2-3◆中田 朔の秘密

 事故が起きたのは、小雨こさめの降る夜。残業で遅くなった陽奈子ひなこが、自宅へ帰る途中のことだった。目撃者は居らず、事故当時の状況は、相澤の証言だけが頼りだった。


 歩行者用信号が青色の点滅てんめつ状態で、陽奈子は横断歩道を渡り始め、渡り終える直前に赤に変わった。相澤は横断歩道のかなり手前で、陽奈子が渡りきったことを目視もくし確認した。


 自車レーンの信号は、青色に変わったため、そのまま速度を落とさず直進した。しかし、横断歩道の手前まで来た時、渡り終えたはずの陽奈子が、急に横断歩道内へ飛び出した。相澤は回避したが、間に合わず……。というのが相澤の供述による事故状況だった。


 そして、弁護士が言うには、非は突然飛び出した陽奈子にあり、回避行動をとり、同乗していた妻を失った相澤本人も、陽奈子の自殺に巻き込まれた被害者であるというのだ。


 陽奈子がそんな行動を取ったことは、到底とうてい信じられなかった。自殺をする理由もない。遺書も何もなかった。しかし、陽奈子の身体には、右側に集中して、車との接触痕せっしょくこんが残っていた。


 自宅に向かって横断歩道を渡っていた時に事故にっていたならば、身体の左側に、車との接触痕が無くてはならない経路だった。


 結局その事実が、相澤の証言を裏付ける形となり、量刑は、かなり軽減された。車が目前に迫ってきている横断歩道に飛び出した、という行動は自殺が考えられるとなったが、未だに納得することが出来ない。陽奈子はそんなことをしていないと、今でも思っている。ただ証明ができないだけなのだと。


 事実と状況を、都合の良い話でつなぎ合わせ、事故の原因を、陽奈子に転嫁した弁護士は、俺の目にはただの悪人としか映らなかった。そしてこの裁判を通じて、法律も裁判も、被害者やその関係者を救ってくれるものではなく、加害者のためにるものなのだと、知った。



「……法律か……じゃあ法学部? 二年の一回目だから、あまり気にせず、自分の好きなように書けばいいと思うよ」

「法学部なんて、やっぱりレベル高いですし、ちょっと考えてるだけです。それに、大学進学だと、祥子さんにも迷惑かけるので」


 そうだった、この子には頼るべき親がいないのだ。あの事故で日常を失ったのは、彼女も同じだ。前に話を聞いた時、自分と同じように苦しむ彼女を見て、助けてやりたいと、思わなかったわけではない。


 しかし相澤の娘だと思うと、冷たい感情の薄膜うすまくが生まれて、無神経に言葉を投げたくなる。

「そうか……、度会の場合は大学進学が、お父さんと仲直りする良い機会かもしれないな。相談してみても、良いんじゃないかな? 迷惑かけるって悩むくらいなら」

「そ……うですね。けど、私もまだ、真剣に考えているわけじゃ、ないので……」


 ミラーを見るふりをして、彼女を盗み見ると、俯いて、ももの上で両手を固く結んでいる。彼女の様子に、満足感のような感情が湧いてくる。相澤はまだ、彼女を取り戻せずにいるのだ。


 けれど、生きている限りはいつか、この親子も和解する日がきっと来る。そんな希望が残っていることすら、許せない。こんな子供を殺そうと考えたり、苦しめたり。どうかしていると思う。たぶん、陽奈子を失ったあの時から、もうずっと何かが壊れている。

「ごめん、担任でもないのに、余計な世話だな。あ……、あの橋渡ったらもう着く」

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