第31話 なんてことない帰路。ウホホ……

黒板に書いてある方程式の意味がまったく分からない。だから俺はいつものように授業になると眠ってしまう。嫌いだからではなく、どうでもいいからだ。

あの方程式を使えるようになったからと言って俺の人生は楽しくなるのかと考えれば、まだよくわからない。ただ今のところはむしろ消え去ってくれた方が楽しそうだなと思う。


チャイムは鳴る。時計の針は三時半より少しばかり進んでいた。

どちらの時間がズレているのかはよくわからないが、チャイムが鳴れば帰れる。

だったらどっちでもいい。


「……天音?」

「ん? どうかした?」

「いや」

「じゃあさっさとゲームしに帰ろうよ」


天音はいつも通りのにこやかや顔で俺に催促する。早く準備しろと。

ただ少し――――いや、そんなことないか。

俺はゆっくりとカバンにゲーム機をしまって天音とともに静かな教室を出た。



今日は快晴だ。おかげで暑い。帰路のコンクリートからジメジメとしたものが漂ってくる。

この季節はだいたいこんな感じだけど慣れない。てか慣れてたらエアコンなんか使わないよな。


電柱に止まった黒い雲。前を通ると必ず吠えるブルドック。錆びついた歩道橋。

今日も代り映えのしない帰り道。俺たちはほとんど会話しない。

大野と三人で帰るときはずっと話してるけど、最近は文芸部が忙しくなったとか言って塩を運んでいて、ずっと帰り道は静かだ。塩ってなんだよ。

だからこの前の雨の時くらい特別じゃなければずっと沈黙。


「なに?」

「いや別に」


ただ話したくないわけじゃない。話すことがないだけで。

最初はそれでも話してた。てかほぼ喧嘩してた。結局喧嘩した後は黙って帰ってるからあんまり変わらないのか。


とはいえやっぱり暇なものだ。そうだ、新しくイヤホンを買ったんだった。

俺はポケットから12万円のワイヤレスイヤホンを取り出した。


「ん?」

「……」


天音がじーっと俺を見ている。どことなく不機嫌な感じだ。

ただ音楽聞きたいだけなのにそんなに睨まなくても。

俺はその眼光を気にせず、イヤホンを耳に運んでいく―――――――待てよ。これでいいのか?


「……」


まさかこのまま音楽を聴こうとしたらこの十二万のイヤホンを壊されるのか?

前のイヤホンは天音に投げられてから不調になった。そうだ、天音はイヤホンバスターだった。

やめておこう。俺はイヤホンを箱にしまい、蓋を閉めようとした――――――――でも別に俺は悪くなくないか?


なんで音楽聞こうとしただけでイヤホンをぶっ壊されなきゃならないんだ。俺がどうしようとしても勝手だろ。

俺は震える手を抑えながらイヤホンを装着した。


「……」


大丈夫みたいだ。天音はこっちに何かするでもなく、あっちを向いた。

まったく。ただイヤホンをつけようとしただけでそんな睨まれるとは。


さてさて何の曲を聞こうかな。そうだ、これにしよう。

おお、さすが十二万のイヤホン。音質が――――――――あれ?

ノイズが凄い。音が途切れまくる。おいおい、不良品か?

あとで問い合わせよう。俺はイヤホンをしまった。


「!」


なんだ? 天音がなんか目を輝かして急にこっちを見てきた。

俺は何にもやってないだろ。なのにずっと見てくる。


「ど、どうした?」

「べ、べつになんでもないです!」


天音は大声を出して少し嬉しそうにニヤつくと、恥ずかしそうにすぐ俯いた。

やっぱり最近、天音の様子が変だ。この前の雨の時も変だったし。なんかあったのか?

昨日だってカノンアマネの配信がなかったし。


「天音……?」

「やっぱりなんでもない」


俺の顔を一回だけ見た後、天音はどこか寂しそうに俯いた。

天音は何を考えているのかまったくよくわからない。

学校にいるときは自然だった気がするのに、いや俺といるときは最近いつも――――――――もしかしてやっぱり、天音は俺のことが好きなのか?


別に俺は己惚れてはいない。冷静に考えてこの線しかなくないか?

そもそも俺はチャンネル登録者数99万人のカリスマゲーム実況者simaだ。その正体を唯一知る天音が俺に恋をしないはずがないのでは?


まずい。もしも天音が俺に恋心を抱いているのならまずい。

ハッキリ言って俺は天音をまったくそんな風には見れない。こんなジャイアンと付き合うなんて無――――――――。


「理君?」


天音は純粋な顔で俺を覗き込んできた――――――――あれ、可愛い?

