10.雫の追憶 —ぽたぽた—

 ぽたぽた。

 どこからか水の音がしていた。

 ぽたぽた、ぱたり。

 雫の滴る音だ。

 汗をかいたせいか額から滴る雫、手洗いで脱水が不十分なまま干した洗濯物から滴る雫の音。

 泡立つ手元のタライ。

 私は洗濯の手を止めて、その音を聞く。

 その音が私をあの日に連れて行ってしまう。


 ***


 テーマパーク奈落にはたくさんの施設があったわけだが、その建物内で水の滴る音を聞くことはよくあった。

 特に客が少なくなってからは、静かな建物の中でその音が際立つ。

 雨漏り、水漏れ、それから——

 今日は水道の蛇口の緩みか?

 ここの施設はそうそう古いものではないが、それでも経年劣化は免れない。

 下層ゲヘナは、上層アストラルと時間の流れが違うという噂もあるけれど、私の私見だが、下層のものは傷みやすい。

「ああ、またかよ」

 保守の仕事は私もよくやっていたが、弟の方がそういうことはよく気がついた。

「まったく、もう! 一つ直したら次の一つが壊れるんだよなあ。業者呼べねえからおれがやるしかねえのにさ!」

 なにかとぼやきながら、彼は人の少なくなったテーマパークで、インフラ設備の修理もできる限り手掛けていた。

 保守の担当なのだから、私に一言言ってくれればよいものを、と思ったが、私も彼に何もいわなかったのだから、仕方がない。

 私は彼に嫌われていると思っていた。それで、なんとなく声をかけるのが面倒な気持ちもないでもなく、どうしても対応できないようなら手伝おうと思った。

 ぽたぽたと一定のリズムで滴り落ちる水滴の音。きゅっきゅ、と鳴るのは弟が工具で緩みを直しているせいだ。

 声をかけずにいるのは居心地が良くなかったはずだが、なぜか不思議と穏やかな時間が流れていた。

「よし、直ったぜ。ははーっ、おれ、天才だなあ」

 誰も聞いていないと思っているのか、弟が大声で得意げに独り言をいう。

「もう、専門外だったこんな修理まで、ちゃちゃーっとできちまうくらいにマスターしたぜ! へへっ、おれ、我ながらすげえ! うん、今なら工務店にでも就職できちまうなあっ!」

 誰も聞いていないからこその、弟の調子にのった発言だ。

 誰かが聞いていたと知ったら、意外とシャイなところのある弟は、真っ赤になって黙ってしまうだろう。相手が私だったら、きっと居心地悪そうに、私がいたことに「なぜ声をかけなかった」と怒ってごまかすのだろう。

「今日は気分がいいから、他にも直しちまおうかなっ!」

 出会えば不機嫌な顔をするくせに、一人だと楽しそうだ。どちらが本音かわからないが、そんな彼のことを、微笑ましく思ったことがないといえば嘘になる。

 弟は、口も悪いし、態度も悪かったが、どこかしら憎めないような部分はあった。

 そういうところは、かわいらしいとは思ったのだ。

 兄弟仲は良好なわけではなかったが、少なくとも私は、彼、ネザアスを憎んでいた、というわけではない。

 雫の音が響く、穏やかな時間。私はそれが嫌いではなかった。

 だから、助けたかった。


 あの日、そんなことを思い出していた。

 ぽたぽた、ぱた。

 しかし、水の滴る音はまだつづいている。

 弟が直したというのに、なぜだろう。

 そんなことを思う私の頬に生暖かいものが滴っていた。

 その黒い液体は、ヤミィ・トウェルフとの戦闘で破壊された弟の体を構築するナノマシンだった。

 ぽたぽた、と床に黒い染みをひろげながら、血のように滴るそれをみて、私はようやく意識を取り戻した。

 ああ、そうだ。私は弟を連れて、建物から脱出しようとしていて、私自身も何度か爆発に巻き込まれたのだった。

 一際大きい爆発に巻き込まれ、その頃には意識を失っていた弟を庇ったものの、吹き飛ばされた。

 ぽたぽた滴るのは弟の命だ。

 このままでは、全て流れ出てしまう気がして、私はふらつきながら立ち上がり、眠る彼を見つめる。

(私は、弟を助けたい)

 弟を構築していたナノマシンの黒騎士物質ブラック・ナイトが顔に付着し、私が流すことのない涙のように滴り落ちた。

 ぽたぽた。

「必ず助ける」

 私は自分を鼓舞するようにつぶやく。そしてまた彼を抱えようとした時、私にある声が聞こえた気がした。

『そうなんだ。助けたいんだ』

『これは意外だね。あんなに憎んでいたのに』

 それは何人かの声だ。

『それじゃあ、ここで救いの手をさしのべてあげてはどうかな。君はこのまま見ていようと言ったけれど、助けたいならかわいそうだ。二人がお互い嫌い合ってると思っていたけど、そうじゃあないのかな?』

『それならどうするんだい?』

『彼等には、いくつかの生存の為の緊急機能がある。中には許可がないと発動できないものもあるが、それを発動させてあげよう。その上で』

 朦朧とする意識の中で、聞き覚えのある声が遠くでさざめいた。

『君が聞きたかった質問を、僕がドレイクに投げかけるよ』

 

