1-2◆渡会 楓の秘密

 事故にったのは、部活を始めたことが関係していた。

 祥子しょうこさんは一緒に暮らす条件として、私が通っていた中学の、学区外にある高校への進学を提案した。今通っている高校には、中学からの知り合いは一人もいない。


 入学してしばらくすると、今度は、何か運動部に入ることを提案してきた。あまり個人で道具をそろえなくて良い運動部をいくつか見て回り、陸上部の中距離を選んだ。


 見学に行った時は、ちょうど一五〇〇と三〇〇〇の記録会をやっているところだった。短距離は単純に、足の速さである程度の限界があるが、中距離は序盤・中盤・終盤、三段階の戦略も勝負では重要だと、案内してくれた先輩が言っていた。終盤のスパートで一気に抜き去る様子に、目を奪われた。


 実際に走ると無心になれる事も大きかった。呼吸とペースの配分を、絶えず気にし続ける。余計なことを考えない。走ることは、私のしょうに合っていた様で、入部から二か月もすると、朝のランニングが習慣になった。


 自宅から総合公園までの往復コース、約二〇分だ。公園まで住宅街をぐるりと迂回うかいするコースで走り、大通りに合流する細い道路を横断して公園内に入り、コースを全力で走って、来た道を再び戻る。このランニング中に自動車と接触事故を起こした。


 公園に入る時に渡る細い道路には、横断歩道があった。しかし、この横断歩道は押しボタン式のため、歩行者は常に赤信号になっている。押して必ず待つ必要がある。私はこの時間帯この細い道路には、ほとんど車が入ってこないことを、ランニングをはじめてから数カ月で学習した。なるべくなら、足を止めたくない。


 そこで、横断歩道の手前で斜めに道路を横断し、公園に入ることを頻繁ひんぱんに行っていた。この一年、一度も危ないことは起きなかった。五月の連休明け、いつものように斜めに横断しようと、道路に踏み出した。


 そこに突然、ブレーキ音とともに車が現れた。私は咄嗟とっさに体をひねったが、その急転換に耐えられず、バランスを欠いて肩口を車にぶつけ、軸足をひねって転んでしまった。


 車に肩が触れるまでは、全てがスローモーションになった。肩が車に当たった瞬間、時間が加速して進み、あらがえない力で地面に引き込まれた。歩道側に倒れこみ、すぐに立ち上がろうとしたが、足首が痛くて力が入らない。


 心臓が、これまでにないほどに、どくどく言っているのが分かる。ぶつかった車から男の人が降りてきて、青い顔で話しかけてきた。痛いとか、大丈夫とか、単純な返答しかできない。


 男の人の顔を見上げた時、どこかで見たような気がしたが、思い出せない。そのまま病院に連れていかれた。一通りの処置が終わって、見たことがあるはずだと気付いた。自分が通っている高校の、物理教師だった。


 まさか自分が事故にうとは。病院に駆け付けた祥子さんには、斜め横断を涙ながらに怒られた。事故は私の不注意もあったことと、中田先生が完治まで通院の面倒をみることで、示談じだんとなったが、お互いの立場と通院の事もあり、学校へも一部始終を報告した。右足首の捻挫ねんざ以外はかすり傷程度で、三週間、順調に回復していった。今週の検査で問題なければ、先生の義務は終わる。


「そんなこと言って……中田ってまぁ、理屈っぽいけど、割と人気あるんだよ。背も高いし、顔良いし? 二人でドライブ、楽しいでしょ?」

 菜月なつきが意味あり気に、体をり寄せて茶化ちゃかすので、耳が熱くなる。実のところ、今日が最後かもしれないと考える度、息苦しいような気持ちがする。


「ね、どんな感じなの? 何話してるの? もうそろそろ教えてよ」

「別に、普通に優しいし……、お勧めの参考書のこととかだよ」

「普通に優しいかー、……参考書ってさ、あたしら物理取ってないじゃん」

「す、数学のだよ……」

 菜月の眼が笑いをこらえているのが分かる。


かえで、あたしは、協力するよ」

「えっ? 違うよ……、協力とか、そんなのないよ……」

 自分でも間抜けな返事だと思う。菜月に先生のことで、あれこれ言われる度に、動悸どうきが激しくなって、ろくな事が言えない。


 自分の抱えている感情を、知られるのが怖いと思っている。それに菜月の言うような気持ちは、もっと同年代の誰かに抱くべきものだと……。

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