まん丸い顔、小さい身体、どこか守りたくなるような。

それに胸も大き――――――――待て待て。ダーシー使いすぎだって。ときめきすぎだ。


相手は軽く5メートルは飛び、殴れば人を100メートルは飛ばす女だ。冷静になれ。それに性格だっ――――――――別に性格は悪くない? あれ? 天音って普通に可愛い?


「えーん、えーん」

「あ、どうしたの?」

「お母ちゃんいなくなっちゃった」

「そうなんだ。怖かったね」


迷子の子供に優しく話しかけてる。目線を合わせて、頭も撫でてる。

まさかあれは天使か? てか子供が羨ましい。俺もなでなでされたい。


「あ、すいません」

「いえいえ」


迎えに来た親に丁寧に話している。社交性もあるちゃんとしてる。

そういえば勉強もできるし、教えるのもうまいし――――――――あれ? 天音って普通に美人では?


「おねーちゃんばいばーい!」

「ばいばーい!」


にこやかに手を振っている。可愛い。

俺があの子なら絶対に憧れている。


「……さっきから顔ばっか見て?」

「天音って可愛いんだな」

「え? 今なんて?」

「そういうところも可愛い」

「え、えへへ」


天音はもじもじしながら嬉しがっている。ものすごく撫でたい。

俺は真実を口にしただけなのにそんなに照れるとか可愛いすぎだろ。


「も、もう一回言って」

「天音は可愛い」

「もう一回!」

「可愛い」

「もう一回!」


可愛いと伝えるたびに天音はその綺麗な顔を近づけてくる。そしてそのニヤけ顔が隠せなくなって溶けたような表情になっていく。

なんかドキドキしてきた。


「ふふふふ」

「可愛い」

「ふふうふふふふ――――――――やっと気づいてくれたんだ? 私の可愛さに!」

「やっと気づいた」

「そうだよね。ずっとおかしいと思ってたんだ。こんなに可愛い女の子がいるのにどうして恋しないのかって~」


あれ、心臓どこ行った? 

天音は胸を張って自分のことを可愛いと宣言した瞬間に、ここにあったドキドキがどこかに帰っていった。


「ねぇねぇ、私って可愛いよね? 可愛いよね?」

「ごめん。気のせいだった」

「えっ……ええええええええええええええええええええええええええええええええええ?」


照れ照れしていた天音は顎が外れそうなほどに驚いている。そこまで困惑するとか情緒不安定かよ。

あ、カラス飛んで行った。


「え? え? え?」

「おい、早く帰るぞ」

「ちょっと、ちょっと!」

「なんだよ?」

「さっき私のこと可愛いって言ったよね? 私って可愛いよね?」

「お、おう……」

「引かないでよ!」


天音はドバドバと汗を流して視線も定まっていない。こんなんじゃ子供が泣くよ。

そもそも自分で可愛いはありえない。なんか必死過ぎるし、怖い。


確かに天音はなんでもできて凄いし、顔も可愛いし、巨乳だし、優しい。ただなんかやっぱり、怖さのほうが上だった。

本能が身の危険を感じて恋の病を完治してしまった。


「ええ……」

「そこまで落ち込まなくても」

「だって……可愛いって言ったじゃん……」


天音は小石を蹴りながらすっかりしょんぼりとした。

何回も「可愛いって言ったじゃん」とチラチラとこちらを見て俺が言うのを待っているようだ。

天音のだんだんと鋭くなっていく視線に胸がドキドキしてきた。もう完全に拗ねてるし面倒くさくなってきた。


「カ、カワ、カワイー」

「……棒読みだし」

「カワイイナー」

「……」


ああ、どうしよう変な汗が出てきた。

このやり取りは普通ならば女子の機嫌なのだが、こちらからすると独裁者のソレである。いつあっちから拳が飛んでくるかわからない。


俺だって頑張って可愛いって言ってるんだけど、どうしても感情がついてこない。プロの俳優でもなければ天音を満足させることはできないだろう。


「……もういい。帰ろう」

「お、おい?」


天音は俯いて俺の前を通り過ぎていった。なんかこれじゃ俺が悪いみたい。

いやいや、ただ正直に言っただけだろ。

天音は彼女じゃない。俺は好きでもない。なのに何であんなに可愛いだなんて言って欲しがるんだよ。配信で散々と言われてるだろ。


わざわざ俺に可愛いって言ってほしいって好きってことなのか?

いわゆる気づいてアピールなのか?


