第3話 風俗の友香

 時間的には午後七時を過ぎた頃だった。先輩の行きつけだという焼き鳥屋に連れて行ってもらった。あまり飲み事は多くない信治にとって、焼き鳥屋の雰囲気は新鮮だった。

 ただ、少しするとすぐに疲れを感じた。

 飲んだ量は生ビールを中ジョッキ―にいっぱいほどだったのだが、寄ってくると、呼吸困難に陥るようで、息切れを感じるようになった。

 しかも、焼き鳥屋というと、大衆酒場の代表のようなところなので、まわりのことを考えずに騒いでいる連中がいくつかあった。ただでさえ孤独が好きな信治は、次第に雰囲気に呑まれていく自分を感じていた。

――なんで僕が、あんな連中のために、こんな気分にならなければいけないんだ――

 と恨みの矛先は騒いでいる輩たちに向けられた。

 人数で来ている人でも、なるべく静かに飲んでいる人もいるのに、騒いでいる連中を見ていると、苛立ち以外には感じられない。それだけに酔いの周りが早く、次第に空間が狭くなってきているように思えてならなかった。照明に照らされた白い煙を見ていると、それほど気になっていなかったタバコの煙までもが、その場の空気を苦痛以外の何物でもなくしてしまっていた。

 トイレも近いようで、最初は我慢していたが、そのうちに我慢できなくなり、頻繁にトイレに入るようになると、さすがに先輩も分かってくれた。

「おい、大丈夫か?」

 三回目のトイレを出た時、表で先輩が心配そうにこちらを見ていた。気になったので、見に来てくれたようだ。

「ありがとうございます。大丈夫です」

 と言いながら、結構顔色が悪かったのだろう。先輩は席をそのままにして、表にある公園に連れ出してくれた。

「結構、アルコール弱かったんだな」

「そうですね。それに空気がどうにも耐えられなくても、こうやって外の空気を吸っていると、すぐに楽になりますよ」

 と、言って、ベンチに腰掛けた。

 空を見ると、星が綺麗だった。

 最近星など見ていないことに気が付いたが、もう一つ気が付いたのは、空を見上げていると、普段よりも風を余計に感じるということだった。

――気持ちいいな――

 お腹も適度に満たされていて、今から店に戻って酒を呑む気にもなれなかった。

 時計を見ると、そろそろ九時くらいになっていた。このまま帰ってもいいくらいの時間だったが、先輩は一体どう思っているのだろう?

「君は、風俗に行ったことがあるかい?」

「えっ?」

 いきなりの先輩の話にビックリした。

 先輩のように豪快に見える人は、風俗に通っていても、それは拍が付くという意味で、別に不思議はない気がしたが、今までの自分を考えると、風俗は考えられなかった。

 実は信治は童貞ではない。彼女がいたというわけではないし、風俗経験があったわけでもないのに、童貞ではなかった。信治は一度一人で呑み屋に出掛けた時があったのだが、その時は、無性に一人でいるのが嫌だった時である。かといって、一緒にいてくれる人もいないだろうし、それならまったく知らない人のいるところに行こうと思ったのだ。

 その店は、スナックで、店に入った時は一人だけだった。他に客もおらず、人がいるところに行くつもりだったはずなのに、誰もいなかったことにホッとしている自分もいたりした。

 ママさんは出かけていて、女の子が一人、留守番と店を開けるための準備に忙しそうにしていた。

「こういうお店、初めて?」

「どうして分かるんですか?」

「見ていれば分かるわよ」

 そう言って笑った。

「こういうお店はね。十時過ぎてくらいからが客が多くなるの」

 店を開けるのは八時半だったが、店が開いているにも関わらず、客が来てもいいように準備が整っているわけでもない。客足がまだなのが分かっているからなのか、常連さんが多くて、常連さんになら、この状態を分かってもらえるという頭があるからなのか、彼女は落ち着いていた。

「どこのお店も似たようなものなんじゃないかしら?」

「そうなんですね」

 信治も、そんな店の雰囲気も、普段と違っていて面白かった。今までスナックに入ったことがあっても、それは誰かの後ろについてきただけなので、別に何も感じなかった。その前というと、予備校で合格者を祝っての宴を催すというものだったが、不合格者に気を遣って、参加者は他言無用とされていた。

 そんなことが楽しいはずもなく、すぐに気分が悪くなってきた信治は、

「すみません、お先に失礼します」

 と一言先生に行って、部屋を出た。

 皆が盛り上がっている中でのことだったので、一人くらいいなくなっても別に大差のないことだった。それに、

――どうせ、大学に入ったら皆とは会うこともない――

 元々気を遣っているわけではなかったが、どうにもまわりからの執拗な視線には、鬱陶しさしか感じない。考えていることと、実際に感じることが少し矛盾を抱えていることに気が付いていたが、まわりと接点が多い方が、余計にたくさんの矛盾があるだろうと思っていた。それを思えば、これくらいの矛盾を感じることなど、別に大したことではないに決まっている。

 この日、どうして一人でいるのが嫌だったのか、ハッキリと覚えていない。ひょっとすると鬱状態への入り口を感じたからなのかも知れないが、翌日からはそんなことはなかった。ただの思い過ごしだったのだろうが、それでも、スナックに一人で入るなど、それまでには考えられないことだったのだが、入ってみると、後悔したのは、最初の十分ほどだけだった。そえ以降は、女の子の忙しそうな姿を見ていると、どこか微笑ましく思えてきて、どうして一人になりたいなんて思ったのか、忘れかけていた。

 十時くらいまでは、お酒を出してもらっても、ほとんど口にすることもなく、かといって、彼女と会話があるわけではなかった。会話をしようと思っても、ちょこまかと動くので、なかなか会話にならない。客が埋まってくるまでに用意しないといけないことを、一つずつ思い出しているようだった。

「このお店、どれくらいなんだい?」

「ここ三か月くらいかしら? まだまだよく分かっていないので、実際にお客さんが入ってきても、まだまだ用意できていないものがあったりして、バタバタなのよ。でも、お客さんが入ってくると、そこから世界が急に変わったように見えるから不思議なものよ。結構それが楽しくて、今は続けていられるのかな?」

 と言って笑っていた。

 実際に、十時前くらいからちょくちょくお客さんが入ってきた。

 サラリーマンの団体が来ることが多いのかと思っていたが、客のほとんどは一人で来る人で、スーツを着ているわけではない。普通のタフな服装で、カウンターの上に両肘をついておしぼりを受け取っている姿を見ていると、完全に常連さんだということは見て取れた。

「私は、近くの商店街でブティックを経営しているんだけどね」

 と、言っていたが、どうやら、お店を閉めてから、夕飯を家で食べてから、落ち着いてきているようだ。風呂にも入ってサッパリしているのかも知れない。どこかスッキリした様子に見えた。

 その後は数人の客が三十分以内にやってきていた。どうやら、皆馴染みのようだった。

 その中には女の子が一人いた。その女の子は馴染みというところまで来ているわけではなかったが、OLをしているということだった。高校を卒業してすぐということだったので、年齢的には同じだったが、こういうお店で見るからなのか、それとも、相手が社会人だと思うからなのか、かなりお姉さんに感じられた。

 まわりの人も気を遣ってくれて、二人を隣同士の席にしてくれて、会話を促しているようだった。信治は普段から孤独を愛する人間なので、女の子はおろか、人と話すこと自体苦手だった。相手の女の子も、あまり会話が得意ではないように見えたので、ここは男として何とか会話を繋ごうと思い、何とか会話をしているようだった。

 というのも、すでに結構アルコールが入っていてアルコールの力で会話をしていたというのもその一つだった。次第に意識がなくなっていき、気持ち悪くなったこともあって、お金を払って表に出た。彼女が介抱してくれて、近くの公園のベンチに座ったところまでは覚えている。

「星が綺麗だね」

 と言って、星を見上げた時、風を感じたのも覚えている。しかし、記憶はそこまでだった。

 気が付けば、大きなベッドの上に服を着たまま寝かされていた。その横に、さっきの彼女が座っている。

「大丈夫? 悪いと思ったんだけど、あまりにもきつそうだったので、私の方から連れ込んじゃった」

 と言って笑っていた。

「あ、ごめん。ありがとう」

 というと、彼女は笑いながら、

「どっちなのよ」

 というと、信治は照れ臭そうに、

「どっちも……かな?」

「ふふふ、でも、あなたも相当酔っていたようだけど、思ったよりも足元はしっかりしていたのよ。私が支えることもなく、ここまでこれたんだからね」

「そうだったんだ」

「もう、大丈夫? ジャワ―浴びてくればいいのに。私は先に浴びちゃったわよ」

 そう言って彼女を見ると、彼女は部屋に備え付けのガウンを着ていた。そう、ここは、今までに入ったことのなかったラブホテルだったのだ。窓のところを見ると、ガラスではなく、雨戸のようなものに、内装と色を合わせた形になっているのが印象的だ。部屋は思ったより小綺麗で、もっと狭いものかと思っていたが、そうでもない。淫靡な雰囲気を残しながら、爽やかさを感じられるその部屋を、信治は見渡していた。

