第2話 鬱状態

 大学生というのは、選択した授業によって、朝そんなに早く起きなくてもいい曜日があったりする。二時限目からの登校であれば、家を九時過ぎに出ても十分に間に合うのだった。朝の七時から九時までは通勤ラッシュ、それ以降十時くらいまでは、買い物客が多いことから、なかなかゆっくりと座って電車に乗るということも難しかった。

 九時までとそれ以降では、客層も違えば、乗客の数も違うのに、九時以降でも座れない。これは鉄道会社の方で、九時くらいまでは通勤時間ということで、車両を増設して走らせているからだ。本数も格段に多く、九時以降では、車両も短く、本数も少ない。乗客がそれほどいなくても座れないのは、そういうことからだった。

 しかし、七時から十時までの間で信じられないほどゆっくりと座っていける時間帯があった。偶然に発見したわけではなく、ちょうどその日、大学前の駅で先輩と待ち合わせをした時間に間に合うように乗った時間の電車が、信じられないほど人が少なかったことで分かったことだ。

 その先輩というのは、高校時代に予備校で知り合った人だった。

 高校ではグループに所属することもなく、友達もいなかったが、予備校では誰一人信治に話しかけてくることはなかったのに、その先輩だけが話しかけてくれた。

 最初は胡散臭いという意識があったせいで、ほとんど会話もしなかったが、その人懐っこさに、何か忘れていたものを思い出させてくれるような気がした。

 話をしているうちに、学年が一つ上で、来年受験だと教えてくれた。自分にはまだ一年余裕があったが、先輩を見ていると、まるで受験生には思えないところがあった。プレッシャーを感じていないわけではないのだろうが、

「俺は、人には言えないが、あることに恨みのようなものを抱いている。その思いがエネルギーになるんだ」

 と言っていた。

「僕と同じですね」

 そう言って、自分が孤独をエネルギーにしていることを話すと、

「似たようなものだ。お互いにエネルギーになるものがあれば、集団意識なんて糞食らえだよな」

 と高笑いをしたのが印象的だった。

 先輩は、予定通りに受験に合格し、笑顔で卒業していった。その先輩を見ていて、やっと自分の進路が決まった。

――俺も先輩と同じ大学にいこう――

 と思ったのだ。

 ちょうど成績も先輩が合格した大学にボーダーが足りていた。進路指導の先生も、

「お前なら大丈夫だ」

 と太鼓判を押したほどだった。

 大学に合格して、先輩に再会すると、相変わらずという雰囲気だった。友達がいるというわけでもなく、いつも一人でいたのだが、孤独を感じさせるところがなかった。

 それが、信治との一番の違いだった。

 信治は、自分が孤独だということを自らで醸し出していた。それに比べて、先輩は余計なオーラを発散させているわけでもないのに、存在感はあった。逆に孤独を醸し出しているせいか、存在感は薄かった。目の前にあっても存在を意識させることのないまるで路傍の石のような存在だった。

――俺が絵画でなかなか思うようにいかないのは、まわりに対して存在を意識させないからではないだろうか?

 と感じていた。

 絵として描くのは、目の前にあるものであって、描いている本人がどうであれ、関係がないはずだ。

 だが、ここまで存在感がないと、被写体の方としても、見られているという意識があるのだとすれば、信治のような存在感のない人間の存在に対して見られているという意識はない。

――まさか、他の人と違うものが見えているのかも知れない――

 それならそれでいい気がした。他の人には見えないものが見えたということで、自分が他の人と違うということの証明でもあった。

 だが、自分が納得できないのはなぜだろう?

 他の人に見えないものが見えているのであれば、それはいいのだが、逆に他の人に見えているものが、自分には見えていないような気がして、それが納得いかない一番の理由だった。

 悩みを先輩に打ち明けると、

「そんなことは気にしなくていいんじゃないか? 芸術家の中には、目の前にあるものを忠実に描くことをせずに、いろいろ想像で付け加えたり、中には、不要だと思ったものは、大胆に削ってしまう人もいるというぞ。一つのことにこだわろうとするから、自分で納得がいかないだけなんじゃないか?」

「そうですね。僕はプロになろうなどということを考えているわけではないので、自分の納得がいく作品を数多く作れればいいと思っているんですよ」

 というと、

「だったら、なおさら描いている途中で、いい悪いを考えずに、思った通りに描き上げてみればいい。君だって自分なりに完成できるようになるまでには、かなり時間が掛かったんだろう?」

「ええ、本を買ってきて読んだりしました。最初は図書館とか行ってみたんですが、どうにも図書館は苦手で」

「なるほど、君だったらそうだろうね。自分に正直なところがあるから、そう思うんじゃないかな?」

「正直なんでしょうか?」

「そう思うよ。そして、どうして図書館が苦手なのか自分でも分かっているんだろう?」

「分かっているんですかね?」

「分かっているんだよ。自分にはできないことをしている連中を見ながら、それでも、自分と照らし合わせようとしているように僕には見えるんだけど」

 言われてみればそんな気がした。

 第一、自分に照らし合わせてみなければ、自分にできるかできないかを考えることもできない。自分の中で照らし合わせてみることを嫌っていると思っていたので、納得がいかなかったのだ。

 そこまで思うと、見えてくるものもあった。

 高校時代に、このことに気づいていれば、図書館に近づくことはなかったことだろう。無駄な時間だったとは思いたくないが、図書館という場所が自分にとって一種の鬼門になってしまったことを知ったのだ。

 その日、先輩と待ち合わせをした喫茶店は、レンガ造りが印象的な店で、早朝七時から営業していた。

 早い時間は、サラリーマンが多かったが、八時を過ぎると、大学生も徐々に増えてくる。マスターと、アルバイトの女の子二人との三人で朝をまわしていた。

 大学入学した頃は、一時限目に授業がある日は、いつもこの店に入り、モーニングを食べていた。

 カリカリのベーコンに、半熟に近い目玉焼き、シーザードレッシングのかかった野菜サラダが一枚の大きな皿に乗っている。

 トーストは別の皿に乗っていて、信治はいつもいちごジャムを塗って食べていた。

 この店では、トーストに塗るものは、自分で選べる。コーヒーがおかわり自由でジャムやバターも、セルフサービスになっているところが嬉しかった。

 しかも、コーヒー豆にはこだわりがあるようで、絶えずコーヒーの香ばしい香りが店内に充満していた。

 信治は、コーヒーの香りに混ざって目玉焼きが焼ける匂いが好きだった。

 最近は、少しご無沙汰していたが、先輩から誘われて嫌と言わない理由の一つがこの店を指定したことだったことは否定できない。

 約束は九時だった。

 家を八時十五分に出れば余裕だった。

 駅まで歩いて十分。電車に乗って二十分。ホームでの電車の待ち合わせを考えても十分な時間だった。

 部屋を出てから駅までの道は、さすがに人が多かった。サラリーマンというよりも小学生や中学生の通学の風景だった。小学生は皆団体で歩いていたが、それは仕方のないことで、制服に身を包んだ中高生は、さすがに一人の通学もいた。

 一人で歩いている人の後姿は、背筋が曲がっているのが似合っている。背筋を伸ばして歩いている姿は想像できなかった。

――俺もあんな感じだったのかな?

 想像すると、何とも言えない気持ちになったが、孤独というよりも哀愁という言葉がよく似合う。

 信治は、哀愁という言葉の方が、孤独という言葉よりも恰好がいいとは思ったが、やはり自分は哀愁ではなく孤独だった。哀愁には孤独のような重みを感じないからだ。

――哀愁というのは、まわりに情けを感じさせるもので、自分が愛する孤独とはまったく違っているものだ――

 と感じていた。

 孤独というものは、自分を納得させるものであって、哀愁のように、まわりに情けを感じさせるものをどうやって納得させればいいというのか、まったく比較対象になるものではなかった。

 駅まで来ると、サラリーマンはほとんど姿がなく、見かけるのは学生だけだった。

 中高生もほとんど姿を見ることはなく、自分と同じ大学生がばかりに見えた。自分が乗る路線には、比較的学校が多かった。高校も多いが、大学も結構あった。

 電車に乗って約二十分というと、ちょうどいい距離である。少し遠いと思っている人もいるかも知れないが、遠くもなく近くもなく、電車に乗るのが嫌いではない信治にとってはちょうどよかった。

 駅から大学までは歩いて十分、まさに大学のために作られた駅のようだが、実際には近くにある神社のために作られた駅で、大学が後からできたらしい。神社はちょうど駅の裏にあり、あまり大きくはないが、歴史的には有名な神社らしく、一応、門前町も広がっていて、この駅の乗降客は、学生がほとんどと、神社参拝の人が少し。大学がなければ、寂しい駅だったに違いない。

 乗客が少なかったおかげで、好きなところに座れた。その日は、海側の席に座り、ぼんやりと表を見ながら、電車の揺れに身を任せていた。

 電車の揺れに身を任せ、、のんびりと乗るには、二十分というのは短すぎる。しかしその日は時間が経つのが長く感じられ、表の景色を堪能しながら、二十分を過ごすことができた。駅に到着し、自動改札を抜けると、目の前に赤レンガの建物が見えている。普段は見えていても、あまり気にしたことはなかった。赤レンガを見た時、

――これから人と会うんだ――

 普段から人に会う約束などしたことのない信治は、気心の知れた先輩だと分かっていながら、赤レンガを見ると、急に緊張してきた。

 呼び出しをかけたのは先輩だった。普段鳴ることのない携帯のメール着信音が鳴った。最初は、

――どうせ、迷惑メールか何かかも?

