2-2 異変の始まり
「綾瀬奈先輩……?」
彩花は恐る恐る口に出した。死亡説も部屋内で流れていた綾瀬奈が目の前にいる。そして幹美も帰ってくる予定だという。
本来なら怒りがこみあげてくるはずなのに、自然の涙が出てきた。嬉しいのか悲しいのか、自分でもよくわからなかったが、泣き出してしまった。
「え、彩花!?」
綾瀬奈はいきなり後輩が涙を流し始めたことに動揺してしまう。
「いや、なんか急に涙が出て来たもんで……」何とか取り繕うと目をこすった。「と言うか何してたんですか?」
「いやちょっと……その辺の説明は込み入ってるから、ちゃんと落ち着いた場所で説明したいんだけど」
そんなとき、リビングの方から秋穂がやってくる。
「綾瀬奈じゃねえか! 今まで何やってたんだよ! というかタイミング悪いな」
秋穂は綾瀬奈に近づいて、肩を軽く殴った。綾瀬奈はさぞ申し訳なさそうに笑いながら、片手を上げて頭を下げる。
「本当にごめんって。ちゃんと説明するから」
「本当だろうな?」
「もちろん」
秋穂は疑わしそうに睨んでいたが、納得はしたようだ。「はぁ……、とりあえず幹美を待とう。いろいろ積もる話はそこでってことでいいだろ」
秋穂の言葉に二人そろってうなずく。
「あの~、お取込み中のようだしやっぱり出直したほうがいい感じ?」
すっかり忘れていた叔母がリビングから顔を出してくる。
「だ、だめですよ! 今来たばっかりで帰らせるなんてできませんよ!」
彩花は慌てて引き留める。
彼女を帰らせるわけにはいかない。せめてここにいてはいけない理由ぐらいは今日聞き出したい。だが彩花は自分が冷静でないことも理解している。このままこの人と二人で話してもうまく行く気がしない。叔母は空気を読むのはうまいが察しが悪いのだ。ここは誰か一人味方が必要だ。
「えっ、彩花ちゃんの叔母さんなの? 若いー。28ぐらいにしか見えませんよ」
「28歳だよ」
「あっ、はい」
紗奈を叔母だと紹介すると大抵の人がする定番のやり取りを綾瀬奈がやっていた。
それはそうとして、考えなければ。何か現状を打開する方法を。このまま帰ると言い出しても困るが、この場で幹美と叔母を対面させるのはまずい……のか?
この状況を好転させる手段はないか――そんなものはない。すべきことは母に先回りをして、部屋を出たくないと懇願することだろうか。
叔母より母の説得が容易とは思えなかったが、しかしいまの紗奈はかたくななのに加えてオカルトじみたことを言っている。そこを持ち出せば、母もいぶかしみ、彩花のほうを信じるのではないかと思った。
よし、その方向で行こうと決心をし、早ければ早いほどいいと、二人に叔母に対して時間稼ぎをしてもらい、自分は母に連絡を取ることを考える。『あー叔母さんがなんか変なこと言ってるんだけど、怖くてー、いやおかしいって、私のほうが正しいって』デモンストレーションを頭の中で繰り返した。
――と、そこで誰かが倒れる音がした。
見ると、玄関先に人が腰を抜かしてる。というか、仙谷幹美だった。指をこちらにさして目を見開いていた。
「あ、あ、綾瀬奈? な、なんで。ゆ、ゆうれ、はっ!? いや、なに、埋め……きょ、今日までの苦労は? どゆこと? いや、何?」
視線の先を辿ると綾瀬奈がいた。指をさされた当人は、ぽかんとしている。
幹美は彼女に怯えているようにも見えた。
どうしたというのだろうか。彩花は左右を見ながら戸惑う。綾瀬奈の無事が知れたのなら確かに驚くかもしれないが、剣幕が尋常ではなかった。というか、連絡を取り合っている推測はやはり外れだったということになる。
秋穂が幹美に近づこうとしている。連絡は一応よこしていたので、綾瀬奈の時ほど怒っていないようだ。
「おい幹美、大丈夫か?」
秋穂は幹美の手を引いて起こそうとする。しかし幹美はそれを振り払った。彩花は呆気に取られる。幹美らしくない反応だ。
「幹美……?」
「う、ううん、なんでもない……ごめん……ちょっと出てくる」
「は!? ちょっと待てよ! 数日失踪しといて、返ってきたと思ったらまた出てくるとかどういうことだよ」
「ごめん、本当にごめん」
「私が言うのもなんだけど」と綾瀬奈が割って入る。「今からさらにどっかに行くのはまずいんじゃないかなあ。というか幹美も失踪してたんだ。仲間だね」
「あんたは黙ってて!」
大声が部屋の中に――玄関が開いているので、マンション中に広がった気がした。一同が一斉に黙り、幹美に視線が集中した。彼女は我に返り、目を泳がせて顔を真っ赤にしてしまう。
「……本当に……ごめ……ん。でも、今は……そっとしておいて……」
「ちょっと……」
幹美は秋穂と綾瀬奈を押し退けるように外へ飛び出していった。追いかけようとする秋穂に彩花は「先輩!」と呼びかける。
