1-2 怪談『煙管』

 我が家には絶対に守らねばならないルールと言うものがある。

 我が家においては、人から物を盗むことよりも、人をだますことよりも、人を殺めることよりも、そのルールが重要と定めていた。

 そのことの発端を語るには、わたしが小学生のころまでさかのぼる必要がる。

 当時わたしにはおばあちゃんがいた。

 父の母なのだけれども、当時の私はそんなことは知らない。ただそのころのおばあちゃんはアルツハイマーを患っていて、物をよく忘れたり、被害妄想じみたことで怒鳴ったり、かと思えば急に優しくなったりで、精神が不安定だった。そんなおばあちゃんが怖かったけど、機嫌が良くて優しいこ時は小遣いをもらえたり、すでに渡したことを忘れて追加でもらえりしたので、頻繁に彼女の家へ通っていた。今思うと酷い話だ。そんなある日おばあちゃんが二人で出かけようと言い出す。

 私は小遣い目当てで、それに了解をした。

 それで日帰りで温泉に入り、JRで帰る。割と遅い時間まで温泉につかっていたので、既に日が暮れかけていた。今日はお小遣い貰えなかったなとか思いながら、田園が赤く染まっていく様子を眺めてふと、思い立っておばあちゃんが買ってくれた切符に目を落とした。よく見ると、一駅分の料金しか表示されてない。

「おばあちゃん、これじゃ足りひんで」

 その時はまたおばあちゃんのボケが始まったのかと思ったけれども、乗り越し清算をすればいいか、と言う気持ちで聞いたのだった。しかし

「ああ、それな、今日は裏技を使おうと思うねん」

 とか言い出してわたしは不安になる。

「裏技って何?」

「次の駅って無人駅やろ。あそこの自動改札機、入場する時のための切符入れると所はあるけど、出るときは、切符入れるとこはないんで、そのまま出て行ってええんや。一旦その駅から出て、そこで切符を買って入りなおせば数百円分の金が浮くんや」

 血の気が引いた気がした。わたしは当時11歳で、お小遣いを多重にもらうくらいには悪どかったけど、彼女の言っていることが無賃乗車の一種で犯罪であることは理解できた。そして孫の前で当然のように犯罪行為をするおばあちゃんに失望にも似た感情が浮かび上がった。

「それあかんことやって。やめーや」

 わたしはできるだけ軽い口調で言った。きっと孫が言うのなら辞めてくれるだろうと。

「そうは言うてもなあ。わたし、お金あんまり持ってへんのや。お金、あんたのお母さんにとられてもうてな」

 後で知ったことだが、母はお金を奪っていたのではなく、おばあちゃんがあまり遠くへ行かないように、お金を預かっていたそうだ。おばあちゃんにも了解を経て。

「じゃあ駅着いたらお母さんに連絡して、お金届けてもらえばいいやん」

「いややわ。あんひと私のこと嫌いやし、きっと馬鹿にしてくるやろうし」

「そんなことないて」

「何言うとんのや?! わからんやっちゃな!」

 おばあちゃんがいきなり怒鳴って、私は驚く。

 何か言おうとするけど、怖くて声が出ない。

「あんたそんないい子ぶったって、社会でやっていけへんで! 私があんたぐらいのころはなあ、食べるもんもあんま無くてあくどいこともやったんやで! 生きるのに必死やったんや! それを最近の子は理屈ばっかり一丁前になっていちびりおって!」

「おばあちゃん、昔は昔、今は今やて……」

 わたしは泣きそうになるのをこらえながら反論する。でも次々来るおばあちゃんの怒鳴り声にかき消されて、意味をなさない。やれ誰ここまで育ててやったと思ってんのや。やれ、あれのしりぬぐいは誰がやったと思ってんのやと。途中から母と私を同一視しながら叱り始めた。当然周りの乗客は怒鳴るおばあちゃんに視線が集まり、それが私には気まずくて余計泣きそうになった。