 と思った。

 迷惑メールが来ないようにはしていたが、ひと月に何通か、かいくぐったように飛んでくることがある。きっとそうに違いないと思った。

 そのせいで、一時間ほど、メールの確認が遅れた。

「あれ、先輩からじゃないか」

 と思うと、ビックリした。

 先輩にはアドレスは教えていたが、メールが来たのはアドレスを教えてから一か月後のことだった。

 前に会った時にアドレス交換したので、最後に会ったのひと月前ということになる。信治が入学してきて、まだ間もない頃に一度と、それから少ししてが二度目だった。

 その時初めて入ったのが、この赤レンガの喫茶店だった。大学の近くにある喫茶店には何度か入ったことはあったが、この店には入ることはなかった。

――入ってみたい――

 と思ったことはあったが、何となく敷居が高い気がしたのだ。

 表から見ると、サラリーマンが多く、どうにも場違いな気がしたからっだ。

 しかし、先輩に連れてきてもらってからというもの、定期的に顔を出すようになっていた。この店は駅前にある店のわりには、常連さんが多いという。場違いに感じられたのは、駅前にあるため、大衆的な店に思えたからだということに、その時初めて気が付いたのだ。

 お店の名前は喫茶「ユーカリ」。考えてみれば、この時間に来るのも珍しいし、人と待ち合わせをすることも普段からない信治は、待ち合わせの店が馴染みの店だということで余計に緊張した。しかも、最初に教えてくれたのは、待ち合わせの相手である先輩だ。そう思うと、どこか不思議な気がした。

 一番最初に待ち合わせた時のことである。

「やあ、今日は呼び出して済まないね」

 喫茶店の扉を開くと、すぐに先輩の声が聞こえてきた。

 先輩とここで待ち合わせをするのは三回目だが、三回とも先輩の方が先に来ていて、いつも同じ入り口に近い窓際の席だった。信治が一人で来る時はいつもカウンターなので、テーブル席は久しぶりだった。

「先輩もお元気そうで」

「いやいや、おかげさまで」

 社交辞令的な挨拶を済ませると、二人は笑顔になった。

 普段なら、こんな社交辞令のような挨拶は嫌いなのだが、先輩が相手だと嫌な気はしない。たぶん、先輩も同じ気持ちなのではないだろうか。お互いに嫌いな社交辞令な挨拶なので、半分は洒落の気分であった。

 大学に入ってからの先輩は、予備校時代とは違い、友達をたくさん作ったようだ。だが、それも一年生の時の最初だけだったという。そのことを先輩が教えてくれたのは、最初に待ち合わせた時のことだった。

「俺は大学に入って、なるべくたくさんの人に声を掛けて、友達を作ろうと思ったんだ。もちろん、集団意識とは別の意味でな」

「はい」

「だから、なるべく違うクラスの連中や、違う学部の連中に声を掛けてみたんだよ。それもあまり友達がいないような雰囲気のやつにね。最初は戸惑いを見せながらも、皆仲良くなると、心を割って話をしてくれた。ほとんど皆、自分から話しかけることができずに、話しかけられるのを待っていたって言っていたんだ。だから、俺はこの連中を束ねることができるって思ったんだよ」

「そうでしょうね」

 先輩の話は分かる気がした。だが、話の筋が分かるだけで、言いたいことを理解できるわけではなかった。

――これって、しょせんは集団意識だよな。先輩は大学に入って変わってしまったんだろうか?

 と感じた。

 その思いを察したのか、先輩は語り始めた。

「仲間としては、五、六人くらいのものだったかな? いろいろな考えを持っている連中で、話をしていると結構会話になるんだ。俺が中心にならなくても、皆それぞれに考えを持っていたようで、話し始めると、会話がどんどん膨らんでいく。自分がその中心にいるんだって思うと、嬉しくて仕方がなかった」

「そうなんですね」

 それ以外に答えようがなかった。

 何を言っても、反論にしかならないと思ったからだ。しかし、先輩が楽しそうな顔をしたのはそこまでで、楽しそうな顔の正体が、実は今のものではなく、過去を思い出しての恍惚の表情だったことに、その後気付くことになった。

「でも、やっぱり、集団意識というのは、一つ歯車が狂うと、音を立てて崩れるのって、あっという間だったんだ」

「どうしたんですか?」

「仲間のうちの二人が、偶然同じ女の子を好きになってしまったようで、そのことで一気に仲間内の空気に不協和音が響くようになり、二人に対してそれぞれに味方がついてしまい。完全に分裂してしまったんだ。きっと、どちらかの気持ちに皆共鳴するものがあったんだろうね。本当だったら、放っておけばいいものをそうもいかなくなってしまったのは、お互いに真からの友達と思っていなかったということと、仲間を集める時に、なるべく、集団意識にならないように、別の学部から集めてしまったことで、完全に烏合の衆になってしまったんだろうね。やっぱり仲間を作るとすれば、最低、同じ考えを共有できることが大前提になるんじゃないかって思い知らされたよ」

「でも、それは集団意識じゃなかったからなんでしょう?」

「そうじゃないと思うんだ。集団意識がなければ、分裂したり、音を立てて崩れたりはしない。最初から集団じゃないんだからね。集団意識というのは、人を集めた瞬間、その時点からあるもので、何かあった時に、意識するかしないかの違いなだけではないかと思うんだ」

「じゃあ、先輩はもう友達を作ろうとは思わないんですか?」

「今のところはね」

「じゃあ、僕は?」

「君は後輩じゃないか。後輩と友達は違う。しかも後輩の君には、僕と同じ考えがハッキリと見える気がするからね」

「それは?」

「孤独というものを自分の個性だと思っているところかな?」

「褒められていると思っていいんですか?」

「俺は褒めているつもりさ」

「ありがとうございます」

 これが、最初に待ち合わせをした時の会話だった。

 二回目に呼び出された時は、先輩がちょうど鬱状態に陥っている時だった。本当なら人に会いたくないのが鬱状態だと聞いたことがあったが、なぜか先輩は信治を呼び出したのだ。

 先輩から電話が掛かったのは、待ち合わせの三日前のことだった。先輩に以前呼び出されてから一か月ほどだったので、その時に相談を受けた内容のその後だと思っていた。先輩の声は上ずっていたように聞こえたが、それは最初だけで次第にテンションが下がってくる声に、心配が募ってきた。

 電話での話の内容は、差しさわりのないもので、他の人なら、

――そんな大したことないことで電話なんかしてこないでほしいな――

 と思うのだろうが、その時の先輩の声を聞いていると、何かを言いたくて掛けてきたのだろうが、なかなか言い出せない様子に感じられて仕方がなかった。

 今までの先輩からは想像できないほどの声のトーンに、次第に心配になってきた。

「会って話した方がいいですか?」

「ああ、そうしてくれるとありがたいな。いつものところで待ち合わせをしたいと思っていたんだ」

 この会話だけを聞けば、先輩が呼び出したわけではないのだろうが、先輩が会いたいと思ったから電話をしてきたのは明白だった。自分は軽く背中を押しただけで、やはり呼び出されたことに変わりはないと思えてならない。一回目とは違った様子に、少なからずの戸惑いを感じていた信治だった。

 結局、その日の電話では、鬱状態になっていることを先輩は言わなかった。本人としても、自分の今の状態が鬱状態だという自覚がなかったのかも知れない。もしそうだとすれば、先輩の孤独は本物で、会ってあげなければいけないと思った。

