1-5 ある物語の終わり

 昔の話。

 和葉綾瀬奈と出会ったのは、高校生のころの文芸部でのことだった。

 彼女は部の中でも一人だけ小説を書いておらず、少し浮いた存在だった。別に小説を書くことが義務な部活ではない。綾瀬奈は学内誌に毎回読んだ本の批評を載せていたし、部員としての最小限の責務は果たしていた。それでも、なんとなくヒエラルキーのようなものがあり、小説や詩を書いてるもののほうが上、という認識が漠然とあった。今思えば不思議な空気だったが、思春期特有の選民意識だったのだろうか。

 ともかく、私もまたそんなヒエラルキーにとらわれた一人であった。

 私もまた小説を書いており、我ながら悪くない、少なくとも部内で一番面白いものを書いている自負はあった。だから皆のことを見下していたし、綾瀬奈には同情さえ感じていた。そんなある日、綾瀬奈も昔は小説を書いていたことを知った。それを聞いて私は彼女に

「えー私も和葉さんの小説読んでみたいなー」

 と、本心から言ったのだった。

 一応言っておくと大した事なさそうだから、出してきたやつをけちょんけちょんに馬鹿にしてやろうとか、思っていたわけではない。割と辛口目の批評を書くので、じゃあお前はどうなんだという気持ちが近い。しかし、そう言われるとは思ってもいなかったようで綾瀬奈の口元から、

「へっ?」

 という情けない声が漏れ、しばらく無言になった。その後、

「えっと……ちょっと……見せれない……」

 と言って顔を伏せてしまった。私はその反応を見て是非とも見てみたいという気持ちが高まった。

 それからというもの、私は彼女に小説を書かせるためにありとあらゆる手を使った。とはいっても高校生にできる範囲内でだが。部内で物書きあるあるで盛り上がり、さりげなく私のおすすめの作品を貸したり、彼女の好きな小説家について聞き出したりして、その作家がどういったきっかけで小説を書いたかを調べて語ったりした。

 綾瀬奈と話す様になってから、この小さな批評家はかなりの人間性に難があることがわかっていった。一見真面目そうな雰囲気を醸し出しているが、授業はあまり聞いていない。体が弱そうな雰囲気があって、授業に出ないのも何かの病気だと思われているが、実際はかなり健康で、さぼりがちなだけだった。お互い慣れない状況だと謙虚さのようなものは感じるが、少しでも親しくなっていくと、高慢さが見て取れ、冗談の一線を超える軽口のつもりの罵倒をしてきた。ドタキャンならいいほうで、連絡をせずに目的地に来ないこともしょっちゅうだった。理由を聞いたら、「急に精神的につらくなって……ドタキャンしたら怒られるのが怖くて……私もつらかったの……」とのことだった。

 そんなある日、私の説得により綾瀬奈もついに折れ、夏休み中に短編小説を書き、それをもってくる約束をした。

 最初は純粋な興味で読みたかった。しかし、彼女と付き合ってるうちに、だんだん悪意を持って読みたくなってきた。こんな人格破綻者がまともなものを書くはずがない。だから、出来るだけ優しく、それでいて粗はすべて見つけ出してやろうと。

 いきなり自分の本性を表したりはしない。あくまでこれからも友達でいるために。それでいてどちらが上かははっきりさせたかった。

 そして。


 ここまで前ぶりをしたらもう誰でも予想できるだろう。

 私はその小説に打ちのめされた。私は彼女より下だった。私から見たら問題のある人格も、才能ゆえの高慢さに変った。部内の皆も彼女を持ち上げた。悔しさと怒りから涙が出てきた。私は彼女のことなんてこれっぽっちも好きじゃないのに、なぜか涙があふれ出た。そしてそれは悔し涙であり、嫉妬からの涙であった。この女に勝てなかった、負けたのだという事実はあまりにも重すぎた。今まで自分より上だと思っていたものが一気にひっくり返ったのだ。

「すごーい。綾瀬奈ってこんな面白い話書くんだね!」

 粗は何個かあげられる。商業作家の誰よりも面白いというわけではない。それでも自作よりははるかに出来がいい。これを批判することは、自作をさらに下げることのように思えた。だから張り付いた笑顔で褒めるしかできなかった。見せかけの友情に縋りつくしかなかった。

