1-4◆渡会 楓の秘密

 医者からは、もう部活で走っても大丈夫と診断をもらった。捻挫ねんざすると同じ場所をひねやすくなるから、ストレッチは入念にすること、違和感があったら、すぐ来ることと念を押されたが、これで通院は終わりと宣言された。また走れるのは嬉しいはずなのに、寂しくもある。今日が終われば、この特別な時間が、消えてしまう。


 待合室から外に出て、先生に電話をかける。終わった? という先生の暢気のんきな声の後ろで、聞き覚えのある陽気な音楽がかすかに聞こえる。たぶん、ホームセンターナインズだ。この病院の近くに、大きな店舗がある。一〇分も待てば、此処に来るだろう。


「さて、どちらまで?」

田布施たぶせ駅前にある、九鬼屋くきやっていう和菓子屋まで、お願いします……」

 私はうやうやしく頭を下げる。先生はナビに目的地を設定して、車をスタートさせる。


「足はどうだった? もう大丈夫?」

「……はい! もう全快です。ありがとうございました」

「いや、俺が怪我けがさせたんだから、礼なんかいいよ。本当、回復早かったし、残る傷とかなくて良かった」

 怪我が早く治るのは、良いことなのだろうけれど、あまり嬉しくなかった。どうしてか、喜んでくれている先生を見て、傷つく自分がいる。


「和菓子屋って、親御さんのお使い?」

「まあ……、そんな感じです」

 フロントガラスに、雨がぽつぽつと当たり始めた。すぐに大粒の雨に変わる。


「あ、傘……学校に忘れてきた……」

「傘なら後ろに何本かあるから、心配するな」

 まだ日没時間ではないが、雨のせいで、辺りはすっかり暗い。なぜ傘が何本もあるのか、気になる。


 昔付き合っていた女の人の忘れ物なのか、それとも今付き合っている人がいて、その人の傘なのか、ただ傘を良く忘れてビニール傘をうっかり買っているだけなのか……、聞きたいけど悪い予想の方が当たった場合、今日のメンタルでは耐えられないから聞きたくない。


「この駅の西側ってあんまり来たことないな。あれか? 和菓子屋って行ったことないけど、結構でかい店なんだな。有名?」

「最近はカフェもやっていて、かき氷とか有名みたいですよ。小学生の頃から、年に何回か来てて、昔は……そんなに有名では、なかったと思いますけど」


 店舗併設の駐車場に車を停めると、傘を取って来るから待つように、と言って車外に出てバックドアを開け、透明ビニール傘を、二本引っ張り出す。一本を手に持ち、もう一本を開いて、バックドアを閉めると、助手席側にまわってドアを開けてくれる。傘と地面を叩く雨の音が急に大きくなる。


「ありがとうございます」

 傘を受け取って、両足をステップの外に出したときだった。

「ストップ! 足付けないで、ちょっと傘持ってて」

 もう一方の手に、先生がさしている方の傘も渡された。先生はそのまましゃがみ込むと、ステップの外に出して、宙に浮いたままの私の左足に、手を伸ばす。


「え? な、あっ……」

 左足のスニーカーの紐がけて垂れ下がっているのを、結び直そうとしている。

「ちょっと我慢して? このまま外に出ると、紐が泥水どろみず吸っちゃう」

 駐車場は舗装ほそうがされておらず、足元は雨のせいでかなりぬかるんでいた。


「ちょっとって、どれ……くらいですか?」

 空中で止められた両足は、本人の意思に反して下がろうとする。その度に腹筋に力を入れる必要がある。

「一瞬でできると思ったんだけど……何か、足が動くから結びにくいな」


「この体勢ですよ。無茶、言わ、ないで……」

 両手に傘をもち、リュックを膝上に乗せて、身体からだひねったまま両足を宙に浮かせている。中々にハードな体勢だ。

「わかった。じゃあ、右足を地面につけて、で左足を上に組んで……、そうそう」

「楽ですけど……。偉そうな感じに……」


 身体を捻って足を組んだ私の足元に、先生がひざまずいている。その上、男の人に靴紐を直してもらうなんて、初めてで緊張する。いや、まだ小学校に入る前に、父にしてもらったことがあったなと思い出す。


 ふっと我に返り、目の前を見ると、預けられた傘が上手く先生に被っていなくて、先生の腰の辺りが雨で濡れていた。もう少し傘を差しかけるため、上半身を寄せる。


「ん、もう良いよ」

 私を見上げて相好そうごうを崩す。こんなに近くで、真直ぐに顔を見るのも初めてで息がまる。今日が終われば、この息苦しさは消えるのだろうか。

「先生が、変なとこで止めるから……苦しかった」

「……ごめん、ごめん。傘、ありがと」

 先生はまたすぐに横を向いて、私の手からそっと傘を取り上げて、立ち上がった。

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