――それにしても、いつもいつも先輩は厄介だな――

 と、ため息をついたが、他人事ではないことは感じていた。

――先輩と僕は、性格的に似ているんだ――

 という意識があるので、先輩の身に起こっていることは、いずれ自分にも起こるかも知れないと思うと、放っておくわけにはいかないと感じた。

 ただ、先輩と会うのは電話があってから三日後のことだ。電話を掛けてきた時と、状況が変わっているかも知れない。鬱状態を抜けているかも知れないし、もっとひどくなっているかも知れない。どちらにしても、この三日間は信治にとっても、長い三日間だった。

 この日の待ち合わせは昼からだった。朝一番は、お互いに講義があったので、ちょうど時間が合うのは午後からだった。その日の信治の講義は午前中のみで、昼からは空いていた。先輩が三日後と指定してくれたのは、信治にとってもありがたかった。

 その日も先輩の方が早く着いていた。

「こっちだ」

 と言って、手を振ってくれたので、笑顔を向けると、先輩も笑顔で答えてくれたが、その日、先輩の笑顔を見たのは、それが最後だった。

「お待たせしてすみません」

 というと、

「いやいやいいんだ、俺が勝手に早く来たんだから」

 テーブルの上には、三冊ほどの雑誌が置かれていて、政治や経済の本だった。今までの先輩からは考えられないようだった。

 今までの先輩であれば、もっとカルトな本を読んでいた。ミリタリーの本だったり、歴史の本だったりをいつも本屋で物色していると言っていたが、テーブルに置かれている雑誌が店に置いてある雑誌ならまだ分かるが、どうやら本屋で買ってきたもののようなので、趣味が変わったのか、それとも、今の精神状態から読む本が政治経済に落ち着いたのか、すぐには判断がつかなかった。

「俺、実は鬱状態になっちゃったんだ」

 と、今度はいきなりそう言った。表情は真面目そのもの、こちらも正面を向き直って聞いてあげないといけないと思うほど、表情は真剣だった。

「どうしたんですか? いきなり」

 分かっていたことではあったが、ここまでいきなり来るとは思ってもいなかった。意表を突かれたその場の空気は、一種異様な感じがした。

「俺は今まで鬱状態になんかなったことがなかったので、戸惑っているんだけど、鬱状態に陥ると、自分が誰だか分からなくなるほどの戸惑いがあるんだ」

「そんなにひどいんですか?」

「ああ、俺も最初は自分が鬱状態に陥っているなんて、思ってもいなかったんだけど、一人で何かを考えているのが、億劫になってきたのが本当の最初だったんだ」

「先輩は、一人で何かを考えている時って多いんですか?」

「ああ、一人でいる時は、絶えず何かを考えていると思っている。無意識に時間だけが過ぎていくこともあるんだけど、時間の経過を分からないということを考えると、それが何かを考えている証拠なんじゃないかって思うんだ」

「なるほど。僕も、一人の時は、何かを考えていることが多いと思っているですが、きっと先輩のいうほど考えていないと思っています。無意識の時は何も考えていなかったということを自覚できているんですよ。だから、先輩ほど考えているわけではないと思います」

「でも、君は何かを考えることが億劫に感じたことってないだろう?」

「ええ、確かにあらためて考えると、確かにないですね。考え始めるまでの意識がないので、気が付くと考えているんですよ。だから、億劫に思う必要性がないという感じですね」

「俺の場合はそうじゃない。何かを考えていることを最初に自覚させられるんだ。もちろん、自覚するのも、自覚させるのも自分なんだけどね。きっと、最初の自覚の段階で億劫だって感じてしまうと思うんだ。君のように、最初に意識がなければ、億劫に感じることもないのかも知れないな」

「先輩は、一体何を考えているんです?」

「その時々によって違うんだけど、主に、読んだ本の内容を思い出しながら考えていることが多いかな? 俺が読む本は、カルトな本が多いので、余計にいろいろな発想が浮かんでくるんだ」

「確かにその通りですね。先輩が読む本は僕が読む本とも違っているし、本の中に入り込むことが多いんですか?」

「小説というわけではないので、物語ではない。どちらかというと、ノンフィクションだね。でも、それだけに想像力がなくても、本を見ながら考えることはできる。小説のように、主人公でもなければ、客観的に見ているわけでもない。『自分だったらどうする?』という発想が一番思い浮かぶのがノンフィクションじゃないかって思うんだ」

「先輩が小説とかを読まないのは、そういうことを考えていたからなんですね?」

「そうなんだ。もし、小説やフィクションを読むんだったら、自分で書いた方がいいって思うかも知れない」

「小説を読むこともなく、自分で小説をと書ける思っているんですか?」

「ああ、そう思っているよ。下手に人の話を読むから、余計な発想が浮かんできて、自分の世界に入り込むことができなくなるんだ。それなら、シミュレーションができるノンフィクションの方が想像力をたくましくできる。『事実は小説よりも奇なり』っていうだろう?」

「確かにそうかも知れません。でも、僕には無理な気がします」

「俺も無理だって思っていたんだ。でも、やってみるとできるような気がしてきた。それは『今だから』という思いがあるからで、つまりは鬱状態に陥ったことで、小説を書けるんじゃないかって思えるようになったということなんだ」

「僕は、今まで鬱になったことがないので分からないです」

 と言った自分に対して、

――何て冷たい言い方をするんだ――

 という思いと、

――これは、小説を書けるようになったと言っている先輩に対しての嫉妬なのかも知れない――

 と感じた。

 自分も、

――絵を描けるようになりたい――

 とずっと思ってきたはずだった。

 しかし、なかなかその思いを成就できることはない。今は、気持ちに余裕を持つことを考えていこうと思っているところなので、一種の膠着状態だと言ってもいい。

「先輩が今日僕に会いたいと思ったのは、小説を書けるようになったことへの話なんですか?」

「元々、小説は以前から書きたいと思ってきたが、なかなかうまくいくことはなかった。君が絵を描けるようになりたいと思って、いろいろ試行錯誤しているのと同じ感覚だよね」

「ええ」

「俺は、鬱状態というきっかけがあったことで、小説を書けるようになったって思っているんだ。だから、君も何かのきっかけがあれば、絵画に目覚めることができるかも知れない」

「ところで鬱状態って、どんな感じなんですか?」

「鬱状態になると、まず、自分が何かを考えていることに気が付く。そして気が付いたはいいが、何を考えているのか、分からなくなってしまうんだ。つまりは、鬱状態の間は、気づいてしまうと、分かるはずのことが分からなくなってしまう。歯車が噛み合わないというよりも、本当であれば、時系列の流れになっていくはずのものが、一度途切れてしまって、新しく生まれてくるんだ。そのために、普段の自分を否定されているような気持ちになり、『何をやっても、すべてがうまくいかない』と思い込んでしまう。だから自分のやっていること、考えていることが、すべて許せなくなるんだ。その状態を『鬱状態』というんじゃないかな?」

「そうなんですね」

「鬱状態に陥ると、最初は分からないけど、次第に許せない自分をまず感じる。何が許せないのか分かるはずもなく、自分が普段考えていることを許せなくなると思い込むんだ。その時には時系列という意識はない。普段は無意識のうちに時系列を感じているはずなのに、鬱状態に入り込むと、過去のことが、どれが先だったのかということが分からない。そのために、順序立てて考えることができなくなる。それがきっと自分を許せなくなるんだろうね」

「じゃあ、鬱状態というのは、頭の中で堂々巡りを繰り返すことから来ているということなんですか?」

「そういうことなんじゃないかって思うんだ。だから、出口のない迷路をずっと彷徨っていると、焦りが生まれてくる。焦ってくると、想像力が急に豊かになるんだけど、その時に想像することというと、堂々巡りを連想させることばかりなんだ」

「たとえば?」

「大きな箱を開けると、その中に少し小さな箱が入っている。その箱を開けると、またその中に箱が入ってくる……。つまりは、永遠に箱を開け続けるんだけど、どんなに小さな箱であっても、決してなくならないんだ。限りなくゼロに近いという言葉がピッタリだね」

「今、先輩のお話を聞いていると、僕も以前に、似たような思いをしたことがあったような気がします。それがいつだったのか分からないんですが、もしそれが鬱状態だったのだとすれば、僕が頭の中に描いていた鬱状態というのは、まったく違った感覚だったということになります」

「鬱状態というのは、その人それぞれで感じ方が違うんじゃないのかな? 君にとっての鬱と、俺にとっての鬱だって違う。だけど、根本が同じだとすれば、今君が思い出した状態は、本当に鬱状態だったのかも知れない」