「こういうところに来るのは初めて?」

「ええ、あなたは?」

「私は初めてではないけど、そんなにしょっちゅう来るようなことはないわ」

 淫靡な雰囲気を醸し出している彼女だったが、相手かまわず、利用しているようには見えなかった。贔屓目に見ているからだろうか。

「じゃあ、シャワー浴びさせてもらいます」

 恥ずかしさと、どうしていいのかを一人で考えようという思いがあることから、彼女に勧められる通り、シャワーを浴びることにした。

 それにしても、初めて会った相手と、ラブホテルに一緒にいるこのシチュエーションは、夢ではないだろうかとしか思えない。ずっと孤独を愛してきたはずの信治だった。もし孤独を打ち破る何かがあるとすれば、

――肌のぬくもりを感じた時だ――

 と思っていた。

 それはもちろん、相手は女性である。思春期の時、想像が妄想に変わり、自らを慰めていた自分を思い出すと、情けないという思いと、孤独の象徴が女性のぬくもりを知らないことのように思っていた。

 これまでに好きになった女性がいなかったわけではないが、好きになった女性に限って、彼氏がいたりするものだ。比較的早めに彼氏がいることを知ると、

――深く好きにならなくてよかった――

 と思う。

 もちろん、女性に好かれたこともない。それも、思春期に自慰行為に耽っていたつけが回ってきたからではないかと思うようになっていた。

 普段から、あまりシャワーを使うことのない信治だったが、とりあえず気が付く身体の隅々まで綺麗にしなければいけないという思いの下、時間を掛けたつもりだったが、思ったよりも、時間が経つのが早いのか、あっという間のシャワータイムだった。

 髪を乾かして部屋に戻ると、かすかな明かりだけで、薄暗さの中で、最初は目を馴らすのに時間が掛かった。ベッドの上の掛布団が揺れているように見えたので、中で彼女が待っていてくれているようだ。

 信治がシャワーから出てきたのが分かったのか、彼女は掛布団から半分身体を起こし、ニコニコ笑いながら、こちらを見ているようだ。暗さの中で、よくそこまで分かったものだと思うほど、目が慣れてきていたのだ。

「さあ、いらっしゃい」

 と、彼女が手招きをする。

 目は彼女を捉えて離さない。静寂の中で、キーンという耳鳴りと、自分の心臓の鼓動が聞こえてくるのが分かる。心臓の鼓動がいつになく早くなっていて、高鳴りというのはこういうことなのかと思うほど、激しい音に感じられた。

 掛布団を掴んで、彼女の横に潜り込むと、ガサガサという掛布団のこすれる音と、ミシミシというベッドの軋む音が聞こえてきた。その音がどちらも淫靡に感じられ、すでにプレイは始まっていることを感じさせられた。

 ベッドに入ると、目の前に彼女の顔があった。

――こんなに薄暗いのに、目だけが光っているように見える――

 最初に感じたのが、その不思議な感覚だった。

 目の輝きが、彼女の好奇の目であるということを信じて疑わなかったが、どうしてそう思ったのかというと、次の瞬間、彼女の顔が妖しく歪んで、真っ白い歯が目に飛び込んできたからだ。

 その笑顔を見ると、金縛りに遭ったような気がした。

――久しぶりに感じる感覚だ――

 最近は、金縛りに遭うこともなかった。

 先輩と金縛りや鬱状態の話をした時、金縛りに遭うこともあったが、あれからすぐに金縛りに遭うことはなくなり、それからずっと今まで金縛りに遭っていなかった。この期間が長いのか短いのかは、根拠となるものはなかった。金縛りに遭うこと自体、かなり昔のことだという感覚が残っていただけだった。

 しかし、実際に金縛りに遭ってしまうと、久しぶりだと思ったのも最初だけで、すぐに、まるで昨日のことのように感じたから不思議だった。今と同じ心境を過去に求めて、辿り着いたのが、その時だったのかも知れない。

 金縛りは今まで、自分から発信したものだったが、人に見つめられることで感じたのは初めてだった。ずっと孤独を貫いてきたのだから、当然といえば当然で、もし他人からもたらされたと感じることがあるとすれば。それは夢の中でのことではないかと思うのだった。

 そう思うと今回のことも、

――これは夢ではないんだろうか?

 と感じた。

 確かに、最初から信じられないシチュエーションに、夢だけが存在しているように思えたのも事実だったが、彼女の目を見て金縛りに遭うというのは、まるで神話の中に出てくる「メデゥーサ」のようではないか。

 メデゥーサというと、髪の毛がヘビになっている妖女で、彼女に見つめられると、その光線で、そのまま石になってしまうと言われている。その効力は彼女が死んでも残っているらしく、それほど彼女の中にある恨みは深いもののようだ。女の眼力にはそれだけの力が秘められているということなのだろうが、男性にはないその力が、男性を惹きつける力になっていると言っても過言ではない。

 この時感じた金縛りは、今までに感じたことのない女性の妖艶さを醸し出していて、シャワーを浴びてサッパリしているはずの彼女の身体から、甘く、それでいて酸っぱい香りが漂っていた。

 ただ甘いだけでは、ここまで欲情しないに違いない。鼻にツンとくるような酸味を帯びた香りに、

――これが男を惑わす香りなのか――

 と感じさせた。

 フェロモンという言葉をよく聞くが、これがまさにフェロモンなのだろう。思わず、その白い肌にしゃぶりつきたくなる衝動を、自分の中で抑えるのに、必死になっている自分を感じた。

 それをいじらしいとは思わない。

 それどことか、一歩踏み出せない自分の勇気のなさに閉口していた。いや、勇気ではなく、男らしさを見せることのできない自分が、女性を相手にするのが初めてで、相手に今まで自分を慰めていたそんな自分を見透かされているようで、それが悔しかった。

――ええい、ままよ――

 と言って、しゃぶりつきたい衝動と、何の根拠もない抑えている気持ちとの葛藤が頭の中で渦巻いていた。

 そんなことを知ってか知らずか、彼女は淫靡に微笑んでいる。

 今度はその笑みに、信治は壊れてしまった。

 彼女に貪りつくように、腕を彼女の背中に回して抱きついた。相手が何も言えないように唇を塞ごうとする。

――最初に皆キスをするのは、相手に何も言わせたくないという思いからなのだろうか――

 そんなことを考える必要などないのに、考えてしまう。考えなければ、次に進めないと思ったからだ。

 たわわに実った彼女の胸を掌で覆うように貪っていると、かすかに彼女の吐息が聞こえた。

 さっきまで聞こえていた掛布団のこすれる音は、彼女の吐息で消されてしまったが、ベッドの軋む音だけは残っていた。

――すべての音を打ち消すだけの力ってないんだな――

 またしても、余計なことを考えていた。

 初めて味わう女性の身体、こんなにもきめ細かいものなのかと思いながら、夢にまで見たはずの女体を味わいながら、

――どこかが違う――

 という思いがあったのも事実だった。

 何がどう違いのか分からなかったが、最後までに感じたのは、その時一回だけだった。すぐにその思いを打ち消すかのように、快感の波が襲ってきたからだ。

 快感の波とはよく言ったものだ。

 確かに、寄せては返す感覚が、その時の快感を支配していた。

――自分で慰めている時とは大きな違いだ――

 そう思うと、身体の奥から込み上げてくる思いが、まるで血液が逆流しているかのような感覚を思わせた。

 血液の逆流を感じたのは、それまでなすがままにしていた彼女が、「反撃」に転じたからだ。五本の指が、信治の背中を渡り歩いている。そして、舌を出して、首筋から胸にかけて丁寧に這わせていた。

――まるで、虫が歩いているかのようだ――

 普通なら、気持ち悪いと思うのだろうが、女性という別の生き物だと思っていた未知の相手に、身を任せるのが快感だと思うと、理性など吹っ飛んでしまった。

 さっきまで背中で蠢いていた五本の指が、信治のシンボルをまさぐり始めた。

「ううっ」

 身体中の血液が集まってくるのを感じると、

――自慰行為との違いは、一点に神経を集中できるかできないかの違いだったんだ――

 と感じた。

 彼女はいとおしく愛してくれる。指と舌の攻撃に、破裂寸前のシンボルに集中していた信治は、そこから先はまるで夢のごとく、その場の空気を支配し、支配された。

 空気を支配し、支配される感覚は交互に訪れて、何度繰り返されたか覚えていない。気が付けば脱力感に包まれていて、自分の身体の左半分に、彼女がしがみついているのに気が付いた。

「あなた、最高だったわよ。初めてだなんて思えないほど」

 二人はお互いに気だるさに包まれていたが、信治には、快感の余韻が残っていた。

――彼女にも残ってくれていたら、嬉しいな――

 と思い、褒めてくれた彼女の髪を右手の指で撫でていた。

 すると、彼女はさらに信治の身体にしがみついたが、その様子を見るとやはり彼女も快感の余韻が残っているのだということが分かった気がした。

――これが僕の初体験なんだ――

 それが彼女でよかったのかどうなのか、分からなかったが、満足できたとは思っていた。人によっては、

「何だ、こんなものなのか」

 と、それまでの想像、いや、妄想が強すぎて、実際の初体験で物足りなさが残ってしまったということも聞いたことがある。少なくともそんな思いをしなかったのは、彼女の包容力にあるのだろうと、信治は感じた。