「そない言うなら一人で帰ったらええんや」

 おばあちゃんが最後にそう言ってちょうど無人駅に着く。空には帳が下り、あたりはすっかり暗くなっていた。山々に挟まれた美しい渓谷も、この時間では何も見えなかった。

 電車のドアが開く。それは闇へと誘う大きな口のように見えた。

「ほなな」

 そこでわたしの目じりのダムが決壊した。恥も外聞もなく泣き叫んだ。「おばあちゃんいかないで!」と。実際には「おばあちゃんいかないでぇぇぇぇぇぇぇ!」みたいな汚い声だったけど。

 外に出たおばあちゃんは「泣けばええと思ってるからに」と呟いた後、そのまま闇の中へ消えて行った。


 その後、泣いてるわたしを駅員が保護して、事情を聞いてきた。最寄り駅まで送ってもらい両親が迎えに来る。事情を知った母はおばあちゃんへの不満を言い、父はそれをなだめるけど、言葉選びに失敗し喧嘩になる。わたしがいる前では一旦止めるんだけれども、その後わたしが寝た後別の部屋で喧嘩をしていた。その夜はおばあちゃんは帰ってこなかった。

 次の日、山狩りが行われるも、おばあちゃんは見つからなかった。両親はもう結構ボケてたから……とあきらめムードを漂わせていた。わたしも悲しいけど、学校には行かなくてはいけない。そんなこんなで数日たったころ、下校途中で携帯に電話がかかってくる。画面には「おばあちゃん」と表示されていた。

「!!」

 慌ててわたしは電話に出た。「おばあちゃん! いまどこにいんの?! 待って、すぐにお母さんに連絡するから!」

 わたしの声に答えはなかった。ただ偶に息遣いが聞こえるだけ。わたしは携帯電話を耳に当てたまま、家へ向かう。その間ずっと話しかけ続けた。

「おばあちゃん今どこにおんの?!」「待って、切らんといて!」「お母さん怒ってへんから!」

 ずっと話し続けて声が枯れそうになった。それでも、もう二度とおばあちゃんに合えなくなるよりはましと、声を出し続けた。

 家までもう少しといった所で、ようやく端末から聞こえる声に変化がある。

「さきちゃん……」

「おばあちゃん!」

「あんな、さきちゃんに謝らなあかんことがあんねん……やっぱさきちゃんの言う通りやったわ……キセルはあかんなあ……」

「そんなこと気にしてへんから!」

「あかんで、あかんあかん……あの無人駅は山ん中にあるから、山んモンがずっと見ておるんや……だから、沙希ちゃんもおばあちゃんみたいな事したらあかんで……」

「わかったよ……だからおばあちゃん、帰ってきて……あとごめんなさい、おこずかい何度ももらっちゃって」

「ええよそんくらい……ただ、

 ……助け……」

 何かが潰れる音と共に、通信が切れた。

 慌ててリダイヤルしようとするがつながらない。そもそも今まで電話していたという履歴がなかった。

 急いで家に帰って母にそのことを伝えた。履歴がないことを不審に思いながらも警察に、携帯電話を調べてもらう。しかし、電話がかかってきた後はなかった。

 両親は口ではわたしを信じていると言いながらも、どこか疑わしそうな眼差しを向けていた。わたしはそれに怒り、事あるごとに何度も主張した。両親はそれを疎ましがるが、心の底では無視できないようだった。

 こうして祖母の鎮魂のためや、わたしを納得させるため、そして両親が自分を納得させるために、ルールを定めた。

「無賃乗車はするな」と言うものだ。

 多くの人はそれを当たり前のことだと思うだろう。当たり前すぎてわざわざ家のルールにはしない、あるいは「犯罪行為はするな」という広い意味の言葉としてルールにしてる程度だと。

 我が家においては、人から物を盗むことよりも、人をだますことよりも、人を殺めることよりも、そのルールが重要と定めていた。

 

 時は過ぎわたしは大人になり就職する。

 何の因果か隣の市で働くことになったが、現地では悪運が重なり、住む場所が確保できなくて、泣く泣く実家から通うことになった。

 夜、帰宅途中、あたりが暗くなりJRが無人駅を通るとき、おばあちゃんに似た人影を見ることがあった。

 わたしはまだそちらへ行けない。駅を通るとき、そう毎日つぶやき、次の駅につくまで目を瞑っているのだった。

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