2-5◆中田 朔の秘密

 展示室のある館内は、冷房が良く効いている。ショーが終わった後、太平洋から順番に展示を回っている。被った水は、タオルで粗方拭き取ったが、完全には乾いていないので、服の濡れた部分は、ひんやりとして寒いくらいだ。


 度会わたらいの服や髪も所々色が濃いので、まだ乾いていないようだ。彼女も寒いのか、ノースリーブから出た腕を、時折抱えるように触っている。壁のフロア案内板を見たところ、次の深海コーナーを抜けると、中庭に出れる。


 中庭はケープペンギンの散歩や、浅瀬の生き物が見れるふれあい展示らしい。今日は天気も良いので、そこに一〇分くらい居たら髪や服が乾きそうだ。

「度会、深海コーナー通り過ぎて、先に中庭に行かない? ちょっと冷えてきたから、外に出たいんだけど……」

「あ、実は私も寒くて…。中庭あるんですか?」


 壁に貼り付けてあるフロア案内板の前に、彼女が歩み寄る。後ろから指で、位置とルートを彼女に説明する。

「北の深海側から抜けるのが、早いかな……」

 彼女が俺の方に振り返って、何かしゃべろうとした時、突然横から声を掛けられた。


「ねぇ、相澤さん? 相澤さんじゃない?」

 渡会は、振り返る途中の姿勢のまま、びくりと肩をすぼめた。彼女は声の主を見詰めて、しばらく動けずにいた。

「違います……」


 小さくそう言うと、俯いて俺の身体のかげに入るように、身体の向きを変える。声を掛けてきたのは、四〇代後半と思われるロングヘアの女性だ。女性はさらに彼女に近づいて、続ける。


「さっき、イルカショーで、一番前に座ってたでしょ? もしかして……って思って。覚えてる? 中学まで一緒だったうちの上の子、宮前愛みやまえあい。今あの子ね、北高きたこうなのよ。今、どうしてるの? 昔うちに、良く遊びに来てたわよね?」


 どうやら、度会の中学時代を知っている人のようだ。度会は、宮前愛の母と名乗る女性を、見ようとしない。ごめんなさい、違います。と小さな声で繰り返した。


「えぇ? ……でもあなた、やっぱり近くで見ると、ちょっと変わった色の目だし。相澤さんもそんなだったの、良く覚えてるのよ。本当に違うの? 皆、心配してるのよ。お父さん、どうしてるのかしら? あんなことがあって、ちゃんと再就職できたの? また病院のお勤め、あったの?」


 度会は、小さく首を横に振るだけで、答えようとしない。更に俺の側に身を寄せてうつむき、宮前の母が、顔を覗きこむのを避ける。


 別にこの再会に、割って入る理由はない。もう暫く様子を見ても、良いかもしれない。だが、渡会の態度を見ても、さらに会話を続けようとする宮前の母と名乗る女性に、やや苛立ちを覚える。

「あの……、違いますけど」

 そう言って、宮前の母が、彼女の顔を覗きこめないように、度会の頭の後に手を添え、自分の胸元まで引き寄せる。


「え? 何? 彼氏? まぁ……! 羨ましいわねぇ……。あなた、相澤さんといつ知り合ったの?」

 宮前の母は、わざとらしく、たった今俺の存在に気づいたように声を立てる。完全に相澤と決めつけている。デリカシーに欠ける人間は、相手の不快に関しては鈍感だ。質問している本人は、善意のつもりだろうが、それが一番厄介だ。


 ここに居るだけで、一方的に情報を漏らしていくことだろう。渡会の態度は、過去に対する拒絶だ。こういう形で彼女の過去や相澤の情報を、共有させられるのは本意ではない。


「そもそも名前、違いますよ。それに、高校生なんですよね? 僕ら大学生なんで、学年も違います。あとこの目、カラコン入れてるだけです。」

 最大の愛想笑いで、宮前の母に、嘘をさとす。


「えぇっ! ……大学……、カラコン……。そ、そうなの? やだ、ごめんなさい。凄く似てたから……」

 そう言いながらも、何とか度会の顔を、のぞきこもうとする動きをやめない。軽く頭を下げて、度会の肩に手を移してなるべく宮前の母から、顔が見えにくいようにしながら、中庭へ向かうべく向きを変える。


 途中の水槽を鏡代わりに、後を確認したが、付いて来る様子はない。一言も喋らず、中庭への出口に到達する。


 ドアを開くと、一気に暖かい空気が流れ込んでくる。取敢とりあえず、ドアの右手にある自販機近くのベンチに腰を下ろす。斜め前には、浅瀬の生き物と触れ合える横長のプールがあり、小さな子供と母親たちが、ヒトデを触って嬌声きょうせいを上げている。


 中庭の中央には、作り物の丘のようなものがあり、ペンギンのお散歩と、看板がかかっている。1日何回か、あの辺りをペンギンが歩くのだろう。気温の暖かさも相まって、一気に緊張感が解ける。

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