――やはり、リードされるのが一番だ――

 と思うと、初体験がお互いに初めての相手とした人が、物足りなさを感じるのではないかと思えてきた。

 気だるさの中で、信治はふいに口を開いた。

「どうして、僕と一緒にここに来てくれたんだい?」

 と聞くと、少し寂しそうな表情をした彼女は、

「私は、誰か男性がそばにいてくれないとどうもダメなの。実は最近、失恋しちゃって、そのことを思い知ったのよ。失恋してから、最初はこの寂しさを、彼一人に感じさせられているのかと思っていたけど、実は、彼でなくても、私の気持ちを満たしてくれる人がいるんじゃないかと思うようになったの。その人に彼氏になってというつもりまではないんだけど、でも、身体と気持ちのどちらも満たしてくれる人は、まわりにはたくさんいるって思うようになったのよ。だからと言って、まわりの人皆に感じるわけではないの。インスピレーションが自分に合う人だったら、満たしてくれると思うと、今日のあなたを見ていて、この人ならって思ったのが一番の動機かな?」

「インスピレーションが大切で、理由は後からついてくるという考えなのかな?」

「そんなところかも知れないわね。そういう意味では、あなたは最高だったって思うの。あなたには、素直な気持ちと、今まで奥に秘めていた欲情を、一気に私にぶつけてくれた。それが私には一番嬉しかったのよ」

「そういえば、途中から自分でも分からなくなってしまったって思っているんだけど、それがあなたに対して、自分の感情をぶつけていたからなのかな?」

「私はそうだと思うは、だから、あなたの激しさは私の狭くなり掛かっていた気持ちに刺激を与えてくれたのは、間違いのないことだって思うの」

 その日から、二人は付き合ってみようということになった。

 彼女の名前は、香穂と言った。お互いに好きになったというわけでもなかったので、中途半端に見えたが、気持ちは確かに通じ合っていた。付き合ってみたくなった理由もお互いに話をして何となく分かる気がする。見た目で燃え上がったわけではないので、静かに燃えているような雰囲気で、きっと触るとやけどしそうなほどまでには、燃え上がっていたように思えた。

 ただ、二人は身体の相性はよかったのだが、それ以外の面では、接点はほとんどなかった。信治の方は、それでもいいと思っていたのだが、途中からぎこちなくなり始めた。その原因を作ったのは、香穂の方だった。

 信治の方としては、最初こそ、自分の童貞をささげた相手ということで、彼女に対して従順な気持ちでいたのだが、次第に香穂の寂しさを埋めてあげているという優越の意識が芽生えていた。

 香穂の方は、そんな信治の気持ちに重たさを感じ始めたのだろう。お互いにぎこちなくなっていき、別れが目の前に見えてくると、

――相手が悪かったんだ――

 という気持ちを、それぞれで持つことになった。

 先に引導を渡したのは、香穂の方だった。いきなりだったのだが、その時の冷静さを見れば、かなり前から考えていたのだろう。何を言ってもダメなところまで追い詰められても、実に落ち着いた表情で、飄々としているようにさえ見える。

「女性というのは、ギリギリまで我慢するけど、我慢の限度を超えると、絶対に後戻りしないものだ」

 と言っていた人がいたが、まさにその通りだ。

 そのことに気づいてはいたが、この時は、別れてもいいと思っていたので、あまり意識していなかった。そのことが、いずれ後悔することに繋がるのだが、それはこの時からだいぶ経った将来のことだった。何しろ、身に染みて分かるのが、結婚相手に対してだったことが、致命的だった。

 何はともあれ、初めての相手と付き合うところまでは行けたのだが、それが初恋だったのかどうかまでは分からない。過去を思い返しても、今まで本当に誰かを好きになったということはなかったように思う。別れには繋がったが、やはり一度でも好きになったのは、彼女だけだったのだ。そういう意味では初恋と言ってもいいだろう。

 後になって思い返すと、身体の関係から好きになり、付き合うようになったことが、悔しかった。付き合ったことに後悔はなかったが、好きになったのだったら、

――どうしてもっと感情的にならなかったのか?

 という思いが頭をもたげた。

 やはり、身体からの関係が自分の中で罪悪感のようなものに繋がっていたのではないかと思うと、彼女に対しての申し訳ない気持ちと、まるで自分にウソをついていたようなやりきれない気持ちとが、自分を苛んでいたのだ。

――自慰行為の後に感じた虚しさのような感情だ――

 思い出したくない感情の一つだったが、やりきれない思いをするたびに、これからも自慰行為の虚しさを思い出すことになると思うと、そう思ったこと自体にやりきれなさを感じさせられた。

――これから、僕は、誰かを本当に好きになれるのだろうか?

 という思いが強かった。

 孤独を愛しているくせに、誰かを好きになりたいなどという感情は、矛盾している。

 矛盾しているが、もし、孤独を求めるのと、女性を好きになるという感情と、少なくともどちらかが本能から生まれるものだとすれば、それは矛盾ではない。

 もしそれを矛盾だというのなら、心理の矛盾であって、狭義の意味での矛盾となるだろう。しかし、本能という世界まで広げると、どちらかが、心理の世界であり、どちらかが、本能だとすれば、違う世界での発想だということになり、そもそも比較対象ではなくなるだろう。

 しかし、信治は、どちらも本能のようなものだと思っている。しかし、しばらくして気が付くことになるのだが、どちらかが本能であり、どちらかが、潜在意識のなせる業だということが、次第に信治の中での「真実」になりかかっていた。

 人を好きになるということが、これほど自分の中での矛盾と向き合わなければいけないことになるとは思っていなかった。元々、女性を好きになるという感情は、自分に備わっていないと思っていた。

――だから、自慰行為を自分に納得させることができたんだ――

 という思いで、今まで生きてきたのだと感じた。

 だが、女性を好きになってしまった今でも、自分がしていた自慰行為が悪いことだとは思っていない。むしろ、ため込んでしまってはいけないストレスを発散させる一つの手段だと考えればいいのだ。

――何を面倒臭いことを言っているんだ――

 しょせん、何を言っても自慰行為は自慰行為だ。きれいごとでしかない。変に言い訳がましく考えることが余計なことであることを思うと、本能からのものであると思えばいいのだ。

 自慰行為を否定できないと、彼女をほしいとは言えないと思っていたが、それとこれとは別物で、そんな当たり前のことに気づかなかった自分が、情けなく思えた。

 だが、初恋とは儚いものだと言われるが、まさにその通り、初恋だと思った瞬間から、自分が中学時代に戻ってしまったような錯覚に陥っていた。

――中学生なら仕方がないか――

 そんな思いがよぎったのも、無理もないこと。相手が大人であることを思えば、自分に太刀打ちできるはずはないと思うようになってしまったのだった。

 中学生だからと言って、委縮することなどサラサラないはずなのに、委縮してしまったことで、すべてが後追いの考え方になってしまった。好きだと思ったことも遠い過去に追いやってしまい、中学生だと思っている自分は、遠い過去などあるはずがないので、すべてがまるで夢だったように諦めてしまう。その感覚が、初恋を終わらせるに至った一番の原因だったに違いない。

 彼女と一緒にいたのは、三か月程度のものだっただろうか。その間は長いと思っていた三か月だったが、終わってみれば、あっという間だった。それだけその間に進展がなかったことを意味していて、そう思いたくはないが、無駄な時期だったと思わざるおえなくなっていたのだ。

 先輩と話をしていて、そんな時期を思い出していた。今思い出すと、さらに短かったように思える三か月、もうこれ以上思い出すと、今度は記憶から消えてしまいそうなほど、あっという間の出来事になってしまっていた。

 それから、半年ほど経ったが、恋愛はおろか、女性への興味もなくなっていた。

――やっぱり、僕は一人が似合っているんだ――

 と感じたからで、一人でいることの何が自分にとって大切なことなのか、気が付けば考えるようになっていた。

 その答えは分かるはずもなかった。分かってしまうと、孤独を愛することができなくなるような気がしたからだ。そう思うと、

――分かりたくない――

 と思いながら、考えているという、またしてもおかしな矛盾を抱えているように思えていた。

――何かを考えるということは、矛盾と向き合っているようだな――

 という変な理屈に辿り着く。

 そもそも矛盾に何かを感じるということは、無意識のうちに今までに何度もあったことだと思っている。

――何かを考えるということ自体が、矛盾を晴らそうとする感情の表れではないか?