秋穂は舌打ちをしてから走って幹美を追っていく。秋穂の足は速いので追いつけるだろう。
何かもう、いろいろありすぎて疲れてきた。
綾瀬奈を見ると、現状を理解していない顔をしているが、半分他人事の雰囲気もある。
紗奈は壁にもたれかかっていて腕を組んでいた。「終わった?」とでも言いたげな表情でこちらを見ていた。
「えーっと、つまりどういうこと?」
秋穂がいなくなって、少し落ち着きを取り戻したのか、綾瀬奈が聞いてくる。彩花はため息をつくだけで説明はしなかった。どちらかと言うとこちらが聞きたかった。
「まぁ、とりあえずリビングに戻りましょう」
「え? う、うん。彩花がそういうなら……じゃあとりあえず靴を脱いでいいかな」
彩花はうなずき、三人でリビングに戻っていった。
リビングに戻ると紗奈が真っ先に座る。
「結局の所さ、ある意味これでよかったんじゃないの?」
彩花は続きながらも、一方的な物言いにムッとする。
「どういうことです?」
「だからさ、これで部屋を出る理由が出来たじゃん。姉さんには『失踪者が二人出てた』って報告しておくから」
「『よかった』って言うのは自分にとって都合がよかったってことですか? 結局オカルトが先行して、後から理由を付けたってことでしょう」
「うーん、まあ確かに実際そうなんだけど。本当のこと言うと、今すぐ彩花を抱えてこの部屋から出ていきたいぐらいなんだけど……」
紗奈はそこで言葉を止めて考え込んだ。綾瀬奈は困った顔をしながら、「あの~話がよく見えないんだけど……、どういうことなのか説明してくれないかしら?」と切り出す。
すると紗奈は、彩花のほうを向いて微笑む。嫌味にしか見えなかった。
紗奈は口を開く。
「じゃあオカルト抜きの話をするね。私も結構若いころ……といっても数年前だけど、アングラとかアーナキーよりのコミュニティで生活して、今にいるって感じだけど、ただやっぱり心地よいから、ずっとここにいたくなって、やっぱり抜け出せなくなってね。知ってると思うけど、別に一芸に特化してるわけじゃないから、特に仕事に生かせてないし。何回か普通に就職しようと思ってもすぐに辞めちゃうし、結婚するつもりもないから十年後どうなってるかどうかわからない。多分そんな私に似た人が寄り添ってるってのが今日見ただけでわかった。つまり、『私のようになるな』って定番の話だね」
綾瀬奈は図星なのかバツが悪そうな顔をした。彼女は小説家としてデビューはしているが、それだけで食べているわけではない。最近はスランプなようだし、思い当たることもあるのだろうか。
そして彩花は紗奈が言っていることをなんとなく理解する。
彼女はよく親戚の集まりで浮いている。それでも堂々としていたので、自分なりの生き方をしているのだと子供のころは思っていたが、彩花自身が歳をとるにつれ、そうではないと思うようになってきた。紗奈なりに家族の立ち位置と言うのものに葛藤を抱えて生きており、それ故に居場所がなかったのかもしれない。良く言えばの話だが。
秋穂や幹美がここにいればなんて言うのだろうか。幹美は、いつも自分のことで精いっぱいだと言って、そこまで相談には乗ってくれなかった。だからここにいても黙っているだけかもしれない。秋穂なら言い返してくれただろう。しかし今いないのは事実だ。帰ってくるまで待って言い負かしてもらおうなんて、それではいつまでも変わらない。
「別に叔母さんのマネしてるわけじゃないですよ。自意識過剰も甚だしい。私は私なりに生きてます」
紗奈はそれを聞いて悲しそうな顔をした。
「そっか」とつぶやく。そして手に巻き付けた数珠を触っている。「普通ならそれで説得されてた。でも今は本当に駄目なんだ。力ずくでも」
と続けた。その目を見て本気なのだと察する。
「わかりましたよ」と綾瀬奈は立ち上がる。
彩花は驚いた。
「先輩!?」と綾瀬奈を見る。
「だって彩花ちゃん、この人絶対おかしいもの。放っておけないわよ」
「でも!」
「彩花ちゃんも私たちの家族だらね。叔母さんに説得されたら仕方がないと思ってたけど、本人が嫌だというのなら私はあなたの味方だよ」
すごく珍しいことを言ってる。半年に一回かある綺麗な綾瀬奈だった。もしや冗談抜きで躁気味なのだろうか。
普段こんなこと言われないので嬉しいのだが、ちょっと怖い。彩花は複雑な気持ちになった。
「家族?」と叔母は眉を顰める。「そうだね。親戚の叔母さんなんて家族に入らないもんね。わかってるよ」
「おっ、嫉妬ですか? みせつけてやろうぜ~」
「ちょっと綾瀬奈先輩、変な方向に煽らないで」
綾瀬奈が肩を組んできて、煽りに便乗しようとするので彩花は止めようとする。
