第2話悪霊退治にいざ参る
いや、天下の源様の御使者を、外でお待たせするなんて失礼をしてはなおさらいけない。
「と、とにかく、にゃまと、こちらにお通しして」
「はいにゃ」
よすがのそばで、ちんまりと座りおとなしく話をきいていたにゃまとだが、自分の出番だとばかりに喜んで立ち上がり、とことこと、軽やかに歩いて部屋からでていった。
よすがは、慌てて上座の席を降りて、粗末な座布団を取り除き、そこに家の中で一番良い座布団を差し替えた。そして、ふすまを開けそこにひれ伏して御使者を待った。
ふわっと、いい香りのする風が流れてくる。その爽やかな香りに心を囚われている間も無く、りっぱな衣装に見を包んだ、貴公子が衣擦れの音と共に部屋の中に入ってきた。
彼はゆっくり歩んで、上座に座るのは常なのだろう。何も戸惑う様子もなく、真っ直ぐ進んでよすががゆずった奥の上座にすわった。
たとえ、頼朝様の御使者とはいえ、こんな良い香りをさせているような殿方は、よほど身分のある方に違いない。
よすがは、この香りの主が、一体どんな人物なのかチラリと顔を上げて除き見た。慌てて目を伏せる。いい香りのするかの人は、何と、都中の人々が知るであろう、今をときめく憧れの的、頼朝様の弟君九条様だった。
何かの間違いではないかと目を疑ったが、貴族の宴に呼ばれ、舞を舞うことのあるよすがは、時折、そのまぶしいほどの顔を拝見した事がある。
一ノ谷の戦いや、壇ノ浦の戦いでの、功績は、立派な武将としてのすばらしさを皆が口々に褒め称えている。都で今一番の有名人である。こんな処でお目にかかれるような方ではないはず。
しかし、夢ではない。
それに、なんて柔らかな、甘い香りなんだろう。満開に咲く桜より、いい香りがする。そして、それにも
いっほう、九条は、兄の頼朝様の使者から話を聞いた時は、内心小躍りして喜びたいのを、必死にかみ殺して、気難しい顔を作るのに苦労した。
なぜかというと、神社の奉納舞で始めて美しい舞姫を見てからというもの、すっかりその姿に魅入られてしまった。
桜吹雪のなかで、桜の花びらと一緒に散ってしまいそうな、はかなくも美しい彼の舞姫をもっと見たい気持ちが抑えられなくて、神社の神主を問い詰めたところ、今都で一番人気が高い白拍子で、よすがだと知った。
そんなおりに、よすがの家を訪ねろといわれたのだから、こんな嬉しい事はない。都で評判の白拍子。名も、よすが。あの時の舞姫と同じ名ではないか。
立派な口実で、堂々とあの時の舞姫のもとに行けるのだ。どうしてくれよう! 嬉しくて仕方がない。
だが、まてまて、都には多くの白拍子がいる。期待しすぎて、まったくの別人だった時にはどうする。似ても似つかぬ岩の様なか
そうしたら、落胆して大事な事を見落としてしまいそうだ。過信しすぎてはいけない。そう、自分を戒めながらも、落着かない気持ちをおさえられない。期待は高まるばかりだ。
兄の使者の話を気もそぞろに聞いていそいそと出かけてきたものの、遠目に見ただけで、近くで見ても、本人かどうか分らない。
幸い、岩の様な女子でなかったのはよかったが、本人は白拍子の化粧もしていなければ、普通の女子のような着物を着ている。いやだが、色白の面に愛くるしい顔立ちで、本人かといえば、そうかもしれない? そう思っただけでドキドキしてきた。いや、落ち着け…とりあえず話しを聞いてみよう。
よすがは、神の使いから聞いた話しを、一通り九条様に説明すると、既に、色々把握している様子の九条様で、話は簡単に進んだ。
頼朝様から、褒賞として賜った九条一体の土地の中にあった屋敷だが、最近その辺りで不可思議な事件があり、九条様も、頭を悩ませていたそうだ。早速そのお屋敷に出向いていく事になった。
九条の屋敷は、よすがの家からそう遠くないので、九条様は、乗っていらした立派な馬にまたがり先に行き、よすがは後から歩いていく事にした。
何時ものように式神のにゃまとを連れ、白拍子の衣装に身を包んで、白夜と沙夜梨に案内されて行ってみれば、確かに其処には霊気が漂い。邪悪な雰囲気が重くのしかかっていた。
おりしも、
その上、屋敷に付いたとたん、白夜と沙夜梨の姿が消えていた。やっとの事で逃げてきたのだから、この屋敷に近づくのは怖いのだろう。よすがは、あきらめてにゃまとに声をかける。
「にゃまと、行くわよ」
「はいにゃ! 」
にゃまとは何時ものように、まったく動じていないようだ。にゃまとの落着いた様子に何時も助けられる。
どんな困難な時も、にゃまとは、決してよすがの側を離れない。かならず側にいてくれる、心強い相棒だ。
九条様は、既に屋敷の門を開いて中に入り、よすがを招き入れてくれた。
りっぱな御門の在る大きなお屋敷だった。社を祭っているようなお屋敷なのだから、民家とは違う。だが、
寂れた庭の
よすがが、鳥居に気を取られて見上げていると、九条様が、よすがの後ろに近づいてきた。
その瞬間ゾクリと背筋をつめたいものが走った。いきなり首筋を掴まれる。九条様のお手は、氷のように冷たかった。がしりとよすがの首を掴み締め付ける。
「九条様、…何を…なさいますか、…御放しください…」
「都一の白拍子の血肉、さぞや美味であろう」
よすがの家で見た九条様と様子が違う! 黒い影をまとい、冷酷に微笑む彼の面は、いっそうに美しく、よすがを惑わせる。強く締め付けられて、意識が遠のきそうなのに、目が離せない。このまま死んでしまっても良いかもしれない…。そんな考えが頭をよぎるほどに美しかった。
「よすが、死んではダメにゃ! 」
にゃまとが、必死によすがにしがみ付いた。
にゃまとの言葉に我に返る。これは、九条様ではない!
