2-6◆中田 朔の秘密

 迂闊うかつだった。昔住んでいた場所の近くに行けば、子供の頃の思い出が、彼女の警戒をゆるめると考えていた。相澤のことを、少し聞き出せると思ったが、これほど拒否反応を示すとは。


 しかし、彼女の性格からすると、適当にかわすことができないのかもしれない。裁判が終わっても、父親のことをまだ受け入れていないのだから。父親に関する話は、拒絶するという選択しかない。


渡会わたらい、困ってるみたいだから、あんな事言ったけど……。ごめんな。適当な嘘ばっかり吐いて。」

 度会は首を横に振ってうつむく。

「先生は、悪くないです……」


 もしかしたら、彼女は嘘に疲れて、叔母の事を打明けたように、父親の事を話すかもしれない。話した後、俺も同じように拒絶されたら? 半端に打明け話をされて、心を閉ざされる可能性もある。まだ彼女から何も聞き出せていない。話題の矛先をずらす方が、良さそうだ。


「やっぱり、大学生は無理があったかなぁ。若返ってるって言ったから、試しに言ってみたけど、喋ると違うよな。最近ってどんな言葉が流行ってるの?」

 度会が、ちらりとこちらを振り向く。やや目を伏せているので、白い顔に睫毛まつげの影が、濃く映る。


「見えますよ。それは本当に、そう思ったから、言ったんです」

「いや……まぁ、大学生にしては、ふてぶてしくないか?」

「先生は、嘘が上手ですよね……」


 そう言って、真直ぐにこちらを見て微笑んだ。まるで、心臓をつかまれたような感覚だった。まさか何か感づいたのか。いや、彼女は何も知らないはずだ。何か適当に言葉を返さなくては、と考えるのだが、目をらす事もできず言葉につまった。


「私は、嘘吐うそつくの下手なんです。……さっきの、人違いじゃないんです。私、私……、本当は楽しいことする資格なんてないかもしれなくて……」

 あれほどまともに見ることが怖かった彼女から、目を離せずにいる。口元には笑みを浮かべてはいるが、今にも泣きそうな瞳でこちらを見つめて、言葉を探している。このまま話を続けさせてはいけない。話せば、俺を拒絶する。そんな気がした。


「何も話さなくていい。人違いで良いんだよ」

 彼女の肩を抱き寄せ、やや強引に話を打ち切る。一体何を、これ程に動揺する必要があるのだろうか。

「えっ……」


 安堵あんどの表情を見せると、彼女の身体の力が、一気に抜けるのがわかる。恐らく本音では、過去の話をしたくないのだろう。というより、まだ言葉にするのが、難しいのかもしれない。

「今、無理に言わなくていいから」


 陽奈子ひなこが死んでしばらくの間、彼女が死んだという言葉を、口に出す事が出来なかった。もちろん事実として分かっていた。頭では受け入れているつもりでいたが、身体は、拒否していたのだと思う。彼女は少しうなずいて、沈黙が流れる。


「……もう全部終わってて、ただの過去だってわかってるんです。でも、そのことを言うのは、怖い……。私はどうすれば正しいのか、今も分からなくて……」

 彼女が足元に目線を落として、絞り出すように喋る。その姿は、昔の自分を見ているようだった。


「あぁ、怖い……か。確かに、言葉に出すと現実になるっていうか、そういう感覚はわかるな」

「それって……先生のお母さんこと?」


 あれは余計だった。どうしてあんなことを言ったのだろう。べつに同じ経験をしたと言う必要性はない。けれど、自分と同じように苦しんでいる人間を前にして、自分の経験を伝えて助けたいと思うのは自然なことのようにも思えた。


「そうだね。頭と身体が追いつくのに、少し時間が必要だった」

「私はまだ、よくわかりません。……やっぱり、どんなに遠くても、会わないといけないかも……」


 彼女は斜め前の、ふれあいプールでたわむれる母子に目を向けながら、つぶやいた。相澤に会う必要があるのは、俺の方だ。

「お父さんのこと? ……遠くに住んでるのか?」

「いえ、気持ちの距離っていうか……」


 奥の方から、ペンギンを引き連れた飼育員が出てきた。どうやら散歩の時間になったらしい。ぺたぺたと飼育員の後をついて、次々に丘の上に集まって来る。スマホを持った親子が、丘の横に列を作って集まると、順番にペンギンとの撮影会が始まる。その様子を見た渡会の表情が和らぐ。


「どうする? 写真撮ってもらう?」

「いいです。小さい子供ばっかりじゃないですか……。私、大人ですから」

 彼女はちょっと笑いながら返す。相澤の住所について、聞き出す会話の流れを作れたかもしれないのに、気がげてしまった。この曖昧あいまいな時間を、心地よく感じている。


「じゃあ、大人の度会さんは、何かしたいことありますかね?」

 もしも彼女が、帰りたいと言えば、今日は引き上げるつもりだ。だが、帰ろうか? と直接聞く事は、躊躇ためらわれた。


「もう少し、一緒に……。隣に座っていても、良いですか?」

 ペンギンの方を見ながら、彼女が静かに呟いた。

「そうだね……。まだ髪も乾いてないし」


 思えば、可笑おかしな理屈だ。彼女から相澤のことを聞き出すよりも、ぼんやり隣に座っている方が良いなんて。相澤に復讐してやりたいのなら、今ここで強引に聞き出したって良いに決まっている。


 聞き出した後なら、俺を拒絶しても、問題なんてない筈じゃないか。彼女をめちゃくちゃに傷つけて自殺に追い込むことは、きっと簡単だ。


 けれど、少しずつ過去と向き合おうとしている彼女を見ていると、俺の中に沈んでいるものも一緒に溶け出して、消えてくれるような気がした。温い風が、ゆるゆると頬を撫でていく。髪の毛は、まだ暫く乾きそうもない。


「髪、乾いたらメシでも食いに行くか……」

 俺は彼女との時間に、執着しはじめているのかもしれない。

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