4-6◆ 渡会 楓の願い

 トイレの鏡の前で髪の毛を少し整える。制服のシャツの第一ぼたんを外して、首の付け根を確認する。赤い三日月みたいな跡がまだ残っている。別れ際、先生はしばらくくしたら消えると言って、本当にごめんと何度も謝っていた。まだ消えていなくて安心する。

 

内出血ないしゅっけつだから突然消えることはないけれど、何回も確認してしまう。この跡を見ると、あれは夢ではなく現実だったと、実感できる。

 鏡の前に置いていたスマホが振動する。メッセージの通知だ。画面を開く。


『父親は人間のクズ、お前も一緒だ』『飲酒運転の人殺し』という文章が表示される。あの事故のことを詳しく知っているというアピールだ。このところ2日か3日に一回くらいのペースで届く。


 ブロックしたら、私がショックを受けていると相手に伝えるみたいな気がして、ブロックできずにいる。祥子さんが警察には届けてくれたけど、特に何も対処できないみたいだ。やっぱり番号を変えた方が良いのだろうか。けど番号を変えたら、どうして変えたのか聞かれる。キャリアを変えても番号を変えないのが普通だ。


 こんな嫌がらせ文章を送ってくる人のせいで、私の生活が壊されるのは、もう嫌だ。溜息ためいきくと画面を閉じる。

「あー! かえでだ! 水曜の五限とか、本当だるいよね」

優亜ゆあ! うん、そうだよね……私なんて今日は部活もあるし」

 私の少し下に、優亜の顔が並ぶ。だるいとは言っているが、表情は明るい。


「あれ? 楓、寝不足? 何かクマできてるよ」

「え? 本当に……?」

 自分では気づかなかったけど、優亜から見ると寝不足と分かるくらい、疲れた顔をしているのだろうか。こうして自分の顔と比べてみると、優亜の美しさが分かる。元々の美しさもあるが、そこから更に手をかけて、完成されている。


「どうしたの? 何か悩んでることとか、あるの?」

 鏡の中の優亜が少し首をかしげて、心配そうに私に微笑む。

「いや全然、そんなことないよ。動画とか見て遅くなっただけ」

 優亜の方を振り向いて答える。実際、昨日は遅くまで、メイク動画を見てしまっていた。嫌がらせメールで眠れないのも事実だけれど、学校の友達には、メールのことや内容は絶対に気づかれたくない。


「……ねぇ、それ」

 優亜が私の襟元えりもとに手を伸ばす。赤い三日月の跡が隠れている、左側の襟を広げる。反射的に襟を押さえて、後ろに下がった。優亜は、襟を押さえた私の手を掴むと、手を引き剥がしてもう一度襟を広げた。大きな目を見開いて、私の首元を凝視している。


 彼女は怒っているように見えた。怖くなって手を振りほどいて、更に後ろに下がる。背中が壁に触れた。逆に逃げ場がなくなってしまった。

 昨日、部活でTシャツになったとき、殆ど誰もこの跡に気づきはしなかった。一人気づいた子がいたが、赤くなってるよ、引っいたの? と注意してくれたくらいで、こんなにじろじろと見ることはなかった。


「何? どう……したの?」

 首元を凝視ぎょうししたままの優亜に話かける。優亜は視線を上げて、私をにらみつける。私の両肩に手を置いて、耳元に顔を寄せてくる。

「大人しそうに見えるけど、そうなんだ……。へぇー、意外。それってもしかしてキスマ?」


 背中に触れた壁に、自分の鼓動こどうが反響する。どう答えるのが正解なのだろう。何も答えられず、優亜に目をる。

「誰が付けたか、当ててあげようか?」

 中田でしょ? と囁いて、反応を確かめるように私を正面から見据みすえる。どうして気づかれたのだろうか。肩に置かれた手から、私の鼓動が伝わっていたらどうしよう。


「違う……」

 真直ぐに優亜を見つめて否定する。声が上擦って、心臓がどくどく鳴る音が自分でもわかるくらい大きい。

「はぁ? 何堂々と嘘吐うそついてんの?」

 私の肩を掴む手に力が入る。優亜の態度が、いつもと全然違っていて混乱する。どうしてこんなに怒っているのだろう。


「怪我して、同情引いてさぁ、やり方ずるくない? どうやって誘ったわけ? ヤリたくてたまんないって、泣いてお願いでもした? 教えてよ」

「違う、本当に、違うから……」


 優亜は私のことを射るように見る。これがどうしてできたのか、説明する言葉が思いつかない。トイレの入口に目を遣ると、他の生徒が入って来た。優亜は入口に背を向けているが、足音で気づいたようだ。私を押さえつける手をゆるめる。


「そっか、ごめんね。楓が誘ったって、傷つくだけだよ」

「え?」

 また貴婦人の姿に戻った優亜が、にっこりと笑う。

「映画では上手くいかないんでしょ?」


 右手の指輪を見せると、私の肩をぽんと叩いて、出ていく。私は壁に背中を付けたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込む。私が傷つくだけ、彼女はそう言った。優亜はどうしてあんなひどい事を言うんだろう。


 初めて二人で話したときのことを思い出す。優しくて、キレイで……彼氏から貰った指輪を大事そうに眺めていた。そうか、あの指輪は、先生から貰ったんだ。優亜は私が先生と会っていることを知っていたから、私に忠告ちゅうこくするために、放課後誘ったんだ。先生は、優亜がいるのに……。そう思ってもやっぱり、首の赤い三日月は、消えて欲しくなかった

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