 そう思うのは、飛躍しすぎであろうか。

 矛盾という言葉は意識してしまうと、悪いことのように思えて、堂々巡りを繰り返す。無意識の方が、いつの間にか解決できていることのように思うと、普段からいつも何かを考えている自分の頭の中は正常に働いているのだと安心できるのだ。

 先輩の背中を見ながら歩いていると、いろいろな考えが浮かんでくるのだが、すべてを吸収してくれそうなほど、大きな背中に見えてきたのは、ただの気のせいだろうか。

 アルコールの酔いもかなり影響しているだろう。いつもなら気持ち悪いだけの酔いなのに、その日は、一度表に出てくると、スッキリしていて、今なら何でもできてしまいそうなほどの錯覚に陥っていた。ただ、何でもできたとしても、それが自分の中に満足を抱かせられるかどうかは、別の話ではあった。

「先輩、どこに行くんですか?」

 先輩は、振り返ろうとはせず、声だけが聞こえた。

「黙ってついてくれば分かるよ。実は俺、今日はムラムラした気持ちになっていたんだ。もし、途中で嫌になったのなら、帰ってもいいぞ」

 走って行って、前から先輩の顔を拝んでみたい衝動に駆られたが、その顔を見るのはやめた。怖いからというよりも、先輩に今の自分の顔を見られるのが嫌だったからだ。お互いに相手の顔を見るのを憚っているようで、その気持ちが、二人の間に異様な空気をもたらした。そのせいもあってか、妖艶なイメージを頭がよぎり、敢えて先輩の顔を見ることをしたくない自分を感じていた。

 その時、先日まで付き合っていた香穂のことを思い出した。酔っぱらった自分とどのようにホテルに入ったのかというのを想像していた。意識もなく、彼女の話ではかなりハイテンションだったとはいえ、ずっとハイテンションだったわけでもないと思う。もし、信治がずっとハイテンションだったら、香穂は一緒にホテルに行ってもいいとは思わなかっただろう。

――きっと、どこかで女心をホッとさせるようなものを、僕が見せたのかも知れないな――

 と感じた。

 その時の自分が意識がなかったため、想像できるとすれば、香穂の立場や目線からだった。

 香穂は、大人っぽいところがあるわりに、母性本能に溢れているような気がした。目の前で困っている人がいると、黙って見てはいられないタイプの女性なのだが、もし、相手に裏切られると、一気に落ち込んでしまい、下手をすると報復に転じてしまうことがありそうなほど、気の強いところもあった。

 うまくいかなかった信治に対して報復はなかったが、それは、お互いに最初からうまくいかないものを行かせようとした結果であり、双方に責任があると分かったからだ。

 信治にも自分が悪いという自覚があり、反省しているところもあったので、それを分かった香穂が、信治に報復する理由はなかった。もし、相手がすべての責任を香穂に押し付けようとするならば、報復に至るのは必至だったはずだ。

 香穂は自分の気持ちもさることながら、理屈に合わないことは決して許さないタイプだった。

 彼女の報復は、相手に理不尽さが見えたり、理不尽さをわざと最初から隠して付き合おうとする人間が嫌いだった。お互いに立場もあれば、考え方もある。それだけに守らなければいけないルールは間違いなく存在する。それは相手によって違うものであり、すべてを十羽一絡げのように扱ってしまう人には、浅はかさが許せなかった。

――そんな人に、女性と付き合う資格はない――

 と思っていた。

――彼女の気持ちが手に取るように分かるようだ――

 その時の香穂は、信治に引っ張られながら、実は身を任されていた。重みも十分に感じていた分、信治の心臓の鼓動や、身体の熱さを身に染みて分かっていた。

――ここまで熱くなった身体、初めてだわ――

 と感じたかも知れない。

 信治が童貞であるということに気が付いたのは、この時だったのかも知れない。

 信治と二人で歩いていて、ホテル街に近づいているのを分かっていた。だが、ホテルのネオンが目の前に見えた時、信治は反射的に、足をホテルの方向から背けた。

 実はこの時の記憶だけは、信治にも残っていた。

――どうして背けたりしたんだろう?

 と思ったが、それは一瞬のことで、すぐに覚えていないゾーンに入ってからは、足がホテルに吸い寄せられるように入っていったのだ。

 香穂が信治を童貞だと思ったとすれば、この時ではないかと信治は思っていたが、実際にはその前から香穂には分かっていた。そのことは、今日、香穂の立場に立って想像をめぐらしている中でも、思いつくものではなかった。

 このような微妙なところで、しかも具体的なところで感覚的に違っているところが、数多くあったのだろう。少しくらいは気づいても、具体的にはまったく分からなかった。男女の関係の難しさはこういうところにあるのではないだろうか。

 香穂のことを思い出しながら歩いていると、先輩の背中が大きく見えた。あの時の自分が香穂の前に立っていれば。ここまで大きく見えることはないだろう。

 ただ、大きくは見えたが、背筋は前かがみに曲がっていた。疲れからなのか、それとも悩みを抱えての心労なのか、すぐには分からなかった。

「なあ、俺はこれでも女性にあまりモテなくてな」

「えっ」

 いきなりの告白にビックリした。見た目ガッチリしたタイプで頼りがいもありそうで、第一印象で、悪く思われることはまずないだろうと思える先輩の口から出てくる言葉とは思えなかった。

「どうしてですか? 先輩、しっかりしているし、見た目もそんなに悪くないですよ」

 と答えた。

 あまり褒めちぎっても白々しいだけであり、正直に見た目を言うのが、一番間違いがないと思った。

「そうなんだ。見た目や第一印象は悪くないので、皆が勘違いすることがあるようで、女性と付き合ったとしても、すぐに、『あなたとは世界が違う』って言われて別れが訪れるんだ。それでも最初は、告白されて付き合うことがあったんだけど、何度か同じことを重ねていくうちに、女性からも告白してこなくなった。元々が孤独を好きだから、それほど大きなショックではないが、何度も同じパターンを繰り返したり、それ以降、女性から何も言われなくなると、さすがに考えてしまうよな」

 と、普段の先輩からは想像もできないような愚痴だった。

「先輩がそんなことを考えていたなんて」

 相手が先輩でなければ、ここまでは意外にも思わなかっただろう。

「人は見かけによらないというけど、その通りかも知れないな。俺も知り合いの人で、頼りにしていた先輩がいたんだけど、急に連絡が取れなくなり、消息がつかめたかと思うと、山に一人で登って、事故で死んだという話を聞かされた」

「ショックだったでしょう?」

「ああ、ショックだったというよりも、震えが止まらなかった。その話を聞いた瞬間、まるでそれが自分のことを言われているような錯覚に陥ったんだ。実に不思議な感覚で、その瞬間、先輩の話がまるで他人事のように思えたくらいなんだぜ」

 すぐに相手の気持ちになって考えるのが、無意識のようになっている信治には、その気持ちはよく分かった。

 先輩は続けた。

「人の気持ちなんて、その人それぞれで、しかも、その状況によって、さまざまじゃないか。つまりは、可能性というのは無限にあると言ってもいい。だから可能性というのだろうが、その可能性は長く生きたから、どんどん増えるわけでも、波乱万丈の人生だから、誰よりも可能性があったとは言えないと思うんだ。いくら無限に広がっていると言っても、どこかに限界というものはあり、何かがあってショックを受けるのは、その時が自分の限界だと勘違いしてしまうからなんだろうね。逆に言えば、限界だと思っていることが限界ではないので、人は立ち直れるのさ。『生きていれば、そのうちにきっといいことがある』という慰めの言葉をよく落ち込んでいる人に掛けるけど、わざとらしくも感じるのは、ただその言葉に重みというものがないからさ」

「確かにそうですよね。同じような苦しみを味わっている人に言われるなら説得力もあるけど、自分の言葉に酔っているような輩に、そんなこと言われる筋合いなどないと思いますよね」

「まったくその通りだ」

「僕もこの間失恋したんだけど、最初は全部自分が悪いと思い込もうとしていると、相手に白い目で見られたような気がしたんです」

「それはきっと、お前が自分が悪者になることで、自分を納得させようと思ったように見えたんじゃないか? 悲劇のヒーローを演じたいという気持ちも分からなくもないが、その感情は、当事者の相手に、一番露骨に見えるものらしい。そして、そんな思いを今後もしたくないから、女性は相手の男性から去っていくんだよ」

「そうなんですね」

「おいおい、他人事のように言っているけど、お前にも言えることなんだぞ。自然消滅のようになっている人もいるけど、見た目一番静かに見えるが、実際には、ドロドロした気持ちの応酬でしかないんだ。どっちも一歩も譲らない気持ちが、お互いに騒ぎ立てようとしない。まわりに知られて、余計な憶測を呼びたくないという思いからなんだろうな」

「そういえば、彼女の嫌なところも見えたような気がしたんですが、なぜか今思い出そうとすると、思い出せないんですよ」

「それを思い出す時が来るとすれば、もう一度同じような過ちを犯した時じゃないかな?」

「ということは、思い出さない方がいいということですか?」

「そんなわけではない。思い出すことで、うまくいけば、最高のカップル誕生となるかも知れない。しかし、正直にいうと、その可能性は低く、もしカップルとなっても、リスクが高いかも知れない」

「どうしてそんなことが言い切れるんですか?」

「言い切ったわけではない。ただ、自分が似たような思いをしたことがあったからだね」

「でも、先輩は今、いつも同じ失敗を繰り返していて、それ以降女性から声を掛けられないと言ったじゃないですか」

「僕の話はそれ以前のことだよ。唯一女性と付き合った経験というべきだね」

「先輩がモテないと思っているのは、その時のリスクが影響しているのかも知れないということなんですか?」

「そう取ってもらってもいいと思う。ただ、その時の思いは、自分の中では遠い昔の出来事のように思えるんだ」

「それは僕には理解しにくいことですね」

「まあ、いい。俺は孤独が好きだという思いに変わりはないんだけど。女性がそばにいてくれないと、正直寂しさを感じる。相手の言葉がいくらお世辞であっても、それでもいいと思えるような相手がいれば、余計なことを考えずに済むだろう?」

「そんな風に思えるような相手がいるんですか?」

「ああ、いるのさ。だけど、人によっては虚しく感じるんだろうと思う。身体だけの関係と言ってもいい。だから、これから行こうとしているところは、強制はしない。だが、お前なら最後に虚しくなるということはないと思うんだ。お前には俺と同じ雰囲気を感じるからな」