 私が彼女の名前を呼ぶ声に媚が混じっていることに気が付いた日、私は洗面所に嘔吐した。

 だから私は「改心」した。

『結局のところ友情に上や下などないだろ』

 そういった正論は私にとっては慰めである。マイナスをゼロにするための。私のほうが面白かった場合は絶対に採用しなかった理論だ。

 そして自分自身を偽り、慰めるためにこの変化を「改心」と呼んだ。


 □ □ □


 私は死体のそばを通り抜けた。

 大丈夫だ。私はそう胸を張って言える気がした。

 わざわざこんなところまで来たんだ。綾瀬奈はあの手この手を使って恐怖から遠ざけてくれたことがわかる。だから私もそれに応えなくてはならない。私は彼女の死を乗り越えられる。そんな確信があった。

 そして私には今度こそ本当の笑顔を見せようと思った。きっと今の私はいつもの綾瀬奈にも負けないぐらい幸せそうな顔を浮かべているはずだ。

『ふっきれたみたいね。あと、最後に言っておきたいんだけど』

 その言葉と同時に木々の間から風が強く吹いた。綾瀬奈の声の調子が変わる。肩の緊張が解けたかのように軽い声色だ。

 なんだろうか。いまさら何を言われても、そこまで変わらない。感動的なセリフでも行ってくれるのなら楽しみではあった。

 そんなことを思っていると彼女はこう続けた。


『――私が書いた小説、あれ盗作だから』


「は?」

 思わず返事をしてしまった。

 慌てて口をつぐむ。まずい。これは偽物の声だ。言霊の返事をしてはいけないというルールを破らせるための。でなければそんなあり得ない嘘が綾瀬奈の口から出てくるはずがない。なんと私のことを知り尽くした言霊だろうか。

『言霊じゃないよ。正真正銘の本当のこと』

 嘘をつく奴はみんなそういうんだ。しかし言霊はそれがどれくらいあり得ないことか理解していないようだ。しかし返事をしてしまったことは事実だ。

 私は焦りを感じ、目を閉じて事態を改善する方法を考える。しかし、ルールを破ってしまった以上何か思いつくのだろうか。

『言霊じゃないから返事しても問題ないって』

 黙れ。きっと数秒後には死んでしまう。何とかして打開せねばならない。どうしよう。焦りばかり募るが、何もできない。

 一秒、二秒。時間が過ぎ去っていく。

『ね? 問題ないでしょ』

 そんなはずはない。綾瀬奈の小説が盗作なわけないだろう。確かに彼女は虚言癖があるし、私物をすぐに盗むが、そんなことをするわけがない。綾瀬奈との思い出を汚すな。

 しかしいつまでたっても何の被害も受けないことから、一歩歩くごとに声の真実味が増えていく。

 本当に……?

 まさか本当にそうなのか?

「な……んで……?」

 恐る恐る言葉を放つ。誰かにつかまれないか、あがくように。それでいて、誰かにつかんでもらうのを期待しているかのよう言った。

『……キミちゃんが好きだったから。だってきっとあなたは自分が下だと思った人とは目を見て話してなかったから』

「……えっ……はっ?」


 それを聞いて、鳥肌が立つ。吐き気がする。嫌悪感が足先から張ってくるように上ってきて、締め付けるように体をさいなんだ。

 確かに綾瀬奈に才能がなければ、キスをしたりしないし、抱かれたりしなかったし、付き合ったりはしなかった。

 よくわかってるじゃないか、と言う場違いな感想が浮かぶ。

 数年前初々しく微笑みながら告白してきた彼女の顔を思い返いしてみると、今までは可愛らしいと思っていたものが、途端にげ下卑た笑みに書き換えられていった。

 彼女の指が張った後が、首筋にかみつかれた跡が、さらにそれに喜んでいたという事実が、うずいて痛みを伴っている。

『キミちゃんが女の子が好きなのはわかってたたから。あとは付き合っちゃえばこっちのものだと思ったの』

 頭が痛い。もういっそ思い出の中で死んでほしかった。それ以上話さないでほしい。

『だから言ったじゃん。後悔するって』

「何を被害者ぶってるの……? これまでずっと私を騙してきたのに」

 そう言うととても悲しそうな顔をした。まるで、私が彼女のことを悪者だと言った時のような表情だ。

 その様子に思わず口を閉じる。そして彼女は私にとどめをさす。

『うん。騙したよ。本当にごめんなさい。どうせ私死んじゃったから。最後に言いたかっただけ。罪悪感があったから。怖かった。怖かったよ、あなたが。怖いよきみちゃん。才能が好きなの? プライドの高いマゾヒストなの? わからない。でも好きだった。騙されて抱かれてるあなたは可愛い、そう思ってしまったの』

