夏の思い出(夜)

@amatsuru

第1話

初めて両親のセックスを見てしまったのは、確か小学3年生の時だった。夏の夜、エアコンのついた部屋で両親と妹と寝ていた。夜中になって、何か声が聞こえると思い目が覚めた。目を開けると、ベッドの下に敷いた布団で両親が何かをしているのが見えた。何か粘ついた音と、今まで聞いたことがない両親の声。ぼんやりとした視界でそれを眺めた。少しずつ覚醒していく意識の中、自分が今見ているのは、両親が今まで自分に見せてこなかった自分の知らない部分で、今自分が起きて、それを見ている事を二人に知られては絶対にダメだと直感した。夏の夜、ベッドの上で自分は、両親たちのいるベッドの下に敷いた布団を向いた状態で目覚めてしまった。なんて運が悪いんだ。起きている事を勘付かれないように、ゆっくりと周りの状況を確認した。ありえない何かを、今自分は夢の中にいると証拠つけることのできる何かを探した。まだ、自分の目の前にある状況が現実であると思えなかったから。そう思いたくなかったから。その一方で、色々諦めている自分がすでに私の主導権を握っていたりもして。瞳がどこかからの小さな光を反射してしまうことも怖かったので、できるだけ薄目にして、眼球を左右に動かした。いつもの寝室、今まで自分が8年間、安心して眠りについてきた空間。そこに今、自分が理解できない状況があった。とても耳障りな音が聞こえる。私の感情を暴力的に揺さぶる音が聞こえる。これまで自分が信頼しきっていた両親を他人だと、知らない側面を持った他人なんだと私に教える音。その音はあまりにも不快で、聞こえてくる両親の声もとても近いのに、恐かったり、寂しかったり、悲しいかったりの感情が押し寄せて、その内容を頭が理解すること、考えることができない。その音の中でさまざまな感情に苦しめられながら、不図、隣で寝ているはずの妹の存在を思い出した。耳に神経を集中させ、できるだけ両親よりも自分に近い、静かな音を聞き取ろうとした。すると、なんで今まで聞こえてなかったんだろう。呆れてしまうほど大きないびきが自分の後ろで鳴っていた。低く一定なリズム、と思いきやたまに挟まれる謎の間。完全にお父さん譲りのいびきスタイル。よかった。でも、、なんだこいつ。とても安心して、その後ちょっとむかついた。妹は寝相が悪いから、最初同じ向きで寝ていたはずなのに、完全に頭と足の位置が逆になっていて、今は自分の頭の後ろに妹の脚があるようだった。妹の安否を確認したこと、それに伴い色々と神経を使ったことで、私はもう完全に覚醒してしまった。とにかくだ。とにかく今はまず、自分の体の向きを妹の寝ている方向に向けたい。この向きは危険すぎる。両親に背を向けて、妹の、父親譲りの骨太でしっかりとした脚を見つめながら、今の状況について冷静に考えたい。後半は多分無理だけど。その後数分間、いろいろな音が響く寝室で、私はじっと耐え続けた。そしてなんとか、妹のいびきが盛り上がったタイミングで寝返りを打ち、両親に背を向けることに成功した。よし、やった。これでとりあえず大丈夫だ。「晴香が寝返り打つなんて珍しいね。」「え、ほんとに?」心臓が爆発するかと思った。私の知らない両親が、今私を意識している。恐い。体が震えそうになるのを、なんとか理性で抑え込み、限界まで見開いた目で妹の足のほくろを数えた。両親の声は、いつも聞いている声なのに、なぜか知らない他人の声のように感じる。それくらい、今私は両親に対して恐怖し、そして警戒しているのだと思った。「もしかして起きてたりして。」「いや、寝てるよ。寝てる、寝てる。」………いや、起きてるよ!!!起きてるよ、クソやろうどもが!!こっちの気も知らないで、意味わかんないことして。挙句の果てに、もし起きてたら、めちゃくちゃびっくりするし、どうしようって思うような事を言うなんて。起きてる事を想定していったのかそれは、もし起きてたらどうするつもりの発言なんだそれは。いやだから私起きてるんだけど!!!その時、妹が急に寝返りを打ち、私の顔面を強烈な踵落としが襲った。当然痛みも襲った。