もうイライラしてきた。なんで天音にここまで困らされてるんだよ。

ああいう顔されるとどうしてこっちまで――――――――。


「天音、俺はお前のことが好きじゃない。でも嫌いでもない。だから付き合えない!」


言いたいことをはっきり言ってやった。

もうこれ以上、天音に翻弄されるのはこりごりだ。


「は? 理君なんかと付き合うわけないでしょ」

「……………え? 今なんて?」

「なんで私が告白したみたいになってるの? 好きじゃないし!」


おいおい、意味が分からん。さっきまでの様子は明らかに女の子が好きな男にする行動では? 

これは事件だ。名だたる名探偵を呼んで解いてもらわないと、その上であの女を閉じ込めた方がいい。


「自分のことカッコいいと思ってたの? アホだね?」

「なんだと?」

「カリスマゲーム実況者? チャンネル登録者数? 仮にお金目当てでも理君の性格だったら一緒にいられないよ!」


おいおい、なんでこうなった? 理不尽すぎるだろ?

これは頭が追いつかない。世界各地から高性能計算機を持ってこないと。その上であの女の異常さを証明するべきだ。


てかそんなことしなくても異常だろ。

よくケンカになると男が謝るべきだとか言うクソ野郎がいるが、俺はそういう奴に言いたい。男女平等! 正論で女を泣かせてやる!


「俺のことが好きじゃないとか、だったらなんで可愛いってそんなに言ってほしかったんだよ? ツンデレか?」

「ツンデレじゃないし、なんでそれで好きって解釈するの? 気持ち悪い」

「気持ち悪いのは天音のほうだろ、あんなにデレデレしてたくせに。」


これは口げんか。それも男女だ。

だいたいは男の負けで決まる気がする。最後には女が泣いたりして収拾がつかないからだ。

つまりは大概の人は女の涙に弱いか、あるいはそれによって群がる女仲間に悪口言われて心が折れる。


しかし俺は違う。ここで天音に勝つ。俺は大きく息を吸った。


「俺に可愛いって言って欲しかったんだろ? 好きじゃなかったらなんなんだよ!」


俺は周りに聞こえるほど、いや町中に響き渡らせるくらいで言い放った。

天音は今まであったことを否定できない。その性格ゆえに。

そしてこの回答は一つだけしか浮かばないはずだ。ここにいる人にとっても。


さぁ答えてみろ。俺のことが好きな以外になんか理由があるのか?


「だってほとんど一緒に暮らしてて、ずっと一緒にいるのに、好きにならないなんておかしいじゃん……私って可愛くないの?」


天音は涙を浮かべながら可哀そうにそう呟いた。

終わった。俺の負けだ――――――――見た目だけなら天音は可愛い。俺はそれを否定できない。

だからといって好きだというわけじゃないが、納得のため息が周りから流れてきてるし、「なんだよリア充の喧嘩かよ」とどちらかというと俺サイドも帰ってしまった。


「……やっぱりそうなんだ。私は可愛くないんだね? わかった。もういい、これから顔出して配信する!」

「え?」

「私が可愛いってことを世界中から認めてもらう!」


おっと。なんか変な感じになってきた。若干自暴自棄になってるよな。

世界中から認めてもらうって、そこまでして俺に可愛いと言ってほしいのかよ。好きになってほしいのかよ。


天音はプンプンとしてこっちに振り向くことなく、まるでジャイアンの如く蟹股で歩いて行く。

今から家に帰って配信するつもりなのか。別に勝手にやればいいだろ。


きっと天音の容姿だったらすぐに人気が出て、ファンも増えて、しかも歌もうまいからアイドルとしてスカウトされたりして――――――――。


俺は天音を追いかけ、その細い腕を掴んだ。

走って騒いでいる心臓を落ち着かせ、小さい不機嫌な顔で俺を見上げる天音に言った。


「顔出しなんてしなくていいだろ。俺が天音を好きにならないのは――――可愛さ関係なく――――俺が、俺がホモだからだ!!」


俺はこう言うしかなかった。

天音は「え? え?」とギョロギョロと困惑しているが、これでいい。

これで――――――――いいんだ。


天音はもう顔出し配信はしないからとちょっとニヤニヤしながら帰っていった。まさか腐女子なのか?

俺は試合に勝った。その代わりに何か大切なものを失い、何かを得た気がした。きっとそれは天音には負けた方がいいという教訓だろうか。


その日の夜はカノンアマネの歌枠があった。

その選曲はロックから恋愛ソング寄りに変わっていた。

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