「なるほど、少し勉強になりました。先輩は実際に小説を書いているんですか?」

 というと、少し照れくさそうにした先輩だったが、それでも笑顔というわけではなかった。

「ああ、書き始めたよ。でも、まだまだこれからというところかな?」

「先輩は、どんな小説を目指しているんですか?」

「時代小説を書いてみようと思っている。歴史小説を読んで、史実を勉強したので、時代小説を目指したいんだ」

「歴史小説と、時代小説の違いって何なんですか?」

「歴史小説というのは、史実に基づいて、時代考証もしっかり描くもので、時代小説は、史実に捉われることなく、自由な発想で書けるものだね」

「じゃあ、歴史小説はノンフィクションで、時代小説がフィクションだって思っていればいいんですか?」

「その通りだよ」

 さっきまで鬱だと思って話をしていた先輩が、ここまで饒舌になるとはビックリだった。しかし、まだ鬱状態なのには変わりがないようで、一人になると、億劫な気分に逆戻りするのではないかと思った。

「やっぱり時代小説というと、時代劇のような江戸時代か、群雄割拠の戦国時代になるんでしょうね」

「俺の場合は戦国時代だな。江戸時代は太平の世というのが基本にあって、現代がそのまま江戸時代の時代考証の元に書き上げるのだとすると、俺には時代劇を書くのは無理なんだ。俺には、江戸時代の人たちの気持ちが分からないからね」

「戦国時代の人は分かるんですか?」

「いや、分からないよ。でも、時代背景がまったく違っているので、書ける気がするんだ。何と言ってもフィクションだからね」

「でも、戦国時代の小説を書いていて、一人の姫を登場させたんだが、その姫を想像すると、君が思い浮かんできたんだ」

「どういうことですか?」

「その姫というのは、戦国時代に生まれながら、他の姫のように、政略結婚などとは無縁の人生を歩ませてあげたいと思ったんだ。幸せな生活というべきか、その姫は、元々現代に生まれてくるはずだったのに、先に戦国時代に生まれてしまった。そんな可哀そうな運命を背負っていたんだ。だから、生まれながらに平和しか知らない姫で、そんな姫の性格に触れているうちに、まわりは、彼女のためには何でもするという状況になったんだ」

「普通、戦国時代というと、大名に従うものだけど、そうではなく、姫に従っているということですか?」

「そうなんだ。大名すら姫のいうことに従順で、戦をやめてほしいと言えば、やめることができる大名なんだ。でも、時代が次第に進むにつれて、この関係が逆転する。まわりは今までの姫のように平和主義の国になっていくのに、姫の方は、戦国時代に染まってしまい、次第に他国を侵略するような野心を持つようになり、戦術すら考えるようになったんだ。そんな姫に対して誰も逆らう人はいない。完全に洗脳されてしまって、いいなり状態なんだ」

「ミイラ取りがミイラになったみたいですね」

「その後、その国は姫が裏で暗躍するようになり、まわりの国から恐れられるようになる。すると隣の国に一人の若い武士がいて、彼と姫とが通じ合うようになるんだ。もちろん、表で会ったりできないので、お互いにテレパシーで話をするようになったんだ。その段階で二人は、まだ顔を合わせたことはない」

「なかなか面白そうなお話ですね。時代小説というよりも、SFかオカルトのような感じもします」

「ここから先は、これから考えるんだけど、この隣の国の若い武士を想像した時、なぜか君が思い浮かんだんだよ」

「鬱状態で小説を考えたんですか?」

「鬱状態の方が、いろいろな想像ができるものなんだ。そういう意味では、鬱状態というのも悪くない」

「でもどうして僕だったんだろう?」

「顔がまず浮かんできたんだ。君の顔がね。でも不思議なことなんだが、君の顔が浮かんでくると、それまで浮かんでいた姫の顔が、今度はまったく想像できなくなってしまった。主人公を姫だと思って考えているからなのかも知れないと感じたんだが、次第に主人公は、この若い武士ではないかとも思えてきたんだ」

「ひょっとして、そのあたりの迷いから、その後のストーリーが続かなくなってしまったとかいうことは考えられませんか?」

「確かに、ストーリーが宙に浮いているような気がするんだ。どっちつかずのような状態でいるから、誰かを思い浮かべようとして浮かんできた顔が君だったのかも知れない」

「ストーリーが宙に浮いていて、どっちつかずということは、今後の展開にいくつか考えがあるということですね?」

「そうなるんだろうけど、姫の顔が浮かんでこなくなると、やっぱりダメなんだ。そこでお願いなんだけど、君に姫をイメージして、絵を描いてもらえないかと思ってね」

「えっ?」

 話が飛躍しすぎてついていけない。

 最初は、先輩の鬱状態から始まって、途中から小説の話になった。

「先輩、本当に鬱状態なんですか?」

「どうしてそう思うんだい?」

「鬱状態の時は、何もしたくないと聞いたことがあるんですよ。何かをするのが怖いというべきか、だから、小説を書いている時点で、本当に先輩が鬱状態なのか疑問に感じていたんです」

「確かに鬱状態だよ。確かに君がいうように、鬱状態の時は何もしたくなくなるもののようだけど、俺は違った。どうして違うのかと思ったんだけど、きっと孤独を意識しているからじゃないかな? 小説を書きたいと思ったのも、孤独な自分が鬱状態に陥ったのではなく、鬱状態に陥った孤独な自分を意識すると、小説を書いてみたくなった。やっぱり、鬱状態は人それぞれに違った状態を作り出す。ひょっとすると君も意識したことがないだけで、鬱状態に陥ったことがあるのかも知れない。鬱状態に陥った時、たぶん皆が同じだと思えるのは、必ず出口が見えるということなんだ。それだけ辛いことだからこそ、せめて出口が見えるようになっているんじゃないかな?」

「出口が見えるということなら分かる気がします。僕も何となく辛いと思っていた時期があって、普段感じたことのない黄色い空間を感じていたんですよ。まわりは真っ暗なんですけどね。その先に見えるのが青い点だったんだけど、そこが出口だと思うと、自分がいる場所が、トンネルの中だって気づいたんです。僕の場合は出口から自分のいる場所が分かったような感じなんですが、これが鬱状態だったということなんでしょうか?」

「そうじゃないかって思う。俺もトンネルの中にいるような感覚だったからな」

「その時に、黄色い色と黒い色が交互に重なっているように見えたのは、トンネルの中を走っていたからなんでしょうね。きっと、記憶の中にあるトンネルのイメージが一番鬱状態にはしっくりきたのかも知れない」

「出口を感じるという意味では、一番トンネルがふさわしい。俺が鬱状態に出口を感じたのも、色彩が影響しているんだ」

「どういうことなんですか?」

「鬱状態になると、一日の区別がハッキリするんだ。一日の中の時間帯の区別なんだけどね。朝、昼、夕、夜でハッキリと違っているんだよ。特に違って感じるのは、昼と夜なんだけど、最初に色彩の違いを感じたのは、信号機だったんだ」

「信号機?」

「ああ。信号機の青、あの色は昼間見ると、緑なんだけど、夜に見ると、真っ青に見えてくるんだ。普段でも、気にしてみると、そのことは分かるんだけど、鬱状態の時は、特に鮮明に分かる。信号機の青は真っ青で、赤は、まるで血の色のように真っ赤なんだ」

「どうしてなんでしょうね」

「俺の考えとしては、真っ黒いまわりの色との差別化を感じたいためではないかと思うんだ。さっき、君がトンネルの中で、黄色い部分と真っ黒い部分が交互に見えたと言っていたけど、あれだって、真っ黒い部分との差別化を考えているからだって思えば、俺の信号機に見えていた鮮明な原色の理由も分かるんじゃないかって思うんだよ。しかも、昼から夜に掛けての時間というのは、鬱状態の時は、一日の中での一番の関門だって思っているんだけど、君は夕凪の時間というのを知っているかい?」

「ええ、聞いたことがあります」

「夕凪の時間というのは、昔から『逢魔が時』とも言われて、魔物に出会う時間だって

言われているんだ。現代だって、夕凪の時間というのは、交通事故が一番発生しやすい時間と言われている。それが夕凪の時間なんだ」

「夕凪の時間というと、日が沈む頃に、風が吹かない時間帯だって聞いていました。夕方は結構風を感じる時間なのに、ちょうど風が止む時間があるんだって言われて気にしたことがあったんですが、なぜか気にしていると、その時間を感じることができなかったんですよ。何とか気にしていたんですが、結局分かりませんでした」

「それが夕凪の夕凪たる所以なのかも知れないね。ミステリアスなところがあり、気にしていると、決してその正体を明かすことはないが、気を抜くと、一気に襲い掛かってくるというような感じだね」

