第10話 飛べない下僕

木曜日の夕陽。ベッドで寝転んで漫画を読む、饅頭ボディの腹にそれがぶつかっている。

大野は起き上がり、漫画を置いて大きく口を開いた。

「もぐもぐ……もう六時半だ」

巨大なディスプレイの右下に映る数字を見ながら、栗きんとんを口へ流し込んだ。

「おい、食べすぎだろ!」

部屋に戻って俺は指を刺して声を飛ばした。

しかし栗きんとんは喉を通り、もうお腹の中。

その満足げな顔に夕陽も黄昏ていた。

「ん…………むっむ?」

コントローラを上下に振り回し、ディスプレイをじーっと睨む天音。胸につけたリボンの色よりも赤くなっている顔を見るたびに、コントローラのひび割れが心配になる。

「どうしたんだい?」

「なんか、引っかかっちゃって!」

「あーまたか」

最初は驚いたものだが、扉に挟まれてキャラが荒ぶるのも見慣れたな。

「やめろ。無理やり出ようとするな」

「で、でも、もう少しで!」

「やめろ、やめろ。また運営から怒られる」

天音が俺の家に押しかけ、ゲームを教える日々。それが始まってもう二か月。

運営からも目がつけられるほどに、天音のプレイングスキルは凶暴だ。あらぬバグを起こしてチーター扱いされたりもして。

「ほら、戻ったぞ」

「あ、やったー!」

変わらぬ平和な日々にポテチを砕き、ぼんやりと見ていた大野。

自慢げに腕を組む親友と嬉しそうに微笑む天音に大野は首を傾げた。

「天音ちゃん、ゲームの腕変わらないね」

その言葉と共に天音の笑顔は消えていった。

なんでこんな酷いことを言うのだろうと、一瞬悩んだ。しかしその答えは大野が手に抱えている袋に書いてあった。

―薄塩。


最近のことをふと、思い返す。

天音が後ろの席になった。天音が母と仲良くなりすぎている。妹が遠慮がちになって甘えて来なくなった。ゲームする時間が減った。

悪いことばかりが頭に過ってくる。

まさしく俺は悪運に恵まれているのだろう。

その中で良いこともあるはずだと、もう一度頭の中を探した。

やり込んでいたゲームのバグを新たに発見して、運営に苦笑いされた。あらゆるバグに対応できるようになった。

あんまり良いことじゃないと思ってしまうのは、目の前で頭をふわふわと揺らす、天音のせいだろうか。

「ちょっと、近い!」

「ウッス!」

俺はこの女の奴隷である。

ゆえに女の象よりも重いカバンを手に担いでいる。

女が笑いながらスキップできることに苛立ちを感じるが、それ以上に女が飛んだ学校の廊下に足跡がついていることへの恐怖だった。

「足が5tプレス機の女。恐ろしい……」

「なんか言った?」

「ウッス!」

「え?」

もし天音に逆らえば、俺の正体がチャンネル登録者数78万人のカリスマゲーム実況者simaだと最近は白髪になった黒い服とか、絶世の美女ファンにバレてしまうだろう。

すれば妹が危険な目に合うかもしれない。

要約すると、俺が天音に逆らえば、あの足で潰された空き缶のようにされる。

そんな感じだ。

だから俺はこのまま進まなければならない。荒れ狂う波の中でも。

「……―!!」

頬に尖った痛み、その後にヒリヒリとした感触。

いや、違う。これは冷たい廊下の床だ。

「いつも言ってるでしょ、女子更衣室には入らないでって」

と言い放って更衣室の扉を閉めた天音。

その瞬間に、ほくそ笑んでいる顔がいつも見えているのだが、なぜだろう。

「おい、下僕! 今日は6.32メートル飛んだな」

「昨日は5メートルくらいだったから、いい記録だぞ!」

顔も知らない男たちが目を輝かせながら、なんか言っている。

だれが下僕だと。

「こんな記録なんてどうでもいい。俺はには守らないといけないものがあるんだ」

「くぅー、カッコいいね! それでこそ、理想の下僕だ!」

「いや、“こんな記録”ってことだから最高記録の18メートルを超える以外は大したことないってことだろ? ストイック! 脳筋!」

ああ、もうよくわからなくなってきた。

なんでこいつら楽しんでるんだ。

「女子の下僕……羨ましいなぁ」

「可愛い子ランキング四位の天音さんだから、いいんだよなぁ」

およそ20メートル先、頷く二人の男を発見。

明日はそこまで飛んでやるからな。覚悟しておけ。


昼休み。

隣でアメリカサイズのピザにかぶりつく大野と一緒に、購買への道をどんよりと歩く。

「昨日のカノンちゃんの配信聞いた?」

「うん、すっごく衝撃受けた。あんな声も出るんだって」

「あの歌声、天性の才能だよね。惹きつけられちゃうよね」

縁の向こうで箸を止めて盛り上がっている女の子たちがいる。

興奮して目を輝かして、楽しげだ。

「ねぇ、あんた」

「僕?」

「おめえじゃねえよ、その隣の」

裁縫針よりも鋭い声が心臓に刺さる。

むすっとした色っぽい顔が前を塞いでいた。茨田だ。

「女子のパシリにされて恥ずかしくないの?」

「……もぐもぐ」

「ちょ、人がしゃべってるときに食べないでくれる?」

「……もぐもぐ」

「……もういいわ。どうでもよかったし」

突然なんなんだ。

あんな形相で、あんな顰め面で罵られたら声も出せない。

「ドMってすごいな。俺も練習しないと」

「もぐぅ!?」

大野の咀嚼音は気にならないのだが、咽る音にはビックリした。

いきなりどうしたんだ。珍しい。

「購買、見えてきたぞ」

「あ、う、うん。そうだね下ぼ……理」

なんで目を逸らす。

それに今、下僕って言おうとした気が……気のせいか。そんなこと、大野が言うわけがないよな。

購買まで到着し、いつものように焼きそばパンを探したが無い。諦めようと別のコロッケパンにしようと涙を押さえていたら、購買のおばさんが焼きそばパン二個、渡してくれた。

「今日は金曜日だからね」と微笑んで。

柔らかい焼きそばパンを潰さないように握り、俺は再び廊下を歩く。

もちろん、隣で山盛りのサンドウィッチを抱える大野とともに。

「なんで天音さん、金曜日は焼きそばパンなんだろうね? そもそも弁当あるんだから、いらないのに」

大野は知らないのだろう。

焼きそばパンを渡すときの渡里天音の表情を。あの顔を。

ああ、怖い怖い。

「なんか最近、sima下手になったよな」

「そう、超絶プレイとか全然ないし、つまらなくなった」

「負けてばっかだし」

四角い長方形の縁。その向こうで溜息をつく男たち。

彼らの声は確かに聞こえている。わかっている。

拳に力を入れられないのも。

「おーい、理。早くしないと冷めちゃうよー?」

「何が冷めるんだよ」

何も知らないで手を振る大野のほう、教室へ俺は戻っていく。

背中を刺す言葉から逃げるように。

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