1-3◆渡会 楓の秘密

 学校の裏門にある駐車場は、いつも人影がない。南校舎が新設されてから、ほとんど使われなくなった北校舎の裏側にあるため、滅多めったなことでは、生徒を見かけることはない。


 北側にあるせいか駐車場の砂利じゃりは、朝降った雨のあとが、まだ所々ところどころ乾いていない。今日が最後だろうと思うと、やはり息を吸っても吸っても足りないような心持ちだ。


 先生のグレーメタリックのSUVにもたれかかり、深呼吸をした。湿った嫌な匂いがする。子供の頃、雨上がりの朝に玄関を開けた時の記憶がよみがえる。水っぽい酸っぱいような、躑躅つつじにおいだ。匂いの方に顔を向けると、雨に打たれて色のせた桃色の花が、地面に沢山散らばっている。


 駐車場の車止めと、ブロック塀の間には花壇があり、躑躅が延々と植わっていた。昔、家の庭にも躑躅があった。母と父が病院にいるから一緒に行こうと、連絡があって、私のことを祥子さんが迎えに来た。あの朝もこの匂いがした。


度会わたらい、先に乗って待ってて」

 声の方を向くと、いつの間にか現れた先生が、スマホを手に持って、車に近づきながら、電子キーを押していた。車から解錠の音が鳴る。そのままスマホで話しながら、こちらへ近づいてくる。私は助手席のドアを開けて、シートに腰を下ろした。


 通院初回のときに、私に合わせたシート位置が、変えられていない事に安心する。先生はドアに手をかけたまま、車の外で会話をつづけている。車の中は、雨の匂いと無縁だ。シートの布の匂いと、かすかなミントの香り。


「ごめん、すぐ出発するから」

 電話を終えた先生が乗り込んで、車が動き出す。

「足、悪化するようなことしてない? 何か……また怪我けがしそうになったとか……?」

 先生はいつも、運転中は前を見たまま話しかける。表情が読みづらいけど、横顔を見つめていてもあまり気づかれない。


「いえ? 実は朝、少し走ってみたんですけど。痛みはないし、今日OKもらったら、明日から練習出ようと思ってます……」

「そっか、良かったよ。しかし、度会って走るの好きなんだな。俺なら医者からOKもらうまでは、絶対に自主練は休んでるよ……」

「朝、走るのが習慣になってるので、走らないと調子がでないというか……。あの……先生って、学生のころ部活とか、やってたんですか?」


 地区予選が六月末から始まるので、早く調子を戻したい、というのが本音だが、それを言うと先生に気をつかわせてしまいそうで、言えない。

「うん……実は、バスケ部だった。科学部とか、将棋クラブとか思ってただろ? どっちも顧問こもんやってるしな」


 少し右に体を傾けて、先生の横顔を盗み見る。

「そうですね……意外です。あの画像見て、色の恒常性がー、とか蘊蓄うんちく言う人が……」

 先生は一瞬こちらを見るが、すぐに左下に目線を落として、笑い声を上げる。先生は笑う前に、左右のどちらかに目線を落とすくせがある。この三週間で分かったことの一つだ。


「空気読めなくて悪かった。けど、空気は吸うもんだろ? 読むってどうもなぁ……」

「なんですかそれ、持論じろんですか?」

 笑いをこらえ切れず、肩を揺らしてしまう。


「そうだよ。空気読んで遠慮えんりょしてたら、損することばっかだぞ」

 信号が赤に変わって、車が止まる。先生は左手の中指で、小さく三三七拍子を始める。これも先生の変な癖。


「私は、先生みたいに強くないから、やっぱり空気は読んじゃいます。」

 俺は強いんじゃなくて、鈍感だって言われるよと、先生が呟く。その間も中指のリズムが全く崩れないので、それも可笑しくて、また笑ってしまう。


 父が事故を起こした時、時間帯が遅かったことと、母の遺体いたいからアルコールが検出されたため、一部で飲酒運転の報道がされた。目撃者もいなかったことから、父の証言は信憑性しんぴょうせいに欠ける、嘘ではないかという記事も出た。


 当初、クラスメイトの多くは、歩行者の自殺行為に巻き込まれ、母を亡くした私に最大限の優しさで接してくれていた。変に気遣きづかわれるのが嫌で、私もわざと明るく振舞っていた。


 事故後、父は家に戻ることはなく、親類がかわるがわる家に来て、私の世話をした。祥子さんが、一番良く家に来てくれた。父の裁判と、中学への進学が重なった。私の生活の変化は、あまりに大きく、正確には全てを把握できていなかった。


 起きたことを理解しようとするよりも、自分はこれまでと変わらないとかたくなに信じることでしか、自分の心のバランスを保つことはできなかった。学校で、以前と変わらない自分に徹する間は、感情を上手くコントロールして過ごせた。


 しかし、飲酒運転の報道から、クラスメイトの空気が変わった。母を亡くしても、明るく振舞う私は健気ではなく、犯罪者の娘として、あるまじき態度と映った。


 更に、父がいた人は、結婚を間近に控えた、若くて綺麗きれいな女の人だったと、小さな記事が出た。そして、自殺をほのめかすものは何も出なかったと、そこには書かれていた。


 SNSを通じて、そのことが学校であっという間に広まった。しばらくすると、私は皆と一緒に楽しんではいけない、という空気が出来上がっていた。


 事故じゃなくて殺人。父親は嘘をついて、罪を逃れようとしてる。事故の後も、娘は大声で笑ってた、新しい服買って、はしゃいでた。死んだ人に申し訳なくないのか。調子乗った書き込みしてる、父親がしたことを恥ずかしいと思わないのか。母親が死んだのは自業自得じごうじとく


 周りが好き勝手に、言ったり書き込んだりする。見えない無数の正義の目が、常に見ていた。私はいつも周りの空気に敏感でなくてはならなかった。


 もう一つ、状況を悪くさせるものがあった。私の瞳の色だ。私の瞳の虹彩こうさいは、普通よりも色が薄い。母方の遺伝なのだが、うぐいす色がかった茶色をしている。そのため、まるでカラコンを入れているように見えるらしい。中学では他の小学校から来て、その事を知らない子達も沢山いた。


 校則を守らずカラコンを入れているのに、家庭の事情がかわいそうだから特別扱いされていると、女子から冷ややかな仕打ちを受けた。正義は次第にエスカレートし、名分めいぶんとなり、無数の悪意をはらみ、私は耐えられなくなった。学校を休む日が増えた。中三になる頃には、ほとんど学校へ行けなくなった。高校には、過去の私を知る人は一人もいない。


「そうだ、今日診察してる間ちょっと用事済ませるから、終わったら電話して」

 診察は三〇分もかからないので、先生はいつも待合室で待っている。私も帰りに用事があることを思い出す。


「あ、今日は帰りに寄るところがあるので、一人で帰ります」

「何だ? 遠慮するな、帰り乗せてくよ」

「いえ、通院とは関係ない用事で、方向も逆ですから……」


 母の仏前にそなえるものを買いに行くとは、先生には絶対に言えない。

「まさか、先生にばれるとヤバイとこに、寄るんじゃないだろうな……?」

「違いますよ!」

「じゃあ終ったら必ず電話して、支払いもあるし」

 大丈夫だ、上手く嘘を吐けばいい。私は先生の言葉にうなずいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る