「風俗……ですか?」

「ああ、そうだ。お前は行ったことあるか?」

「いいえ、ありません」

「そうか。実は俺も先輩に連れて行かれたんだけど、あの時もこんな感じで、最初にいろいろ話をして、途中で向かっているところが風俗だと気付かされた。一瞬騙されたと思ったが、ついていくのをやめる気にはならなかった。ついて行くしかないと思ったからだが、もちろん興味もあった。その時、先輩からも散々、嫌なら帰っていいって言われたよ。そう言われると、なかなか帰れるものではない。スケベ心も手伝ってか、次第に楽しみになってきたさ。『お金を払って女性を買う』という行為だとしか思っていなかった俺だったけど、そこだけは入るまでには感覚が変わった。もう一度言う。強制はしないので、嫌だったら帰っていいからな」

 先輩にそう言われると、ついていくしかなかった。

 確かに先輩の言う通り、

「お金を払って、女性を買う」

 という感覚が薄れていくのを感じていた。それは、身体に低電圧の電流が流れているような感覚だった。

 身体に電流を感じると、口の中が鉄分を帯びているように感じることがあった。子供の頃、電池の極を舐めてみて、

――鉄の味だ――

 と感じたのを思い出した。

 また、同じように鉄分の味を感じたこともあった。

 何度か感じたことだったが、一番最初に、そして一番イメージを強く持っているのは、小学生の頃にあった出来事だった。

 学校の授業で鉄棒があり、千部の指が順手になっていたことで、身体を支えられずに、顎から落ちたことがあった。

 その時に唇の中を噛み切ってしまったようで、口の中に血が溢れてくるのを感じた。

 吐き出しても血が溢れてくる。

 その時に感じたのが、鉄分の味だった。

 小学生の低学年だったので、鉄の味がどんなものか知らなかったはずなのに、どうしてその時に鉄の味だと思ったのか、後になって考えてしまった。

 だが、実際にはその時に鉄の味を感じたわけではなく、後になって、鉄分を舐めることがあり、その時に感じた鉄分の味が子供の頃の記憶を思い起こさせた。その時、子供の頃の記憶があまりにも曖昧だったため、鉄分の味を最初から感じたのだという風に錯覚してしまったに違いない。

 電流を感じて鉄分の味を感じたのは最初だけだった。痺れのようなものは感じるが、味を感じなくなったということは、すぐに味がなくなってしまったのか、感じてはいるが、味に慣れてしまったのかのどちらかである。もし後者だとすれば、味を感じるということは、次第に感覚が膨れ上がってこなければ、どんどん感じなくなるということになる。これこそ無限のものであるはずもなく、どこかに限界がある。そういう意味で、胃袋の限界こそが、味を感じる感覚の限界ではないかとも感じられた。

 人間にはいろいろな欲がある。

 支配欲、独占欲、征服欲、物欲、性欲、食欲とそれぞれだが、前者の三つはない人がいたとしても、後ろの三つに関しては持っていない人はいないだろう。

 しかし、その中で本当に限界のないものはないと思う。一気に燃え上がって、ピークにくれば、果てることで我に返る性欲など、必ず限界に至るまでに何かの兆候があるというものだ。

 性欲などは、果ててしまうと、我に返って罪悪感に苛まれる人もいるだろう。しかし、本当のクライマックスは果てる瞬間に訪れる。だからこそ、人は果ててしまった後の憔悴感を味わい、罪悪感を少しでも和らげようとするものなのかも知れない。

 思春期以降の人間で、この性欲のない人はいないだろう。少なくとも若くして命を閉じた人間でもない限り、一度も果てずに人生を終わることはありえないはずだからだ。

「種の保存」

 という意味でも大切であるが、人間が生きている証として性欲を感じないということは「罪」なのではないかと言えるだろう。

 しかし、そんな理屈を考えてしまうということは、風俗というものを他人には認められても、自分には認められないと思っているからであろう。

「自分に辛く、他人に甘い」

 と言えば聞こえはいいが、要は自分が他人とは違うということを自分に認めさせたいからだ。

 もっとも、自分に辛く、他人に甘いなどという言葉は、自分が他人とは違うと思っている時点で、自分には関係のないものだったはずだ。それを隠れ蓑にしてしまおうというのは、少々虫が良すぎると言えないだろうか。

 そんな考えが頭をよぎっていたが、気が付くと、先輩の足は風俗街に、向いていた。今までにテレビなどで見たことはあったが、実際に訪れるのは初めてだ。実際に来てみると、いかがわしいというよりも、艶やかさが男の部分をそそり立たせる。結果としては一緒だが、言葉にしようと思えばいくらでも出てきそうだ。

 風俗にもいろいろ種類があるのは知っていた。先輩が連れてきてくれたのは、その中でも高級さが漂う場所だった。

「この辺りはソープ街なんだ。あまり経験のない人は、一人で歩き回らない方がいいぞ」

 と教えてくれた。

「はい」

 先輩の足は、スピードが緩むことはない。どうやらお目当ての店は決まっているようだった。

「俺も最初に来た時は、先輩に連れてこられたんだ。今と同じように、一人では来るなって言われたっけ」

 そう言いながら、歩を進めている先輩の横にピタリとくっついて歩いていた。

 歩行者は確かにほとんどいなかった。客引きの人が近寄ってくるが、先輩が手で合図をすると、彼らは大人しく引き下がっている。

「ほら、この店だ」

 そう言って先輩は一軒のソープに入った。

 信治も遅れまじと中に入ったが、

「いらっしゃいませ。お客様はいつものみゆきさんですね?」

 と言って、スタッフの男性が笑顔で先輩に声を掛けていた。

「ああ、大丈夫かな?」

「ええ、大丈夫ですよ」

 こういうところのスタッフというのは笑顔は見せないものだと勝手に思い込んでいたが、さすが客に対して笑顔がないサービス業のお店というのはないものだ。そう思うと、スタッフの笑顔に普通に接している先輩を見ると、

――必要以上に緊張することなんかないんだ――

 と感じた。

「今日は、後輩を連れてきたんだけどね」

 スタッフは信治を見ると、

「これはこれは、先輩からのご紹介ですね。ご来店ありがとうございます」

 と、丁寧に頭を下げてくれる。

「あ、いえ、こちらこそ、よろしくお願いします」

 と、同じように頭を下げる。

 こういう他愛もない会話でも、普段話すことのない相手と会話をしていると思うと緊張する。

「それでは待合室にご案内しますので、そこで女の子をお選びいただきます」

 と言って、二人を待合室に案内したスタッフは、手に女の子の写真を持っていて、テーブルに並べて見せてくれた。カードのようになった写真を、トランプのように、一枚一枚並べてくれる。目の前に置かれたのは四枚だった。

「現在ご案内できる女の子です」

 カードには年齢や源氏名、スリーサイズと言った選択のための簡単なプロフィールが載っていた。

「お勧めは?」

 と聞いてみると、

「この子はテクニック、この子は会話が楽しい。この子は癒し系ですね」

 と、三人を指さしたが、信治が気になったのは、その三人以外のもう一人の女の子、あどけなさが残るというか、他の三人が妖艶な笑みを浮かべているにも関わらず、その子だけが、笑顔の中に、ぎこちなさを感じさせた。

「じゃあ、僕はこの子で」

 と言って、気になった女の子を指さすと、スタッフは一瞬驚いた表情になったが、すぐに、

「友香さんでございますね」

「はい。お願いします」

 友香と呼ばれた女の子をチョイスした信治は、選んだ瞬間、他の女の子の写真の笑顔が急にわざとらしく感じられた。

――やっぱり友香さんを選んでよかった――

 とホッとしたが、まだ対面もしていないことを思い出し、すぐに我に返った。

 風俗で出てきた写真と、実際に出てきた女の子がまったく違って見えたという話はよく聞く。信治も写真で想像しているような女の子が目の前に現れるなどとは思っていなかった。

 しかし、四人の写真を見た中で、友香だけがその思いを最小限にとどめてくれるであろうと確信した。やはり、いきなりショックを受けるのは、誰だって嫌だろう。

 まず、先輩が先に呼ばれた。

「じゃあ、お先に、お前はお前で楽しむんだぞ」

 と、先輩はそう言って、カーテンの奥に消えて行った。

 待合室には自分一人が残された。先輩と二人で来たはずなのに、待合室で一人になった瞬間から、自分一人で店に来たような思いを抱くに至った。

――思い切って、一人で来てみたんだ――

 という発想から、ここまでのシチュエーションを勝手に想像してみた。すると、最初からドキドキしていた気持ちが、まったく変わることなく今まで持続していて、しかも、その思いが最後に累積していたことに気づくと、緊張感が最高潮であることが分かってきた。

 待合室での時間は、一人取り残された気分になってしまうと、緊張とプレッシャーが襲ってくるような気がしたが、その二つを揉み消すことができるほどの期待が、信治の中にあった。

 しかし、期待があるということは、その裏には不安が蠢いているのも分かっていた。だが、その不安とは、

――自分が最後に罪悪感に苛まれたらどうしよう――

 という思いで、期待に比べれば、ほとんど何でもないことだった。

 しかし、女の子との時間が短くなってくるにしたがって襲ってくる思いが罪悪感であることを思うと、無視できないものでもあった。

 その思いが、

――この待合室の時間を、なるべく楽しみたい――

 という思いにも繋がっていた。

 だから、期待感を大いに盛り上げて、緊張も心地よさに変えたかった。そんな思いを抱いている時に限って、いきなり突然襲ってくるのが、楽しい時間の終焉だった。

「お客様、お待たせしました。カーテンの向こうに女の子が控えています。ごゆっくりお楽しみください」

 と言って、スタッフが送り出してくれた。

「初めまして、友香です。今日はよろしくお願いします」

 そう言って、信治の手を取って、お部屋まで招いてくれた。

「どうぞ、こちらのお部屋です」

 中を覗くと、暗い部屋に簡易ベッドの横に服を入れるかごが置かれていた。その奥に小さな冷蔵庫があり、その上にハッキリは見えなかったが、何かいろいろ置かれていたような気がする。

「いらっしゃいまっせ。今日はご指名ありがとうございます」

 と、信治を入り口に立たせたまま、三つ指をついて挨拶をした。一瞬恐縮した信治だったが、言葉の後に初めて見せた彼女の笑顔にドキッとしたものを感じた。

――写真ではあんなに緊張して見えたのに――

 笑顔の彼女は薄暗い部屋をパッと明るくしてくれたような気がした。

 信治は無言で立ち竦んでいると、またしても笑顔で、

「どうぞ、こちらです」

 と言って、信治を部屋に導いてくれた。

 この部屋に連れてきてくれた時もそうだったのだが、友香が信治を導いてくれる時は、手を握るわけではなく、信治の背中に彼女の手を添えてくれて、優しく押してくれるような感じだった。

――こういうのを癒しっていうのかな?