 どうして。どうしてそんな風に言えるんだ。何を他人の力でそんなにも偉そうにできるのだ。あなたは何も偉くないぞ。お前がやったことだろ。綾瀬奈がやったことで私は苦しんでいる。綾瀬奈のせいで人生めちゃくちゃになっているのに、どうしてそれを笑うことができるのだ。私にはわからない。わかりたくもない。ああ、頭が痛い。誰かこの痛みを止めてほしい。頭蓋骨を無理やり開かれているような感覚がある。誰か助けて。

 脈打つような痛みが視界を占領している気がした。視点が渦を巻き、うまく見ることができない。

 そんな曇った瞳が目が吸い寄せられるように一人の女に焦点を当てた。

 美しい女だと思う。ただ私は外観には興味がなかったようだ。

 目の前の女が原因なら。

 それを消せば止められる。

 ふと、わたしは死体に突き刺さっているナイフを見つめる。そして私はそれをゆっくり引き抜いた。切断面から花が生えてきたと思ったがやっぱり虫だった。刃の上からこちらへ伝って来ようとしている気がした。

 ナイフを振って払ってみると、血のように花弁が舞った。綾瀬奈はまだ語っていてこちらを見ていない。

『だからさ、キミちゃんもちゃんと前向きにに生き――』

「死ね!」

 そのまま私は勢いよくナイフを背中から突き刺した。

『がっ……えっ?』

「えっ?」


 確かに生の感覚があった。肉を切り裂いたような。あっけなく骨の間を通ったが、確かに人を貫いていた。

 綾瀬奈は心底何が起こったのかわからないという驚愕の表情をしていた。

 そして私も同じ顔をしていた。綾瀬奈の口からうめき声が漏れた。

『な……なんで……』

「ち、ちが……そういうつもりじゃ……」

 私も何が起きたかわからなかった。どうせ幽霊なのだし、きっとすり抜けると思ってた。私がいかに怒っていたかを表現したかっただけだった。癇癪でしかなかったはずで、次に現れるのは綾瀬奈の呆れたような顔だったはずだ。

 わかった。これは幻だ。私を惑わせるためにこの空間が作り出しているのだ。あるいは綾瀬奈が私を騙しているのはずだ。『なーんちゃって。驚いた?』という声が次の瞬間聞こえる――はずだ。

 そんな私の願いにもかかわらず、綾瀬奈は、痛い、痛いと泣きながらうめいている。なんとか止血をしようと傷口を抑え尽きたが、余計に痛がるだけだった。嫌がる綾瀬奈の手が私の頬にあたる。これではうまく治療できないと思わず殴りつけてしまった。彼女が吹き飛び、悲鳴を上げた。出血がひどくなり、助けて、と言いながら綾瀬奈が私から距離を取ろうとする。駄目だ。このままでは死んでしまう。助けなくては。私は彼女の背中に馬乗りになり抑えつけた。彼女の身体は驚くほど軽く、抵抗する力がないのだとわかる。しかし暴れるため、何度も拳で殴らざるを得なかった。

 彼女の首に両手をかけると、ひゅっ、っと息が止まりそうになる。それでもなお彼女は手を伸ばしてくる。振り払われまいと手に力を込める。綾瀬奈は目を大きく開き、私を見上げていた。その表情に、先ほどの怒りとはまた別の感情が沸き上がる。それは憐れみであったかもしれないし、悲しみだったのかもしれなかった。彼女の目からは大粒の涙がこぼれ落ちている。

 そんな綾瀬奈の目が徐々に色を失っていく。体が冷たくなっていく。

 そして彼女は動かなくなった。

 そこで私はやっと自分のしでかしたことに気がつき、慌てて手を離す。

「わ、私は……」

 こんなことをするつもりはなかった。綾瀬奈を殺したいと思ったことはあれど、実行に移したことはなかったし、これからもないはずだった。

 それなのに、涙を流しながら私を見ていた彼女の顔を思い出すだけで、手が勝手に動き、殺してしまったのだ。

 いや、そもそも本当に殺したのか? 私は振り向いて先ほど死体があったはずの場所を見た。

 当然とでも言いたげにそこに死体はなかった。なんだこれは。

「私は悪くな――」

 私は悪くない、そう言いかけて、一番嫌いな言葉だったことを思い出す。

 しかし、本当にそうだろうか。

 冷たい風が自分の体を冷ますましてる気がした。


 私は本当に悪くないのではないだろうか。


 実際に殺してしまったのなら確かに私のほうが悪い。

 しかし、綾瀬奈はすでに一回死んでいる。二回目の死なんてものは結局のところ言葉遊びに過ぎず、であるのならば悪いのは盗作をしていた綾瀬奈のほうが悪いという比重になるのではないだろうか。そもそもどういう理由で死体が消えたんだ。わけのわからないルールでこちらを惑わしているだけなんじゃないだろうか。