「先輩は夕凪の時間を感じたことってあるんですか?」

「俺は君の言っている風のない時間だっていう話は知っていた。しかし、僕も君と同じように感じたことはないんだ。もっとも、君のように、風のない時間を気にしたことはなかったけどね。でも、夕凪の時間に交通事故が多いというのは、ある意味、至極当然のことなんだよ」

「どういうことなんですか?」

「日が沈む寸前というのは、太陽の光の恩恵が一番少ない時間だよね。日が沈んでしまえ完全に太陽の影響がないことは自覚できているので、最初から色や光がないものだっていう意識で、まわりを見るだろう。だけど、夕凪の時間は、まだ少しだけだけど、太陽の影響を受けている。ちゃんと見えていると思っているんだろうけど、実際には見えているわけではないんだ。見えているのはモノクロで、カラーに見えていると思っているから、見えるはずのものが見えなかったりして、事故が起こるという仕組みさ」

「錯覚から来るというわけですね」

「そうだ。同じ錯覚でも、それまでカラーで見えていたものが、いきなりモノクロに見えるなどありえないという心理の盲点のようなものをついているのが夕凪の時間だと言えるんじゃないかな?」

「人間には、記憶しているものが継続していく習性があるということでしょうか?」

「そうとも言えるけど、そのことを信じて疑わないのも、人間のプライドというか、融通が利かないところなんだろうね」

「夕凪の時間というのは、昔の人はモノクロに見えていたんでしょうか?」

「見えていたかも知れないね。彼らには、その理屈が分からない。今のように光が色を司っているなどという科学的な発想はなかっただろうからね。だから逆にどうしてモノクロに見えるのか分からない。分からないから、不気味な時間帯で、これから夜に向かって魔物が出やすい時間として考えられていたんじゃないかな? 俺は、この夕凪の時間、いつも感じていたのは、『疲れ』だったんだ。風がないというのもその一つの理由になるのかも知れないが、気が付けば汗を掻いていて、背中にグッショリと汗が滲んでいることもあるくらいなんだ」

「僕にも夕方に疲れを感じた経験はあります。小学生の頃に公園で遊んでいた時に疲れを感じましたね。まだ、友達がいた頃で、その頃はよく公園で遊んでいました。でも疲れと言っても嫌な思い出ではないんですよ。結構楽しかったという思いが強かったので、流れ出ていた汗も心地よかった気がします」

「俺が疲れを感じた時、一緒に軽い呼吸困難に陥ったりもしたんだ。そのせいで、指先が痺れたりしていたので、汗は身体が思うように動かなかった焦りのようなものだったのかも知れないね」

「それは、金縛りに遭った時に似ているのかも知れませんね」

「君は金縛りに遭ったりすることがあるのかい?」

「ええ、時々金縛りに遭うことがあるんですよ。その時には、金縛りが予知できるんですが、それも直前なので、予知というほどではないですね」

「足が攣る時など、分かる時もあるよね」

「でも、その時は、身体全体が硬直してしまいそうな気がしてくることで、それを防ごうとして足が攣るものだって思っていたんですが、他の人はどうなんでしょうね?」

「そこまで考えたことはなかったけど、言われてみれば、そうかも知れないね。確かに足が攣る前に身体全体が硬直するような気がしていたのは俺も同じだよ」

「きっと、条件反射のようなものが働くんでしょうね」

「そう思うよ。でも、金縛りに遭うのは、また違うんじゃないかい?」

「ええ、金縛りに遭うのは、身体が反応するような内部からのものではないんですよ。外的な要因で金縛りが来るのが分かるんです」

「霊感のようなものなのかい?」

「それに近いものがありますね。でも、霊感を感じたりすることは自分にはないと思っていたんですけどね」

「金縛りに遭うと、何か見えるのかい?」

「そんなことはありません。ただ、不安に感じているのは事実で、必死に身体を動かそうとしている自分を感じるんです。でも、途中でそれが無駄であることが分かると、急に身体の力が抜けてきて、身体を動かそうとする気が失せてしまうんです。諦めの境地に近いものなのかも知れませんが、そうなった時、金縛りから逃れることができるんです」

「だったら、最初から諦めの境地でいればいいんだよ」

「口で言うのは簡単なんですが、そうもいかないんですよ。不安が襲ってくるのは事実であって、それは自分が引き寄せるものだという意識がないので、どうしようもないんです」

「まるで鬱状態のようじゃないか」

「そうですね。さっきから先輩のお話を伺っていて、鬱状態と自分が金縛りに遭った時の感覚を無意識に重ね合わせていることに気づきました。不安が募ってくることが同じだとすれば、自分も鬱状態をまったく経験したことがないとは言えないんでしょうね」

「本当にごく短い間の鬱状態が存在しているということになるね。ところで、その金縛りというのは、頻繁にあるのかい?」

「高校時代まではなかったんですが、大学に入ってから金縛りに遭うようになりました。高校時代までの縛られた生活が解放されたと感じている自分の反動のようなものじゃないかって思うんです」

「解放感の反動というのは、正直信憑性を疑いたくなるけど、俺も鬱状態に陥るようになったのは、大学に入ってからなんだ。大学というところ、自分でも感じていないような不思議な力を持っているのかも知れないな」

「金縛りに遭う時は、寝ている時なんです。それは足が攣る時と同じなんですが、足が攣る時のパターンとして、寝ている時に、身体の硬直を感じ、カッと目を見開いた時、足の釣りを感じるんですが、金縛りに遭う時は逆で、睡魔が襲ってきて、眠りに堕ちるその前に襲ってくるんです。身体を動かしているわけではないのに、どうして金縛りに遭うのが分かるのか、自分でも不思議です、でも、眠りに就く寸前なので、意識が朦朧としていて分からないのも当然なんじゃないかって感じるんですよ」

「なるほど、それは実に興味深い」

 と、言って先輩は、含み笑いを浮かべた。

 その様子が少し異様な感じがしたが、そのことを確かめるのが少し怖い気がした。

 そう思って少し会話が膠着状態に陥ったのを分かっていながら様子を伺っていると、先輩の方から口を開いた。

「眠りに就く寸前に、金縛りに遭うと言ったけど、それで目が覚めてしまうのかい?」

「いえ、金縛りに遭っている間はさっきも言ったように、不安しかないんです。何に不安なのか、その時々で違うんでしょうが、自分でも何が違うのか分からないんです」

「どういうことなんだい?」

「不安に不安を感じているというとおかしな言い回しですが、不安に陥っているという自分が怖いというか、それが全体として不安なんです」

 何を言っているのか、まるで禅問答のような言い方だが、信治としては、そういうしかなかった。

「分かるような気がするよ。鬱状態に陥った時も、『不安が不安で仕方がない』という言い方が一番ピッタリなんだけど、そのことを口にすると、鬱状態というものに信憑性を感じてもらえないような気がするので、口にすることはない。自分で感じてはいても、認めることを拒否している自分もいるんだ」

「そうなんですね。そういう意味では、やはり鬱状態と金縛りに遭うことは、根本的なところで繋がっているのかも知れないね」

 そう言って、会話が一旦途切れたが、少ししてから、先輩が口を開いた。

「ちなみに鬱状態があれば、その後には躁状態が巡ってくる。何をやってもうまくいくようなポジティブな気持ちになれるんだけど、金縛りにおいての不安が解消された後には何か躁状態のようなものがあるのかな?」

「僕の場合は、そんな感情はないですね。躁状態というのがどういうものなのか分からないんですよ。鬱状態というものは不安が不安を募るという意味で金縛りに遭うことで分かるんですが、それに似た現象を味わったことがありません」

「なるほど」

「どういうことですか?」

「さっき、俺が含み笑いしたのに気づかなかったかい?」

「ええ、気づきました。何が言いたいのか分からずに、ずっと気になっていたんですが、会話が途切れてしまったので、少し溜飲が下がった気がしていたんですよ」

「実は、俺が感じたのは、金縛りに遭っているということ自体が、夢の中だけの出来事ではないかとね。君は、金縛りが終わってから、そのまま目が覚めてしまうかい?」

「目が覚める時もあれば、そのまま眠ってしまったと思うこともあります」

「どうして、そのまま眠ってしまったと思うんだい?」

「それは、目が覚めた時に感じる不安感が、眠っている時に見たと思える夢のおかげでだいぶ解消されていると感じたからです。夢の内容までは覚えていないんですが、夢を見たと感じるのは、やっぱり金縛りに遭うのが、眠りに就くその時だと証明してくれているように思うんです」

「なるほど、だから眠りに就いているにも関わらず、そこまで感じるわけだね」

「はい」

「僕はここまで話を聞いてきて、かなりの確率で君が感じた金縛りというのは、夢の中で感じているものなんじゃないかって思うんだ。要するに『金縛りに遭っている夢を見ている』という感覚だね」

「僕も、今先輩と話をしていて、そんな感覚に陥っている自分を感じました。でも、今までなら、まさかそんな発想に至るなど考えられないですね。やっぱり、他人と話をしていると、自分だけでは理解できないような発想が思い浮かんでくるというものですね」

「本当にそうなんだろうか? 僕には、君がある程度までは分かっていたような気がするんだけど」

「どうしてそう思うんですか?」

「君の中で、普段の意識と、潜在意識の違いがある程度分かっているからではないかと思うんだよ。普通、潜在意識と普通の意識は違うものだと思っていても、潜在意識がどんなものなのか分かる人はいないと思うんだ。それは、潜在意識も普通の意識のように感じていることで、すべてを普通の意識として考えているからなんじゃないかな?」

「なるほど」

「だから、君が金縛りに遭っているのが夢だと言われて気づかなかったと思っているのは、本当は分かっていながら、潜在意識が打ち消していることで、それ以上考えようとしない。それほど潜在意識の強さを、無意識に感じているからなんじゃないかって思うんだ」

 人と話をして、これほど鳥肌が立ったことが今までにあっただろうか?