紗奈は一瞬、無表情になって固まった気がした。彩花はそれを見て少し背筋に冷たいものが走る。
綾瀬奈はそれに気づかず、彼女の頭を撫でていた。彩花は手を払う。
「ねえ」
振り返ると秋穂と幹美が帰ってきていた。
秋穂のほうを見るとどこか表情にいら立ちを携えている。一方で幹美はまだ何かに怯えていた。
先ほどと同じ表情である。しかし、より険しさを増していた。
秋穂がこちらに歩み寄ってくる。
勢いよく立ち上がる音がする。紗奈が立ち上がっていた。そして彼女もまた尋常じゃなく何かに怯えていた。
「もしかして、間にあわなかったの?」
「ないか知ってるのか?」秋穂が早足で叔母に詰め寄り、襟首をつかんだ。「マンションが変になってるのことについて何か知ってるのかって聞いてるんだよ!」
怒鳴りつけると彼女はびくりと震え、視線を逸らすように目を泳がせる。そして「知らない……」と蚊の鳴くような声で答えた。
「知らない? お前のせいじゃないのか?」
叔母は小さくうなずいた。
「何かやばいことが迫ってるのはわかってた……でもまさか今だなんて」
「なんで今なんだ! なんで今まで逃げなかった? なんでもっと早く言わなかった!」
「言ったって! ずっと言ってた! だから逃げようって言ってた!」
彩花はそこで慌てて止めに入る。
「ちょ、ちょっと待ってください。乱暴はよしてください。いったい何があったんですか?」
すると秋穂の口憎々しげに開く。
「わからないか? 窓の外を見てみろ」
「え……?」
言われるままに外を見てみる。
すると、そこにあるものに言葉を失った。そもそも視界の切り替わり方に違和感を感じた。窓を見ろなんて言われなくても、視界の隅ではずっと見ていたはずだ。そこでは平穏な外の風景が見えていたはずだ。しかし焦点を合わせると、化けの皮をはがれたように景色が一変した気がした。
赤黒い空が広がっている。溶鉱炉で溶かした鉄を空に零したみたいだ。町の様子もどこか違和感があり、それでいていつもと同じような風景にも見えて、間違いを探すためにじっと見つめてしまう。まず一つ見つける。一定間隔で同じ街並みが繰り返されているのだ。まるで人の目を騙すために速攻で作り出したかのような。そしてまた一つ見つけた。山が見える。ここら一帯は平地なので、この暗さで山が見えることはない。いくつあるだろうか。峰の数を数えることにした。1……2……
「数えちゃ駄目!」
幹美が慌てて、彩花の目をふさぎにかかった。
「な、なんですか……?」視界が暗くなる。しかし瞼の裏に峰が見える気がした。忘れて、と耳元で幹美がり返して、なんとか頭の中から追い出せた気がした。
再び目を開いた時にはカーテンが閉められていて外が見えなかった。気が付けば部屋が暗い。今消したのではなく、ずっと暗い部屋で話していて、それに気が付かなかった。
まるで夢の中にいるように非現実的な光景だった。再びカーテンを開いても同じ光景だとは思えなかった
「……いったい何が起こってるんです?」
「あたしが説明する」と秋穂が前に出た。「といっても、自分でも何が何だかわからないんだが……幹美を追いかけていったら、何故か建物の入り口が閉まってたんで、すぐ捕まえることが出来たんだ。しかし内側から鍵が開かない。これはおかしいぞ、と周りを確認したら廊下も薄暗い。非常口も確認したが、同じように開かなかった」
「もしかして……と思ったの」と幹美が話を引き継ぐ、「管理人室含めいくつかの部屋のチャイムを押したり、扉を乱暴に叩いてみたけど無駄だった」
「で、仕方なく一階に下りた」と秋穂が続く。
「それで戻ってきたわけ?」綾瀬奈も状況を把握した、と言うわけではないが、経緯はわかったようだった。「考えられる理由ってある? アパート全体を貸し切ったどっきりとか?」
「違うと思う。今のアパートの不気味さは人工的なものじゃない」
「じゃあ……どういうことですか?」
秋穂は黙った。何か考え込んでいる。その表情に焦燥感が滲んでいる。
「怪異……だね」
幹美が顔を青くしながら言った。
叔母の顔を見ると彼女も同様に顔面蒼白になっていた。そして唇を強くかみしめながらうなずく。その様子は嘘をついているとは思えないほど、生々しく感情的だった。
彩花は息を呑む。
「そ、そんな馬鹿な。ちょっともう、驚かさないでよー。いくら怖い体験したって、幽霊なんか信じないよ」
綾瀬奈の明るい口調とは裏腹に、声が上ずっていた。表情に恐怖を隠しきれていない。彩花も気持ちは同じだった。
幹美が何を言ってるんだと、綾瀬奈を見つめていた。
じゃあ、実際に見てみるか? と秋穂が言う。
皆で確認してみることになった。
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