 それにここは現実世界から隔離されているように思える。現代の法で私が裁かれることはない。

 つまり


「私は悪くない」


 今度ははっきりと言うことができた。そうだ、綾瀬奈が悪い。それは揺るがない。

 そうと分かればこの場に居座る必要はない。私は立ち上がり、歩き出す。ちゃんと綾瀬奈が説明したルールも頭の中で復習した。


 山の中は冷たい空気が立ち込めていた。先ほどのやり取りで熱くなっていた体が冷えていく。片足を前に出して歩くという行為により、自分の足を怪我したみたいな錯覚に陥ってきた。しかし客観的に見たらなんと滑稽なことだろうか。そう考えると、恐怖も和らいでくるような気がした。

『助けて……助けてください! 追われてるんです! 殺される』

 例の山彦も聞こえてきた。思ったよりわかりやすく、これを綾瀬奈の声と間違えることなんてないだろう。今度はしっかりと無視することができた。もう大丈夫だ。私は何も怖くない。怖いことは何も起こらない。一歩一歩、前へ進む。足元の枯れ枝を踏む音にすら怯えることはなかった。『助けて……』まだ聞こえるが、無視だ。

 そして、出口に到着した。


 出てきた場所と同じように駅舎があった。振り返ってはいけないのでかなり遠回りをした気がする。

 綾瀬奈は駅舎の入り口が境界になっていると言っていた。だから脱出するにはルールを思い出さなければならない。特に重要なのが


『山のものは持ち帰ってはいけない』

『山には自分の持ち物は何も残せない』


 の二つだ。

 前者は『体に付着した空気がついているのでは?』『細菌とかはどうなる?』と言うことを問い詰めだすと理不尽なことになるので、ある程度融通は効くと綾瀬奈に聞いた。

 私は汚れた上着をその場に置く。そして靴を脱ぎつつも、地面に乗らないように靴の上に立った。切符を確認する。すでにこの駅に乗るためのものは今日買ってある。先ほどのおじさんと一緒でこれが、脱出するための鍵になるはずだ。

 わたしは、そのまま駅舎の中に飛び込んだ。


 □ □ □


 明らかに空気が変わる。

 体が少し暖かくなった気がした。目の前にある改札も、見慣れた自動改札機だ。建物内の照明も明るく、恐怖を無駄に書き立てるものではない。

 怪異とは油断が命取りと言うが、確実にこちら側に帰ってきたという感覚があった。

 私は今自由になった。そう確信した。

 私は綾瀬奈の呪縛から解かれたのだ。私は解放されたのた。そう、思うことにする。きっと、あの幽霊女も満足だろう。だって、あいつのせいで人生がめちゃくちゃになってしまった。だから、あいつは死ぬべきだった。

 あれだけ怖い思いをしたというのに、かなりすがすがしい気持ちになっていた。。綾瀬奈の二度目の死は、私は私の人生を生きていいのだという証のようなものだったのかもしれない。

 私はこれから生き続ける。それがどれほど素晴らしいことなのか。帰ったら秋穂と彩花と話し合おう。盗撮疑惑についても調べなけれならない。私の人生の続きが始まるのだ。


 と、そこで何かが地面に落ちていることに気が付いた。

 視線を向けると、先ほど脱ぎ捨てた靴が落ちている。手にもって靴底を見てみると、土があまりついていない。

 『山には自分の持ち物は何も残せない』とはこういうことのようだ。予想が当たっていてよかった。

 しかし少し考えて、土も一緒についてきて『山のものは持ち帰ってはいけない』というルールに抵触したらと思うと、ぞっとした。やはり理不尽なことは避けてくれる空間だったようだ。

 また何か落ちてくる。今度は上着だった。手に取ってみると、何かが変だと気が付く。

 血がべっとりつついていた。これはおかしい。靴と同じルールであるのならば、血も置いて行かれるはずでは? やはり何かルールを勘違いしているのだろうか。

 動揺しているところに畳みかけるように、どん、と大きなものが落ちてきた。

 それは明らかに人間だった。


 関節があらぬ方向に曲がっており、見開いた瞳がこちらを見ていた。腹から血が出ていて、駅舎の地面を汚した。

 あたりを見回して、ここがまだ怪異のいる世界なのか確認したが、どう考えてもそんな雰囲気はない。そして監視カメラと目が合った。

 私は震える声で言った。

 違う。間違っている。

「これは私のじゃない」

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