ただそれ以上に焦りが、どういうリアクションを取ればいいのかわからない、そんな焦りが私の脳内で溢れていた。どうしよう。どうしよう。寝てる人間が顔面にカカト落としを喰らった時の一番自然な反応ってどんななの。本来怒りや痛みに身を任せたい状況で、こんなことを考えるタイミングがやって来るとは。そして両親に背を向けてしまったことで、このことに対してリアクションを取ることが必要なのか、不要なのかを判断することが極めて難しいことも問題だった。見られたの。見られてないの。気にしてるの。してないの。どっちなの。あー、て言うか妹、お前はいつまで人の顔に踵をめり込ませてれば気が済むんだ。痛い。臭い。ムカつく!うるさい!!もうみんな出てけよ!ここは私の安心できる領域だったはず。ほんの数分前までは、眠りに着くまでは。意味のわからない行為とその発生音によって起こされて、なんでこっちが気を遣って、こんな痛みに耐えながら、挙句その痛みに対する反応にすらも気を遣わされてるの。意味わかんない。私の聖域を汚さないでよ。私の安心を返してよ。焦りと怒りに震えていたら、背後で二人が部屋から出ていくのを感じた。どうやら、二人は私の寝返りには気づいたけど、妹の寝返りには気づかなかった、もしくは当たり前のことすぎて、気にも留めることはなかったらしい。結果私のリアクションは不要。焦りも気遣いも要らなかったようだ。十分に時間を置いてから、慎重に、もしそこに実は二人がいて、気を抜いた私が起きていたことを露呈する瞬間を、私の背後でずっと見つめて待っていたとしても、絶対にバレてたまるかって、寝返りにしか見えないようにしてやるって、それくらいの意地を持って体の向きを変えた。そこから、今自分の前方に、人間の体温や気配、呼吸音などが存在しないことを入念に耳や鼻や肌で調べ尽くし、最後にようやく目を開けた。とりあえず私は賭けに勝った。二人はちゃんといなかった。安心なのかなんなのか、気づいたら視界が滲んでいた。鼻がひくつき、唇の端が細かく痙攣するのを止められない。もうすっかり暗さに慣れた目で、ベッドの脇にある壁掛けの鏡を見ると、私史上最も惨めで情けない私が映っていた。下の階からうっすらとテレビの音が聞こえてきた。二人は私の知らない、私は絶対に仲間に入れない、そんな部分を共有しているんだと思うととても寂しくなった。私は二人に対して今まで、なんでも知っていて、全てを見せてくれている、そんな全幅の安心と信頼があった。でも、違った。さっきまでのほんの数分のやりとりと、自分に向けられた言葉の声質やその響きが教えてくれた。その時の二人にとって、私はただそこにいる何も知らない小さな子供ってだけで、価値基準や優先順位はどちらからも2番目以降、蚊帳の外の存在なんだって。あれが私の知らなかった、大人の男と女、オスとメス、恋人であり夫婦、呼び方なんてなんでもいいけど、とにかく私の知らない二人なのか。これまでも、私は安心して寝ている間、何度もこうやって仲間はずれになっていたのか。涙と鼻水と震えが止まらない。感情の洪水。溺れてパニックに落ちそうだ。まずい、叫びそう。助けて。ごつっ。パニックに落ちかけた私の頭に、再度寝返りを打ったのだろう、妹の踵が当たった。痛いむかつく、そしてやっぱりちょっと臭う。でもありがと。妹の足を頭からどかして、少し握りしめた。本当に骨が太くて逞しい足だなあ。妹はコンプレックスみたいだけど。謎の間を終えて鳴り出したいびきが、さっきまでは全く耳に入ってこなかったエアコンの音と混ざっていい感じだ。まだ心臓はバクバク言ってるし、まだまだ涙も止まりそうにない。でも、今のこの空間は私が知っている空間に限りなく近い。大丈夫、私は整理できる。今すぐには無理でも、今自分を揺らしている、これまでで一番強い悲しいや恐い、そしてまだ呼び方もわからない感情も、いつかきっと整理できる。だからおやすみ。妹とエアコンの音に混ざるように、私はゆっくりと、でも少しだけ大げさに寝息を吐き始めた。

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