 ***


 ぽたぽた。

 雫の音が近くで聞こえた。

「あにさま? だいじょーぶ?」

 ぼんやりしていたのか、気がつくと風呂上がりの弟が私を下から覗き込んでいた。

 風呂上がりの弟は、着替えたパーカーにシャンプーハットをつけたままだ。そのシャンプーハットのふちに、小鳥のスワロ・メイがちょこんとのっている。

「あにさま、どうしたの? 顔色わるい。元気ない?」

「あ、ああ、すまない。ぼんやりしてしまって」

 洗濯中に水の滴る音がしたので、思わず気を取られていた。

 泥の魚を釣るのは楽しいが、水辺で汚泥を狩っているわけで衣服汚れることもしばしば。

 私達は、本日の宿舎がわりの居住地跡に帰ってから、衣類の洗濯をしていた。

 泥だらけの弟に先にシャワーを浴びさせている間、私は洗濯を進めていたのだ。

 そして、その間にふと思い出したことがあり、ぼんやりしてしまった。

 弟ほどではないにしろ、私もあの時の記憶に欠けがある。例えば先ほどのことも、私は覚えていなかったわけだ。

 あの声は一体誰だったのだろう。

 はっきり聞こえなかったが、きっと、その後私、たちの身に起こったことも考えるとすれば、彼等は、我々になにかを。

 とそこまで考えて、私はため息をついた。

 その後のことは、どうももやもやに包まれている。

「あにさま?」

 と、弟の声が私を現実に戻らせた。

「あにさま、元気ないなら、おれ、洗濯するよー! おれ、おわったから、あにさまもしゃわー!」

 弟がそう言って手伝おうとしてくれる。

 しかし、急いで出てきたのか、気づいていないのか、シャンプーハットを被ったままなのだ。頭をまだ拭けていないので、ぽたぽた雫が落ちている。

 私はちょっと苦笑して、彼の肩のタオルを彼の頭にかける。

「ありがとう。しかし、ネザアスはそれ外して、まず頭を乾かさねばな」

「あ、外すの忘れてる!」

 恥ずかしそうに言って、慌てて弟は、シャンプーハットを外してタオルで髪の毛をがしがし拭き始めた。

「洗濯機が壊れてるから、少し手間だねえ」

 釣りに手慣れているドレイクは、一人涼しげな顔で、泥の汚れもない。そんな彼の周りでふわっと金魚のマルベリーが漂う様に泳いでいた。

「でも、あわあわ楽しい。シャンプーも楽しいけど、せんたくも楽しいぞ」

 弟はそういうと泡の溢れるタライに手を入れ、わしわしと洗うと泡が立ってシャボン玉が飛ぶ。

「手でやると脱水が不十分なのだが、乾くかな」

 私は、物干し台からぽたぽたと滴る水滴をみやってうなった。替えの衣服はパーカーやスウェットなどで、基地にあった少年兵達の衣類を拝借できたものだが、汚泥用のコーティングがある衣服はほぼ一張羅なのだ。

「なぁに、キミたち、別に急いだ旅じゃないだろう?」

 ロクスリーは、どうやら、この廃墟に宿泊するのが初めてではないらしい。

 縁側に面した和室に座布団を出して、手慣れた様子でくつろぎ始めている。まるで自分の家かのようだ。

 そういえば、ここの施設がやたらと綺麗なのは、彼が時々泊まっているからかもしれなかった。

「白騎士達は警戒心強いし、目指すとしたら大きな基地になるだろう。資材はあるのだし、ゆっくり行けば良いんじゃない」

「それはそうだが」

「洗濯物がかわく時間くらい、ゆっくりしておいき」

 ロクスリーはゆったりと言う。

「別に焦ることない。ぽたぽた滴る涙も血も汗もかわいてからいけばいい話。急いで得するのは、キミたちをみてるせっかちな男たちだけさ」

 私の心を見透かした様に、ロクスリーがそういう。

「あにさま、オッサンの言う通りだよ」

 いつのまにか、泡だらけになっている弟が言った。

「あわあわたのしいもん。ゆっくりしていこう」

「そ、そうだな」

 弟の言葉に、少し気が楽になる。

 弟の状態はわからないが、少なからず、ここでこの少年の姿でいるうちは元気そうだった。

 ぽたぽた。

 物干し台からこぼれる雫の音が、ほんのりと優しく響く。

 今の私にとって、雫の音は弟の命のこぼれ落ちる音。そのトラウマがどこかで引っ掛かる。

 けれど、もともとそれだけではなかった。

 あの施設の中、弟が蛇口を修理するのを眺めていた日の音のように。

 退屈でのどかで、しかし、穏やかな記憶をもたらすもの。

 私はため息をついた。

 そんな私の目の前の弟は、せっかく洗ったばかりなのにまた上半身が泡だらけになっている。

「ネザアスはもう一回、シャワー浴びたほうがいいかなあ」

 私はそう言って苦笑する。

 ロクスリーのすすめるとおりかどうかはわからないが、私にもこのひとときの穏やかさは好ましいのだった。

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