 先輩の話には、目からうろこが落ちるような話もたくさんあったが、それを初めて聞かされたと思えないほど自然な感じで会話ができたことから、鳥肌が立ったのだと思う。鳥肌が立つのは、気づいていないことを気づかされたからであって、知らなかったことを知らされたからではない。信治は、そう感じていた。

「先輩は、今鬱状態なんですよね? どれくらいの間、鬱状態なんですか?」

「鬱状態に入って、そろそろ十日が経とうとしているかな? 出口が見えかかっているところなんだ」

「やっぱり、鬱状態を抜けたら、躁状態が?」

「躁状態と鬱状態は表裏一体のようなもので、鬱が終われば、躁状態がやってくる。躁状態が終われば、鬱状態に陥ってしまう。この繰り返しなんだ」

「そこから逃れることはできないんですか?」

「そんなことはないと思う。俺は意識しているから抜けられないんだと思っているんだが、こればっかりは意識するなという方が無理だからね」

「じゃあ、気が付けば抜けていたというイメージなんでしょうか?」

「そうだと思っている。何か一つ自分の中で解決できないことがあるから鬱状態に陥った。その反動で鬱状態が終われば鬱状態に入る。解決できていなければ、また鬱が来るというわけだよ」

「解決できないことが何なのか、分かっているんですか?」

「それが分かっていれば、何か違ってくると思うんだけど、それが分からないんだ。自分にとって致命的なことなのかも知れないし、些細なことなのかも知れない。大学に入ってこんな状態になったというのも、気になるところではあるんだけどね」

「やっぱり孤独を感じていることが関係しているんでしょうか?」

「そうは思いたくないね。もしそうだとすれば、自分にとって致命的なことだと言えるだろうから、あまり考えたくないことだね」

「鬱状態と躁状態が表裏一体であるということと、孤独を感じることがどこかで繋がっているのだとすると、僕もいつ躁鬱状態に陥るか分からないですね」

「俺はそんなことはないと思うな」

「どうしてですか?」

「君は小規模ではあるが、鬱状態のイメージを金縛りに遭うという形で感じているじゃないか」

「確かにそうなんですが、それが拡大して、鬱状態になったりはしないかと思ってですね」

「それはないよ」

「なぜ?」

「だって、君の金縛りには、鬱状態の兆候はあっても、躁状態の兆候はないだろう? それが証拠だ」

「やっぱり、躁鬱は一対なんですね。じゃあ、僕の金縛りはどういう位置になるんでしょう?」

「だから、夢の中でのことなんじゃないかい?」

「幻想のようなものだと仰るんですか?」

「そうは言っていない。今は夢の中のことなので、それが表に出てくることもあるだろう。その時に、躁状態に当たる何かが現れれば、それが躁鬱に変わるものではないかと思うんだよ」

「まるで先輩は、僕には躁鬱症に入ることはないと言ってくれているように感じるんですが」

「ああ、その通り。僕は君が躁鬱症になるということはないと思っているんだ」

「何か根拠があるんですか?」

「根拠というわけではないが、さっきも言ったように鬱状態だけの金縛りを眠りに就く前に感じるという狭い範囲での感覚は、内部から来ているものではないかと思うんですよ。足が攣るのは、身体の内部からだけど、金縛りは身体は外部からなんだけど、不安に感じることで、感情や精神は内部から沸き起こるものだって思うんだよね。でも躁鬱症というのは、感情や精神は内部からではなく、外的な要因からだって思うんだ。だから感情や精神が内部から沸き起こる金縛りを有している君には、それ以上外的な要因は起こらないんじゃないか。それが根拠といえば根拠になるのかな」

 話を聞いていると説得力があった。

――やはり、金縛りと躁鬱状態というのは、一人の人間の中で共有することはないんだ――

 と感じさせた。

 この思いが次第に大きくなり、その後、ある人の出現で、より一層の信憑性を感じることになるのだが、それはまた後の話であった。

 鬱状態とは思えないほど饒舌な先輩の話には、鬱状態でしか感じることのできないものがあったことを、後になって気が付いた。

――今日、先輩は何が言いたくて僕を呼び出したんだろう?

 会話が進むにしたがって、その思いが薄れていったが、金縛りと鬱状態というのが一人の人間の中で共有できないということに気づいた時、急に我に返ったように、そのことが気になってしまった。

 話をしながら、会話が盛り上がってくると、先輩は額に必要以上の汗を掻くという特徴があることに気づいていた。

 しかし、この日の先輩は、ほとんど汗を掻いているわけではない。そのわりに気持ちが高揚しているのがハッキリと分かった。冷静な先輩も知っているだけに、この矛盾した雰囲気に、会話に引き込まれながらどこか置いて行かれているような気がした自分がいたことに次第に気づいてくるのだった。

 その日の先輩との話はそれで終わった。いつもであれば、

「呑みにでも行こうか?」

 と言ってくれるのだが、さすがに鬱状態がまだ終わっていなかったせいもあってか、そんな話は一度も出なかった。それでも、

「また近いうちに」

 と先輩がいってくれたので、少し安心した。

 その近いうちが、今日だったのだ。

 すっかり先輩は元気になっていた。

――鬱状態の時とは明らかに違う――

 と感じたが、躁状態というほどでもなさそうだ。

 いつもの冷静な先輩が戻ってきたようで、話しやすくなったことが嬉しかった。前回では話のほとんどが先輩主導だった。高校時代の二人は、お互いに会話に関しては気を遣うこともなく、言いたいことを言い合った仲だった。それを思うと、前回は鬱状態の相手に、自分が臆していたかのようで、少し複雑な気持ちだった。

 扉を開けると、最初、先輩は気づいてくれなかった。どこかあらぬ方向を見ているような気がして、心ここにあらずと言った感じだろうか。

――まだ鬱状態が続いているのかな?

 と感じたが、本人はすぐに抜けるといっていた。

 それであれば、躁状態も抜けて、再度の鬱状態に入ったのではないかと思うと、どう接していいのか身構えなければいけない自分が不安に思っているのを感じた。

 しかし、すぐにその不安は解消された。先輩がすぐに見つけてくれて、ニコニコといつもの笑顔を見せてくれた。最初は、どうして気づかなかったのか確認したかったのだが、笑顔を見るとそんな気持ちは吹っ飛んだ。いまさら蒸し返してお互いが嫌な思いをする必要などないと思ったからだ。

 先輩は信治を見るといきなり、

「この間は、呑みにも誘えなくてすまなかったな。今日はゆっくりできるのなら、夜も付き合ってもらいたいものだ」

 と言って、声を挙げて笑った。

 先輩の声はハスキーなのだが、重低音が結構響く。空きっ腹なら、こちらのお腹にも響いてくるほどの声だった。

「今夜、大丈夫だよね?」

「ええ、大丈夫です」

 普段の先輩なら、最初から夜も付き合ってほしいのなら、そう言ったはずだ。いきなり思いついたのか、それとも、こちらの様子を伺ってから決めたのか、すぐには分からなかった。

 しかし、その日の先輩はどこかぎこちなさが感じられた。いつものキレがないというか、言葉に重みのようなものが感じられなかった。

――やっぱり、心ここにあらずというところなんだろうか?