 手を繋いだり、腕を組まれる方が、本当であれば、恋人気分でドキドキするものなのかも知れないが、友香は敢えてそんなことをせずに、やさしく背中を押してくれていた。

――恋人気分というよりも、お姉さんのような感覚だな――

 と感じた。

「お客様は何てお呼びすればいいですか?」

「名前かい?」

「ええ、もちろん、本名を言わなくてもいいですよ。ニックネームのようなものがあればいいんです」

 いつも一人でいる自分にニックネームなどあるはずもない。しいて言えば小学生のお低学年の頃、言われていたあの呼び方くらいか……。

「ノブって言われていたかな?」

 それを聞くと、友香の表情はさらに崩れ、笑顔が増したような感じだった。

「じゃあ、ノブ君って呼ぶね」

「ええ、そうしてください」

「さん」ではなく「君」と呼ばれるのは嬉しかった。さっき感じた

――お姉さんのような雰囲気――

 がまたしても、信治をドキドキさせた。いや、まだドキドキというよりもワクワクというべきであろうか。いきなりドキドキするよりも、ワクワクがあってドキドキする感覚の方が嬉しい。それは、前から思っていたことだったはずなのに、いつの間にか忘れてしまっていることに気が付いた。

「着ているものを脱いでいきましょうね」

 と言って、脱ぐ時、友香は手伝ってくれた。

 最初見た時、ベビードールのような衣装を着ていた友香は、いつの間にかすべてを脱いでいて、、あとは信治を脱がせるだけになっていた。

――いつの間に脱いだのだろう?

 そんなことにも気づかなかったほど、緊張していたということなのか、信治は、どうやら友香に主導権を握られているかのようだった。

 すべてを脱ぐと、

「シャワーに行きましょう」

 シャワールームでは、身体を丹念に洗ってくれる。

「ごめんなさいね。うちは高級店というわけではないので、マットのサービスはないんですよ」

 と言っていたが、

「いいですよ。実は風俗に来るのは初めてなので、あまりいろいろあっても戸惑うばかりだと思っていたので」

 と言ってあげた。

 本音を言うと、

「ソープといえば、マット」

 というイメージがあったのも事実、だから正直、

――あれ?

 と思ったりもしたが、友香に謝られる理由もなかった。

 逆に考えれば、余計なプレイがない分、

――時間を有意義に使えるというものだ――

 とも感じた。

 友香は、そんな信治の気持ちを知ってか知らずか、自分の仕事をこなしていた。シャワーの暖かさが次第に身体にしみついてくると、

「じゃあ、お風呂に入りましょう」

 と言って二人で湯船に浸かった。その時から、ソープとしてのサービスが本格的に開始されるのであった。

 時間としては、九十分のコースなので、十分にあると思っている。だが、先輩が一言待合室で言っていたのを思い出した。

「時間があると思っていると、後半はあっという間にすぎるので、何がしたいのか、何を望むのかというのを、ある程度考えながらいるといいよ」

 と言っていた。

 部屋に時計もあり、気にしながらだったので、最初の十分は、自分が考えていたよりも長く感じた。

――これだったら、先輩の言っていたことも僕には当てはまらないかも知れないな――

 と感じたが、次の十分では、最初の感覚よりも長いのは長かったが、最初の十分に比べると、若干短く感じられた。

――時間というのは生きているんだ――

 こんなことを感じたのは、過去にもあったような気がした。

 誰かを待っているのだが、その人は本当に来てくれるのかどうか分からない。意識としては、来てくれないような気がする。その可能性が限りなく高かった。

 しかし、来てくれないという可能性はゼロではない。だから果てしなく待ち続けた。

――あれっていつのことだったのだろう? そして相手は誰だったのか?

 近いはずの記憶なのに、ハッキリと分からない。信治は、自分の記憶が曖昧な時がたまにあることを思いながら、友香に身体を任せていたのだ。

 お風呂で身体が温まると、ベッドへと移動した。

 友香は先に信治をベッドに行かせて、自分の身体を丁寧に洗ってから、ベッドへと後から入ってきた。

 すでにリラックスしていた信治の身体に、きめ細かい肌がまとわりついてくる。

――こんなに気持ちいいなんて――

 とうっとりしていると、友香は身体中を舐めてくれた。甘い吐息が漏れる空気の中、乾いた身体にすでに汗が滲んできそうな気がして、またしても、胸の鼓動が高鳴っていた。

「あぁ、友香さん……」

 自分の声にドキッとしていた。唇が身体中を這った後、いよいよ血液の充満した下半身へと移ってくる。

 一生懸命に尽くしてくれる友香を見ていると、身を任せている自分がまるで殿様になったかのような気分になってくる。身体の奥からはみ出してくる快感だけではなく、精神的にも支配欲を感じさせると、

――友香と密着したい――

 と感じた。

 せっかくの奉仕をしばし放棄して、友香の身体を抱き寄せて、肌の密着の間になるべく空気が入らないように、貪るように友香を抱きしめた。友香も身体をくねらせて、信治に協力してくれる。

「あぅ、ノブ君」

 吐息とともに名前を呼ばれると、重ねた身体に、足を絡め、必死に唇に吸い付いている。

――こんなにキスが気持ちいいなんて――

 知らなかったことを、なるべく今日知って帰りたいと思った。

 そこから先は、どんな順番だったのか、ハッキリと記憶にない。気が付けば、友香の上で腰を動かしている自分が、欲望に身を任せながら、目の前で乱れている友香の様子を見て、

――いつ限界に達するのか――

 ということだけを考えていたようだ。

「我慢しなくてもいいのよ」

 快感に身を委ねながら、友香は声を絞り出すように言った。友香が信治の限界が近いことを分かっていた証拠である。

 相手は百戦錬磨だと思えば、それくらい分かって当然だったが、少なくとも二人は初対面。お互いのことはまだ何も知らないという意識があるものだから、友香が分かってくれたことを、素直に喜んでいた。

――我慢しなくていいんだ――

 と思うと、一気に気持ちが高ぶってきた。

「もう、我慢できない」

 と腰を激しく振ると、

「きて」

 と、合図してくれた友香の中に果ててしまった。

――こんなものなんだ――

 これが、最初の感覚だった。

 確かに初めての経験だったので、どんな思いになるのか、過大評価していたのは仕方のないことだと思うが、思春期の時、あれほど憧れていたセックスだということを思うと、まわりから聞く印象に比べれば、大したことはなかった。

 しかし、果ててからの気だるさは悪い気はしない。相手の身体を貪りたくなるのは、むしろ今の方だった。信治は、友香がいとおしくなっていった。

 二人は憔悴の中で、身体を起こすことができない。信治は、友香を抱きしめ、先ほどのように、身体をこれでもかと思うほど密着させ、足を絡めていた。

 先ほどとの違いは、身体が敏感になりすぎていたので、密着感が最初よりもハッキリと感じられた。

――ずっと、このままいたいな――

 と感じた信治だった。

 身体の気だるさが却って快感になるということを自慰行為の後でも分かっていたはずなのに、どうしてあの時は罪悪感に苛まれなければいけなかったのか、自分でも不思議だった。

「はぁはぁ」

 お互いに、一戦交えたという言葉がピッタリで、どちらが先に呼吸を取り戻すことができるのか、そのことばかりを考えていた。

 普段の呼吸を取り戻すことが最初にできたのは、信治の方だった。その時に感じたことは、

――男の方が、快感が薄いのか、それとも復活が早いのか、どちらなんだろう?