屋敷の中に沢山の異形の者達が集まってきている。夕刻を過ぎ悪霊たちはのっそりと、地面から湧き上がるように起きだしてくる。今にも襲い掛かってきそうだ。ああ、護符をおいてこなければよかった。こんな者達に貪り食われる様を見ずに死ねたのに。
目の前を黒いモノが横切った。ああ、ついに食われると、目をぎゅっと閉じた瞬間、よすがを締め付けていた九条様の手が離れた。
なんと、猫の姿になったにゃまとが、恐れ多くも、九条様のお手に噛み付いていた。
九条様の、白魚のように美しいお手から、真っ赤な鮮血が流れ出ている。
よすがが、逃れたのと同時ににゃまとも、スタっと着地する。さすがは猫、軽やかなものだ。だが、確実に九条様の怒りをかってしまったのは確かだった。
九条様は、すらりと腰の刀を抜いて、にゃまとに切りつけようとする。
よすがは、あわててにゃまとを抱きかかえて逃げた。
いくら、よすがが、刀をもっていようと、戦の天才といわれる、九条様に
逃げるといっても、九条様ときたら、動きも軽やかで、おみ足も早い事この上ないお方で、まるでもてあそぶかのように、よすがの逃げる先に回り込んでは待ち受け、余裕の黒い笑みで殺気を
白拍子の舞で鍛えたよすがでも、その刀を何度かかろうじて交わすことができただけだ。それも、おそらく獲物をもて遊んで楽しんでいるからだろう。彼の気まぐれが終わり、あるいはこの遊びに飽きたらあっという間に殺されてしまうに違いない。
どう逃れたらいいのか策を考える余裕もない必死に逃げるので精いっぱいだった。
息も切れ足元がふらついて、木の根に足を取られて転んでしまった。もう、一巻の終わりと思ったとき、お堂が目に入った、お社様のお堂。よすがは、にゃまとを放す、
「にゃまと、あの中に逃げて、早く! 」
にゃまとが、お堂に向かって走ると、扉が開かれたと同時に、光が解放される。その光に九条様が一瞬ひるんだ。その隙によすがも中に逃げ込んだ。同時に扉が閉じられた。
六畳ほどあると思われるお堂の中には誰もいなかった。何もない、がらんとしたお堂の中の正面に祭壇があり、その扉は閉められている。ただ静かな
お堂の中は左右の壁にある明り取りの窓から光が差し込んで、さほど暗くはなかった。
祭壇の向いが入口の戸になっていて、さっき開かれ
たのはこの戸だったが、今は閉じられている。
よすがが逃げ込んで一刻もしないうちにドンと、全体を揺らすほどの大きな音が響いた。
にゃまとが
よすがを追いかけてきた九条様は直ぐに追いついて、扉を壊さんとばかりに叩く、叩くたびに
此処がお社様の本殿なら、此処だけは死守しなければならないはずだ。それなのに、悪霊を招きいれかねない危険を冒して、扉を開き私達を助けてくれたのだろう。何とかしなければ。
期待にこたえるべく、よすがは、扇を取り出し、ばっと一気に開く。一歩踏み出し声を張り、歌う。春の訪れを祝う奉納の舞。
春の芽生えここにあり
花は芽吹き、生を受けし者
鈴の音が響くようなきれいな声がお堂の中に響き渡る。一瞬にして、あたりは春の陽だまりにあふれた穏やかな空気が漂いはじめた。
よすがは扇を翻し、袖を翻し、一振り一振り心を込めて、舞を舞う。どうか届きますように…。
よすがが、都一の白拍子といわれる
扇を高く投げ上げる。扇は、飛び立つ鳥。白拍子は、翼を広げた白鷺のように風を巻き起こして袖を翻す。そして滑るように歩み寄り扇を受け止める。その美しさ、巧みさは、見事としか言いようがない。
しかし、よすがの必死の舞も虚しく、バンと、大きな音と共に、九条様は、ついにお堂の扉をこじ開けてしまった。
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