 午前中の会話は、最初は政治経済の話から始まった。鬱状態の時に先輩が読んでいた本だったが、

「あの時から、政治や経済について勉強してみると、結構面白くてね」

「先輩が、政治経済なんて、信じられませんよ」

 というと、

「まあ、そういうなよ。俺は元々歴史は好きだったんだから、政治経済に興味を持つのは不思議なことではないんだぞ」

「確かにそうですけど、政治経済を勉強して、人との会話に活かそうというおつもりなんですか?」

「それもあるね。将来の就職活動にも勉強していて損はないからな」

 今までの先輩から、将来の話が出るというのも珍しかった。

 やはり、鬱状態を経験したことで、先輩の中の何かが変わったのかも知れない。

――ということは、僕も目に見えないようなところで、何かが変わっているのかも知れないな――

 と感じた。

 政治経済の話が少し一段落してくると、やはり花が咲くのは、歴史の話だった。

「鬱状態の時に、最初は好きな歴史の本をいろいろ読んでみたんだ」

「ええ」

「だけど、今までなら時代を遡って見てみたいという気持ちだったのが、逆に気になった時代から順を追って歴史を見てみたいという気になったんだよね。今までだったら、学校の勉強と同じ切り口なので、新しいものは見えてこないというのが、俺の考えだったんだけど、鬱状態になると、今までできないと思っていたことをやってみたくなったんだ。それが歴史を遡るのではなく、時系列に合わせて進んでみるやり方だったんだ」

 学校の勉強を毛嫌いしているところがあると思っていた先輩らしい発想だった。

 信治も歴史が好きだったが、さすがに歴史を遡って見ていくようなことはできなかった。それは歴史を一度サラリと知った上でのことであれば分かるのだが、結果から原因を見つめるのは、理由が分からないと理解できない気がした。先輩も一度は歴史をサラリと勉強し、奥深いところを遡って見ているのかも知れない。

「歴史というのは、人物から見るか、その出来事から見るかによっても違ってくるし、流れで見るか、それとも、その時々の「地点」で見るかによっても変わってくる。俺は、最初から分からなくてもいいと思っているんだ。最初は感覚的なものが分かった上で、例えば最初に人物から見たのだとすれば、今度は出来事を掘り下げてみる。そうすると、その人が何を考えていたのかというのが、おぼろげに分かってくる気がするんだ。いろいろな切り口から見ることで、一つの考えに固執することがなくなるんじゃないかな?」

「そういえば、以前、歴史の番組で、その時々の地点を目印にして、誰が何を考えて行動したのかということをテーマにした番組がありましたが、僕は好きでしたね。学校では教えてくれないような話もいっぱい出てきて、歴史を知ることは、本当に教養の幅を広げることになると思いましたからね」

「人類の歴史というのは、時系列に発達していると思うんだけど、考えてみると面白いよね。同時期にまったく知られていなかった場所で、同じような文明が発達したりしていた事実を考えると」

「どういうことですか?」

「例えば、四大文明にしても、似たような建造物が残っていたりするだろう?」

「そうですね。それをいえば、僕も興味があるのは、中南米の文明が、十五世紀や十六世紀の大航海時代に、スペインに発見されて、初めて世界に知られるようになったはずなのに、古代エジプトのようなピラミッドは存在していたじゃないですか。あれだって、どうしてなのかって思いますよね」

「中南米の文明ということになると、ナスカの地上絵のように、空から見なければ分からないものも存在している。それを思うと、中南米の文明には宇宙人が絡んでいるという考えも成り立つかも知れないな」

「そうですよね。地球上で確かに、アメリカ大陸だけは別格の大陸だった。それは宇宙人が自分たちの土地として利用するのに、ちょうどいい場所だった。最初からそんな場所を探して住んだのか、それとも、意図的に他の人類に見つからないように細工をしていたのか。それを考えると実に面白いですよね」

「その意見、実に面白い。そうやって考えると、アメリカ大陸は、宇宙人の基地のようなものだった。少なくとも我々人類よりも、高度な文明を持ち、人間の感情や考えまで操作できる連中だとすると、今のアメリカ合衆国の人類も、ヨーロッパからの移民が国家を作ったのではなく、存在していた国家の中に。欧州からの移民が組み込まれたと考えるのもありかも知れないよね。確かにそう思うと、たった二百年ほどで、世界をリードできるほどの文明を持つことができたのも納得がいく」

「そこまで考えてくると、世界大戦も、宇宙人の画策だと思うのは考えすぎでしょうか?」

「そんなことはないと思うが、少し突飛すぎるかも知れないね。独裁者と呼ばれる人たちは確かに存在した。それは歴史が生み出したのだと考えると、確かに突飛かも知れないが、ありえないことではない」

「でも、どうして自分たちのまわりに宇宙人を感じないんでしょうね?」

「彼らは、集団で行動することを主としているんじゃないかな? だからアメリカ大陸のような国で密かに暮らしていた。それも、自分たちだけの文明を頼りにだよ」

「だとしたら、彼らの目的は何なんでしょう? 地球の侵略なんでしょうか?」

「何とも言えないけど、侵略するんだったら、もっと早くしていてもいいと思わないか?」

「そうですね」

「これも考え方だけど、俺は彼らは漂流民ではないかと思うんだ。何かの原因で宇宙船が壊れたか何かして、地球に不時着した。地球が彼らにとって住みよい場所だったので、そのまま永住したという考えだね。もっとも彼らの生態がどうなっているかなんだけど、寿命がどれくらいで、実際、どんな形をしているのか、興味があるね。我々に分からないように、化けるのは彼らの文明の利器なのかも知れない」

 ここまで話をしてくると、さすがに信治も我に返った。

 先輩は最初から分かっていてこんな話になったのか分からないが、先輩の性格からすれば、分かっていたような気がする。

「何か話が歴史ではなく、SFになってきましたね」

「ああ、そうだね。でも、面白いからいいじゃないか」

 先輩は分かっていたようだ。

 だが、最初にSFっぽい話への扉を開いたのは、自分だったような気がする信之だった。それを思うと、それ以上詮索することはできなかった。ただ、この話は途中で終わる形になったが、きっとまた近い将来同じ話題に花が咲く気がした。

――その時、僕は以前にこの話をしたことを覚えていないかも知れないな――

 そんな気がする信之だった。

 昼からの授業を終えて、二人で街に出た。先輩は家が近かったので一度帰って、着替えてくるということだった。駅で待ち合わせをした時には、すでに日が沈み始めていた。

「やあ、待たせたね」

「いえ、適当に時間をつぶしていましたから」

 実は喫茶「ユーカリ」に立ち寄っていた。

 先輩との話に触発されてか、駅近くにある本屋に寄って、歴史小説を買ってきて読んでいた。群雄割拠の戦国大名を、公平な立場で書いた話だったので、興味が沸いたのだ。時代小説ではどうしても一人の武将に思い入れを持って書くため、時代背景もその人を中心に書かれてしまう。有利であっても、不利であっても、主人公は贔屓武将なのだ。

 しかし、史実に基づいて書かれた歴史小説は、結構公平に戦国大名を見ている話しが多い。冷静に書かれていると言っていいだろう。信治は歴史は好きだが、誰かに陶酔するようなことはなく、歴史に起こった事実の繋がりを冷静に見る方だ。先輩は歴史を遡って見ると言っていたが、信治にはとてもそんなことはできないと思っていた。

 かといって、歴史上の人物に好き嫌いがないわけではない。好き嫌いがなければ、そもそも歴史を好きになるということはないというのが信治の考え方だった。それでも話をして見る時は、贔屓目に見ないようにしている。人物に焦点を当てるよりも、事件や戦争なのどの出来事に興味を持つ。ここでも、孤独な性格が生きているのかも知れない。

「僕は、歴史の本とかを読んでいると、ついつい自分に置き換えて読んでしまっていることも多いんです。もちろん無意識にですが。そんな自分を嫌いではないんですが、どうして無意識に感じてしまうのかが納得いかず、なるべく冷静に見るようになったんですよ」

 と、先輩に話したことがあった。

「俺も実は同じように、自分を主人公に置き換えて読んでしまうことが多くてね。最初は歴史小説を読んでいたんだ。史実を知らないと、いきなり時代小説の世界に入り込んでも面白くないだろうと思ってね。だから、時代小説を読むようになってから、こんな性格も悪くないと思うようになった。歴史を前もって知っているだけに、余計に何が楽しいのか、そして作者の言いたいことが何なのか、分かるようになってくると、本当に面白くなってきたんだ」

「それは言えるかも知れませんね。でも、僕には時代小説を読んでみようという気にはどうしてもならないんですよ」

「きっとそれは、冷静に歴史を見るということに固執しすぎているからではないかな?」

「確かにその通りだと思います。でも、その思いは自分が主人公にはなれないという現実的な感情が働いているからではないかと思うんですよ。それにもう一つ、解析されているとはいえ、実際にその時代で見てきたわけではない。どこまで言っても、フィクションはフィクションなんだって思いがあるんですよ」