 と思った。

 友香は、信治に抱きついたままだった。

「私、今日は頑張っちゃった」

 と友香が言ったが、

「じゃあ、普段は頑張っていないということ?」

 というと、

「いじわる。あなただから頑張ったのよ」

 とニッコリと笑った。

 友香はお世辞を言うような女性ではないと思っていたので、相手と身体を交えたことで、相手の気持ちも分かることができそうに感じているのかも知れない。

「ノブ君は大学生なの?」

「ええ、今日は先輩に連れてこられたんですよ」

「へぇ、そうなんだ。ノブ君だったら、そうかも知れないとは思ったけど、何となく違ってほしかった気もするわ」

「どういうことなんだい?」

「ノブ君が初めてだというのはすぐに分かったわ。でも、ノブ君は他の人の童貞喪失とは少し違う気がしたの」

「それは?」

「何となくだけど、余裕のようなものを感じたというのか、ノブ君は、他の人と違うって感じると、ノブ君もその意識を自分の中で強く持っているような気がしたのね」

「確かにそうだけど、どうして分かったんだろう?」

「実は私もそうなのよ。でね、私は、初めての人が指名してくれたことって今までにあまりないの。ほとんどの人はフリーで私に振り分けられるのね。だから、最初の写真で私を指名してくれる人は珍しいの。最初に、私を指名してくれた人は、何か運命のようなものを感じたって言ってくれたんだけど、ノブ君も同じようなことを感じてくれたのかなって思って、それなら嬉しい」

「そうかも知れない。他の女の子も悪いという感じだったわけでもないので、消去法だったわけでもない。それは間違いないんだよ。だから、そういう意味では、運命のようなものを感じて君を選んだのかも知れない」

「嬉しいわ」

 そう言って、友香はまたキスしてくれた。

「僕は、今まで正直にいうと、自慰行為しかしたことがなかったので、女性を相手に不安があったんだ。実際にそういう話も耳に入ってきたことがあったからね」

「それは精神的な問題だって思うわよ。そういう意味では最初の相手というのは、その人にとって大切なことかも知れないわね。最初にうまくできなければ、それがトラウマになって、なかなか自信が持てなくなる。そのうちに人を好きになって、いざという時、できなかったら、さらにトラウマが大きくなって、結婚に対しても、足踏みするようになるんでしょうね。結婚できない男性の中には、そういうトラウマを抱えている人って、意外と多いのかも知れないわ」

「精神的なことというのは、どうしても付きまとってしまうんだろうね。トラウマというのは、誰もが様々な形で大なり小なり持っていると思っているんだけど、肉体的な問題が精神に影響を及ぼしていた場合、結構厄介なんじゃないかな?」

「そうね、だから、私たちのような風俗の女性を相手にできても、普通にお付き合いしている女性とはできないという男性もいると思うの。考え方一つなんでしょうけど、こればかりは、まわりの問題ではなく、その人だけの問題ですからね」

 と言って、友香は少し考え込んでいるようだった。

「人それぞれだからね。僕は特にいつもそう思っているんだよ。僕は人とは違うって思うことが、僕の精神の中心にあるって思っているからね」

「ノブ君は、そういう人だって思っていたわ。実は私もそうなのよ。そして、以前お付き合いしていた人も同じような考えの人だったんだけど、あまりにも私たちの考え方が似ていたので、衝突のようなものもたまにはあったの。でも、彼はある日、行方不明になって……」

 と、そこまで言うと、友香はハッとなって話すのをやめた。そして、すぐに笑顔になって、

「ごめんなさい。初めてお会いした人にこんなお話するなんて……。でも、ノブ君には言いたかったのよ。どうしてなのかしらね」

 と言って、また笑ったが、今度は照れ隠しの笑いであることは、信治には分かった。

 その表情を見ていると、初めて会った人のように思えなかった。

 信治は、近い将来に自分と以前にどこかで会ったと思うような人と出会うような気がしていた。その感覚はずっと抱いているものではなく、たまにふっと感じることだった。友香を見ていると、懐かしさを感じる。以前にどこかで会ったことがあるという感覚ではないのに、懐かしさを感じるのは、不思議な感覚だった。

――友香は、近い将来出会うと思っている人とは違うのだろうか?

 自分が感じていた思いと、友香への印象は違っていた。それだけに、友香とは本当に昔知り合いだったような気がした。近い将来出会うと思っていた人への信憑性は薄いものだったが、友香との出会いはもっと確実なものに感じられた。

 友香は見た目、幼さが残ってはいるが、落ち着いた雰囲気を醸し出していることで、信治よりも年上に感じた。「ノブ君」と言われても違和感はなく、くすぐったさを感じられるほどだった。

 友香と話をしていると、落ち着いた気分になった。まるで喫茶店で待ち合わせて、待っていた相手が現れた時の感動が浮かんできた。来てほしいと思っている相手の姿を見取ることができた時、一種の達成感のようなものが浮かんでくる。それは相手がちゃんと来てくれたことで、自分を信じることができると思う感覚で、今までに何度、

「待ち人来たらず」

 というのを経験したことだろう。

 だが、今までに誰かと約束しても、すっぽかされたことはなかった。来れなくなったとしても、連絡はキチンと貰っていたからだ。逆に、友達が少ない信治は、友達を厳選していたと言ってもいいだろう。

 今でこそ、友達らしい友達はほとんどおらず、厳選しすぎたという思いもあるが、いないならいないで、困ることではない。

 大学に入学してすぐくらいには友達をなるべく増やそうと思っていたのだが、厳選し始めると、次第に友達というものに対して、興味が薄れてきた。友達をほしくないと思うようになると、自分が他の人と違うという意識が強まってきて、この間先輩と話をしたような鬱状態に陥ってしまう。

 しかし、先輩や他の人のいう鬱状態とは明らかに違っている。

 信治の鬱状態は、

――まるで夢の中にいるようだ――

 という感覚から生まれたものだった。

 普段の夢と違うところは、目が覚めてからでも、その時のことが記憶にあるということだ。

――ひょっとすると、一度忘れてしまってから、すぐに思い出すのかも知れない――

 忘れてしまった時間が短すぎるのか、それとも夢と現実の狭間で、一番意識がない時期なのか、あくまでも想像でしかないが、

――一度忘れてしまわなければ、夢と現実の間を行き来することはできない――

 と感じるようになっていた。

――夢で終わらせてしまいたくない――

 という感覚を、友香との間に感じた。

 初めての風俗で、緊張と感動、それ以上に、想像していたことと違っていたことへの戸惑いなど感じることで、夢として終わらせてしまうことで、記憶から消えてしまうのではないかという思いが募るのが怖かったのだ。

「ノブ君、何を考えているの?」

 と、友香に覗きこまれて、

「夢として終わらせたくないと思ってね」

 と、正直に答えた。

「夢としては終わらないわよ。いえ、私が終わらせたくない。でも、ここでの世界は、あなたがいるべき世界なのかどうか、私には分からない。夢ではないけど、ここを一歩出れば、現実に引き戻されるあなたを想像すると、私は少し悲しくなってくるの」

 その言葉に一瞬、ホロっと来たが、

「その感覚は、他の人に対してもあるんでしょう?」

「一期一会という言葉があるけど、ちょっと寂しい気がするの。せっかく出会ったのに、その日で永遠にお別れということもあるものね。それって本当に悲しいことよね」

「でも、それが人生というものなんじゃないかな?」

 というと、

「本当にそう思ってる?」

「えっ、どうしてなんだい?」

「今のノブ君の顔は、とっても嫌な顔をしていた。流れに任せて、思ってもいないことを言っているような感じがしたの。言葉が軽いというか、相手に疑念を抱かせる言い方なのよ」

 と言われて、ショックを受けた。

 正直、自分が何と言ったのかすら覚えていない。それだけ、発した言葉に対して、責任を持っていないのだろう。

 ただ、今まで自分の発する言葉に対して、責任など感じたことはなかった。

――思ったこと、感じたことを口にしていればいいんだ――

 と感じていたが、それが間違いだというのか。

 少しの沈黙の後、友香が口を開いた。

「ノブ君はノブ君でいいのよ。そんなノブ君が好きっていう人だっているはずだから、そんな人に対して、疑念を抱かせるような中途半端な言い方をすると、相手を傷つけることになるから、気を付けた方がいいわよ」

「ありがとう。気を付けるよ」

 謝りはしたが、どうにも釈然としない。

「ノブ君は、絶えず頭の中で何かを考えているでしょう?」

「うん、気が付けば何かを考えている。無意識なんだろうね」

「ノブ君が、軽い気持ちで相手に合わせるように返事をする時というのは、何かを考えながら話をしているからじゃないのよ。実はその逆で、何かを考えている時は、会話にも集中できているんだけど、ふっと考えるのをやめる時があるのよ。そんな時、ノブ君は『心ここにあらず』という心境になっているのね。だから、私はノブ君の顔に中途半端な考えの下、とても嫌な顔になっていると思ったの」

「どうして、そんなにいろいろ分かるんだい?」

「やっぱり、身体を重ねたからかしらね。抱いてもらいながら、あなたをじっと見ていた。私は相手を見つめることが快感に繋がることを分かっているつもりなので、ノブ君をじっと見つめていると、いろいろ分かってくるような気がするの。こうやってお話をしていると、自分が身体で感じたことが正しかったと証明してくれているようで、嬉しくなってくるのよ。でも、嬉しさが込み上げてくる中で、気になるところはしっかりと意識できてしまう。ずっと嬉しい気持ちでいたいので、気になることは、相手には言うようにしているの。だから悪く思わないでね」

「悪くなんて思わないさ。でも、もしそれが僕だけのために感じてくれていることだったら、本当に嬉しいんだけどね」

 そう言いながら、少しだけだが自分のことを話した。性格的に友達をほしいとは思わず、孤独を愛する性格だということをである。

「普段の私だったら、『あなただけではない』というんだけど、今日の私は、『あなただけよ』って言いたい気分になっているの。ここまで話してきて、このセリフは信憑性がないかも知れないんだけどね」

