまらない。誰なの、コイツは?
私は誰と暗がりに眠ろうとも素顔は見せなかった。でも見飽きたつまらなすぎる顔をする、それがありのままだってどこか自信気にいる、コイツに、私はそうじゃないって信じたくて、気が狂ってしまった。
いや、違う。私は彼を剥ぎたかったんじゃない、彼のありのままはそこにあった。どこにでもいる男と一緒だという事実があった。
だから本当は私が剥ぎたかったんだ、自分自身を本当の私を見せたかった。
でもそうじゃない。やっぱり気の迷いだった。
私が彼の前で全てを見せたとき、そこにあったのはたった一回の有様だけで、それはどんな男にもなかったけれど、それで特別だって思いたかったけれど、その後にの殺された私の心に残ったのは、あの時と同じ――――どこにもいけない、嫌われるしかない宿命を突きつけられたときのあの、傷みだ。
――――結局私は何を求めていたんだろう。どれだけ美しくなっても誰もを虜にしても満たされない。過去は変えられないし、今が輝くほどに心は疼く。
「アタシは不細工だ」
鏡に映る自分は涙で見えないのに、汚らわしいその顔が脳裏に焼き付いて離れない。
結局全ては――――見た目だった。
どれだけ顔を塗りたくり、現実を塗りたくったところで、何もかも違う。
そうでなければこのアタシのやり場のない、灰のような気持ちはなんなんだろう。
「茨田紗綾? あなたなら知ってるの?」
「茨田紗綾? あなたはまだそこにいるの?」
「茨田紗綾? あなたは間違っているんじゃないの?」
私の肌は荒み、記憶は傷み、現実は裏切るばかり。そんな中、どこかで昔と同じように輝くあなたを視界に入れたとき、私はまたあなたを信じられる?
――――もう誰でもいいか。でもせめて茨田紗綾、お前だけは連れていく。その先に引きずり込んでやる。
「ええ、そう、わかった。いや、わかんないけど、それで私は今、硬いロープ!! に! 縛り付けられてるわけ!??」
「そうだ。死に物狂いな顔も素敵なこと……」
体育館外の倉庫、その暗く冷たく静かな狭い四角で茨田紗綾は縛り付けられていた。
それを眺める寂れた目はかつてのファンだった。
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