「俺も結構頑固なところがあると思っていたけど、君はそれに輪をかけて頑固だな」

 と言って、先輩は苦笑いをすると、

「ありがとうございます。誉め言葉だと思って受け止めることにします」

 こういう時の信治は、調子に乗っている。どこまでも冷静で、誰にも言えないと思うほど、意固地になっている。逆らうことは、余計に信治を固執させることになることを先輩は分かっている。

 しかし、それはあくまでも話の上だけのこと、反対意見であっても、信治を納得させることであれば、いくらでも言えばいい。先輩もよく分かっていて、

――逆らう時は逆らう。それ以外は、彼の意見にしたがって話をすればいいんだ――

 と感じていたはずだ。

 普段は、相手の話に合わせている信治だったが、意固地なところはある。それを知らないと、彼の孤独な気持ちの中に割って入ることはできない。

 もっとも、そこまでして彼の気持ちの中に入ろうなどという人はいない。言い争いになることはほとんどなく、あるとすれば、先輩と意見を戦わせている時だろう。それでもお互いに分かっていることなので、会話は噛み合っている。言い争いというよりも、激論という方が適切であった。

 この日、信治は歴史小説を読みながら、そんなことを考えていた。

 信治は、本を読む時、何かを考えていることがほとんどだった。集中して読んでいるつもりでも、気が付けば何かを考えている。我に返った時などは、

――あれ? 今何を考えていたんだろう?

 と思ったものだ。

 我に返るほど無意識に何かを考えながら本を読んでいる時というのは、本当に集中している時だった。気が付けば時間があっという間に過ぎている。自分の意識としては三十分くらいのつもりだったのに、時計を見ると二時間近く過ぎていたりする。

――えっ、もうこんな時間になっているのか?

 ビックリさせられることもしばしばだった。

 戦国時代の話や、明治以降の話が一番好きな信治は、やはり歴史の事実や時代背景に、まわりの人間が翻弄されながら、いかに考えてきたかというのが、読み込む上での流れだと思っていたからだ。

 歴史的な事実を羅列したかのように書かれている本は、信治にとって、想像力を掻き立てるもので、ノンフィクションでありながら、フィクションのような感覚で読むことができる。

――どうせ誰も見てきたり聞いてきたりしたわけではないんだから、フィクションのように勝手な想像をしたっていいじゃないか――

 と思っていた。

 そのことを先輩に話すと、

「俺にはできないな」

 と、一言で一蹴されてしまった。

 さすがにムカッときて、

「どうしてなんですか?」

 と、食って掛かりそうになる勢いを抑えるようにして聞いてみた。

「そう、カッカするなって」

 と、機先を制され、ペースを崩してしまった。

 先輩は続ける。

「だって、君の考え方は、歴史を勉強する人のスタンダードな気がするからね。僕が君のような考え方をしまったとしたら、その時点で歴史に興味を失うかも知れない」

 信治にとっては、驚愕だった。

 自分にはまわりと同じような感覚はまったくなかった。自分も先輩と同じようにまわりと同じであれば、その時点で歴史に興味を持つことを失うだろう。

――先輩の言っていることは信じてはいけない――

 そう思うしか、その時はどうしようもなかった。

 話としては聞いておいて、それを事実だと思わないようにした。

――真実かも知れないが、事実ではない――

 真実と事実の違いにこじつけて、自分を納得させようとしていた。

 真実というのは、その人にとっての信じる実であって、事実である必要はないと思っている。だから、

――事実かも知れないが、真実ではない――

 という考えも成り立つ。

 信治は敢えて前者を考えたのは、

――事実でなければ、自分を納得させることができる――

 という考え方があったからだ。

 逆に言えば、真実なのかも知れないという思いが結構強いことを示していた。

 ただ、真実かどうかは自分が決めること、いくら先輩と言えども、勝手には決めつけることはできない。それなのに、先輩に聞いてしまったのは安易な気持ちからだったということを自分で後悔していたのだ。

 信治は先輩が来るまでに結構本を読んでいた。

 最初は、ゆっくりめのペースで読んでいたので、

――三分の一も読めればいいかも知れないな――

 と思っていたが、気が付けば、半分近くまで読み込んでいたのに、まだ先輩がやってくる気配もなかった。

 時間は、まだ先輩が来ると思っている時間まで、まだ少しあった。それなのに結構読み込んでいるのは、それだけ集中していたからだろう。

――もう少し読んでみよう――

 と思って読み込んでいた。

 すると、しばらくしてから先輩が現れたのだ。

 意識していた時間に比べてあまり変わっていないが、読み込んだ本は、途中我に返った時から比べて、それほど先に進んでいなかった。

――一度我に返ると、同じ行動をするにしても、頭の中でリセットされてしまうんだな――

 と、時間の感覚への思いを浮かべていた。

 表を見ると、すでに日は落ちていて、夕凪すら通りすぎていたのを感じると、ホッとした気持ちになるのだった。

 先輩は、入ってくるなり、コーヒーを注文すると、差し出されたお冷を、半分近く一気に飲み干した。息切れもしているようで、急いできてくれたことは、見て取ることができる。

「待たせてはいけないと思ってね」

 そこが先輩の男気だった。

 自分が今日は呼び出しているので、最後まで気を遣わせてはいけないという思いからであろう。その気遣いが嬉しくて、先輩とだけは、これからもずっと知り合いでいたいと思っている。

「ありがとうございます」

 そう言って、自分が本を読んで待っていたことを示すように。自分の顔の横くらいに本を翳して、見せつけた。

「本を読んで待っていてくれたんだな。結構進んだかい?」

「ええ、最初はゆっくり目。そして、途中から結構一気に読み込んだんですが、途中で一度我に返ると、そこから先はゆっくりペースだったですね」

「そうだろう。そうだろう」

 と言って、大きく二、三度頷いていた。

「俺もそういうところがあるんだ。長時間読んでいると、必ず何度か我に返ったりするものさ。そのたびに、時間の感覚も、集中力も一度リセットされる。珍しいことではないし、誰にでもあることだって思っているよ」

「そうなんですね。それを聞いて少し安心しました」

「君は、ほとんど人とこういう会話をしないようだから、多分分からないんだろうね」

「そうですね」

「ところで、どれくらいの人と接触があるんだい?」

「接触という意味で言えば、結構いるんだろうと思いますが、自分が意識している人はごく一部です。ただ、小学生の頃は意識しているつもりはなかったんですが、近くを誰かが通っただけで、ついつい避けてしまうことがあったんですよ。別に何かをされるという意識があったわけではないんですが、不思議です」

「一度、静電気のようなものが走って、それが意識の中に残っているんじゃないのかい?」

「それはあるかも知れません。自分では覚えていないのですが、言われてみれば、そんなことがあったのかも知れません」

「人というのは、ショッキングなことがあれば、それを隠したいという意識が働くもので、それが時には夢で見たとして自分を納得させようとすることもあるんじゃないかな? デジャブという現象もその一つなのかも知れない」

「なるほど、デジャブについては、それほど意識を持って考えたことがないんですよ。科学的には証明されていないということだったので、僕が勝手に想像しても、それが正しいのか間違っているのかが分からないからですね。そんな無駄なことはしないというのが、自分の中のポリシーのようなものでした」

「今もそうなのかい?」

「今は少し違ってきています。時々、デジャブに対して自分独自の考えが頭をよぎったちょうどその時、『前にも同じようなものを見た記憶があるような』と感じるんです。デジャブを思い浮かべたことでそうなので、本当は意識していないつもりで意識しているのかも知れないです」

「それはまるで、『夢を見ている夢』を見ているような感覚なんじゃないかな?」

「そう、その感覚です。どう言葉にすればいいのかって思っていたんですが、今の言葉、そのままいただきますっていう感覚ですね」

 先輩との話には、必ず一回は、目からうろこが落ちたような時があった。今日は今の話がその時なのかも知れない。

 そして、目からうろこが落ちると、今度はその話をそれ以上続けても、進展はないような気がして、どちらからともなく、話を変えるような素振りが見られる。

 この日は、その思いに先に立ったのは信治の方で、

「そろそろ行きますか?」

 と席を立った。

 先輩も話をしているうちにコーヒーも飲んでしまって、どこか手持無沙汰に見えたからだ。

「そうだな」

 と言って立ち上がった先輩の後をついて歩いたが、その日は、終始先輩の後ろをついて歩くことになると、その時感じたのだった。

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