「そんなことはない。僕もこうやってお話できているだけで嬉しく思うんだけど、心の中では、このお部屋の中だけの世界であって、一歩表に出ると、『そこはあなたが住んでいる世界であって、私がそこにはいない』ということを君に感じてほしくないって思うんじゃないかな?」

「それは錯覚かも知れないわよ」

「そうだね、錯覚かも知れないし、錯覚で終わってしまった方がいいのかも知れない。僕には今恋愛をするという意識はないんだ」

「あなたもいろいろあったのかしら? あなたは、人と関わっていないから、あまり深くは思っていないかも知れないけど、まわりの人が聞けば、いろいろあったように感じるかも知れないわね」

「どうして?」

「体験して感じることというのは、誰しも成長していく中で大なり小なりあるものだけど、あなたのように体験しているわけではないのに、頭の中で理論として出来上がっているのは、それだけ想像力が強く、実体験では得ることのできない感覚を持っている。それは表からのものではなく、内に籠っているものが醸し出される感覚なんじゃないかしら? それを私は『感性』と呼べるものなのかも知れないって思うの」

「感性という言葉、僕は好きです。友香さんの口から出てくると、余計に嬉しく思えてきました」

「私も嬉しいわ。でもね、あくまでもこのお部屋だけのことだということを忘れないようにしてね。だから、私は『あなただけよ』という思いに駆られたんだと思う。私もあなたは、他の人とは違うと思えてきたからなのかも知れないわね」

 信治はふいに時計を見てみた。

 時計の針を見る限りでは、あと少しで時間だった。

――九十分なんてあっという間だな――

 と感じた。

 時間が迫っていることに友香も気づいたのか、

「じゃあ、シャワーを浴びましょうか?」

「ええ」

 と言って、友香が浴室に入ったのを見ながら、信治も立ち上がろうとした。

「あれ?」

 どうやら、こんな時に金縛りに襲われたようだった。

――この時間が終わってほしくないという気持ちの表れなんだろうか?

 と思ったが、そんな抽象的な気持ちであるはずもなく、むしろ、

「来るべくして来た終わりの時間」

 だと思うと、潔く別れの時間を迎えることが一番だと頭の中では思っている。

 だが、その金縛りはすぐに解けた。

「どうぞ、こちらに」

 という友香の声が聞こえると、たった今起き上がることのできなかった身体が浮き上がるように動くのを感じると、今度は身体が軽くなるのを感じた。

――今の金縛りは、身体を一気に起こすことができるようになるためのステップだったんじゃないか?

 と思うと、起き上がった信治の顔に対し、ニッコリと微笑んでいる友香の顔があった。

 信治はこの瞬間、快感を残したまま、元の世界に戻ることができることを確信した。

 シャワーを浴びている間は、まるでカップルのようだった。身体を重ね、一体になることができ、会話をすることで心が通じ合ったような気持ちになれると、最後のシャワーはしめくくりになるのか、現実世界への帰還になるのか、惜別の念が残っているわけではなかった。

 シャワー室では、二人とも一言も声を発せず、カップルのような気がしているのに、傍から見れば、形式的なサービスが淡々と行われただけにしか見えなかったに違いない。

 シャワーから出ても、無言で服を着る。一連の動きは、とても初めてのものとは思えないほどだったが、友香も決して声を掛けることがなかった関係は、すでにシャワーを浴びることで、現実世界へ返してあげようという友香の気持ちの表れだったのかも知れない。

 服を着終わると、ちょうど九十分、終わりの時間だった。

「また来てくださいね」

 と言って、友香はメッセージカードをくれた。

 ここまで形式的な儀礼を終わってカーテンの裏まで来ると、ふいに友香がキスしてくれた。唇と唇が重なり、吐息が漏れるほどの激しいものだった。

「どうしたんだい?」

 息を切らしながら、信治が言うと、

「我慢できなかったの。ごめんなさい」

 と言って、今日一番の恥ずかしそうな表情をした。

――この日、一番忘れたくない表情だ――

 という顔を、最後の最後にしたのだ。

「また来るね」

 この時は、正直、また来るという思いをまったく疑う余地もなかった。

「お待ちしていますわ」

 見上げるその目は、慕われているように思えてならなかった。

――これも、以前どこかで――

 と感じたが、込み上げてくる記憶を、信治は途中で打ち消した。

 今は、友香の思い出だけを噛みしめながら、今日一日を終わりたいという思いだったのだ。

 友香に背中を押されるようにして、カーテンの向こうに姿を消した信治を、いつまでも見送っている友香がそこにいた。

 信治は、そんなことを知る由もなく、待合室に戻ってくると、すでに終わってスッキリした顔をしている先輩がいた。

「どうやら、よかったようだな」

「ええ、ありがとうございます」

「俺も最初の時は、きっとそんな表情をしていたと思うんだ。でも、表情と感覚がまったく違っていた。そんな思いは、今までにしたことがなかっただろう?」

「ええ」

「それもそうだろう。俺だって、あの時が最初で最後だったんだ」

「でも、どうして先輩は、自分の表情を見たわけでもないのに、そんなことが分かるんですか?」

「俺は、最後にトイレに寄ったんだけど、その時に見た自分の顔と、待合室で待っていた先輩が見た自分の顔が、話をしていてまったく違っているような気がしたんだ。お前の考えていることが、過去の俺の考えとは違っているんだろうけど、気持ち的にはスッキリしたものがあったんだろう?」

「ええ、最後にキスをしてもらったんですが、それが、現実世界への通行手形のようなものに感じたんです」

「それはよかった」

「よかった……んですか?」

「よかったんだろうよ。だって、そのまま現実世界に帰ってこれなかったら困るだろう?」

「それはそうですが、でも、あちらの世界も素敵だったし、あのままずっといたいなんて気もしましたよ」

 半分冗談、半分本気だった。

「あっちの世界にいることなんかできないんだよ。だから、こっちの世界に戻って来れなければ、ずっと彷徨ったままなんだ。それも誰にも発見されずにね。いくら孤独が好きな君でも、得体の知れない場所で孤独になるのは怖いだろう」

「確かにそうですね」

「向こうの世界とは、彼女と別れた瞬間に終わってしまうんだ。まるで泡のようなバブルの世界というべきか、実態がない世界なんだ。だから、君がこっちの世界に戻った瞬間に、彼女もこちらの世界に戻ってくる。だから、キスをしてもらえたことを、感謝しないといけないんだぞ」

「でも、また行きたいな」

「それには、お金がいる。あまりのめり込まない方が身のためだ。俺は君だから、連れてきたつもりだったんだが、見込み違いだったかな?」

「そんなことはありません。僕もこちらの世界に戻ってこれてよかったと思っています。でも、僕が向こうの世界にいたいと思ったのは、世界自体がよかったのか、それとも彼女がよかったのか、どっちなんだろう?」

「それは、また違う人といっしょにいた時にどう感じるかどうかだね。一つのことを証明するのに、いくつもの証明が重なることを必要とする。つまり、AイコールB、BイコールC、ゆえに、AイコールCというような証明の仕方だね」

「この証明だって、百パーセント正しいと言えるんでしょうか? いわゆる三段論法と呼ばれるものだけど、最初の前提に信憑性がなければ、その後の証明も怪しいものですよね」

「それを言い始めると、キリがないよ。確かに君の言う通りなんだが……」

「僕は、どうしても物事を理論的に考えてしまう。だから、目の前にあるものを組み立てようとするので、先輩の言っていた三段論法もすぐに思いついてしまうんだけど、ついついその反対も考えてしまう。だからこそ、大前提に信憑性がなければ、三段論法の論理も薄っぺらいものになり、説得力などありえないですよね。それに、三段論法って正三角形の頂点だと思っていいんですかね? どれか一つだけでも一つの証明ができるだけの大きなものがあればそれだけで足りるのに、さらに信憑性を高めようと余計なものを集めてきても、結局は最大の効果を持っているものに、食われてしまうだけで共喰いになってしまえば、埒が明かないでしょうね」

「キリがないと思ってしまうと、発想はそこで止まってしまうよな。そういう意味ではお前の言っていることは間違っていないような気がする。三段論法のように、一つでも構わないのに余計なことをするのは、石橋を叩いて渡るということわざを実践しようとして、石橋を叩いて壊したために、その弁償を言われたのと同じだ。まわりの人は助かったかも知れないが、自分だけが損をしてしまう。これって理不尽じゃないのかな?」

「僕は三段論法を理不尽とまでは言っていません。ただ、必要以上のことをするのが、本当にいいのかどうか、それが信憑性や自分への納得とどうかかわっていくかということに掛かってくるような気がします」

「『過ぎたるは及ばざるがごとし』ということかな?」

「そういうことでしょうね」

「それにしても、どうしたんだい? 今までの君とはまるで別人のようじゃないか。そんなに自分に自信が持てるやつだったかな?」

 と言って、先輩はニヤニヤ笑った。

 その表情は明らかに、

――一皮剥けた後輩――

 を見ているかのようだった。

 本当は、そのことを指摘されたくないという思いはあったが、それでも、自分の中にみなぎっている今までになかったような発想を表に出さないわけにはいかなかった。吐き出すことの快感を覚えたと言ってもいいだろう。

――今日の自分は、本当の自分なのだろうか?

 先輩と別れてから家に帰りつくまで、ずっと考えていた信治だった……。

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