第5話 はじめまして、ありがとう
「暑い。いつまで暑いんだ」
「九月。台風すぎるまで」
「だよなー。でも都会の方はもっと暑いんだろ?」
夏なのだから仕方がないことは分かっている。部活帰りで、自転車で帰宅したのだからなおさら暑い。家が海辺の近くでよかったと心底思う。
「この話毎年してる。んで、冬になったら、いつまで寒いんだー、っていう」
「口に出るんだなー。不思議なことに。でも夜は涼しいから、今日もアイス食べて寝よ」
もともと日本は温暖な地域なのだから、暑さから逃れることはできない。でも咲守たちは、この夏特有の暑さと涼しさ、匂いや生き物たちまで、そのほとんどが好きだった。
坂を上ったところで立ち止まっていたせいか、後ろでクラクションを鳴らされた。
「うわぁっ!ごめんなさい!」
急いで道の端に避ける。車の中を見て見ると、運転席には火実十が乗っていた。
「あれ?火実十おじさん?」
助手席には夏海が座っていた。
「やあ、咲守君、光雅君。部活帰りかい?」
「ええ、そうです。火実十おじさんは?」
「僕たちはママを病院まで連れて行ったんだ。ね、夏海」
夏海は顔を伏せたまま頷いた。
「何かあったんですか?」
「ママの様態が急に悪くなってね。病院へ行っていたんだ。今は落ち着いてるけど、とりあえず出産も近いから、しばらくは入院かな」
渚の様態が急に優れなくなり、それで夏海は落ち込んでいるのだろう。と容易に想像ができた。
初めは死んでしまうのではないかと、夏海は大騒ぎしていた。
「まあ、そういうわけだから」
「ねえ、咲兄。後で家に行ってもいい?」
「え、うん。いいよ。いつでも」
夏海の顔が、少し明るくなった。
咲守は光雅たちと別れて、すぐに家へ帰って来た。
「ただいまー。風呂ー。水風呂ー」
咲守は荷物を玄関に置きっぱなしにして、夏海がいつ来てもいいように、風も取り入れておくために、居間の窓を少しだけ開けて、風呂場へと急いだ。
風呂から出てくると、居間で夏海が画用紙を広げて待っていた。
「何してるの?」
咲守が尋ねると、夏海は動かしていた手を止めた。
「これね、この辺の地図」
覗き込んでみると、画用紙に描かれていたのは、この辺りの地図と、建物や自然のもの、どんな動物がいるのか、名前などが書かれていた。
「なにこれ?」
「赤ちゃんの名前が全然決まらないから、この辺りの名前を書いて、良い漢字とかがないか調べてるの」
夏海の横には、漢字辞典と物の由来辞典が置かれていた。
「なるほど」
咲守は覗き込んで見て、思った。夏海のやり方では、名前や漢字の種類が自然と少なくなる。
「夏美ちゃん。連想ゲームしよう」
「なんで?」
唐突なゲームの提案に、夏海は首をかしげる。
「これじゃあいつまでたってもいい名前思いつかないよ。だから、例えば――」
咲守は山と書かれた絵の横に、森、林、木、など、山から連想されるものを書いた。
「こうすれば、自然と漢字が増える。後は、海には、洋、塩、地平線、魚、水。ほら、こんなに増えた」
「わあ、咲兄すごいね!天才だね!……でも、これなに?」
夏海が指さしたのは、洋、の文字。
「太平洋っていうだろ?大きな海ってことだよ。大きく広がる水を現しているとか」
「海なの?じゃあ、これって、あたしと同じ?」
問われて咲守は少し考えた。広い海を現しているのなら、海に間違いはないとは思う。夏海のキラキラ輝く瞳を見ていると、正直にそう答えていた。
「ねえ、もっと書いて!良い名前思いつきそう!」
咲守は了承して、二人で一時間ほど名前を考えていた。
「そういえば」
「何?」
夏海は字を書く手を止めて、咲守の方を見る。
「夏海ちゃんの名前の由来は何だったの?」
夏海は嬉しそうにふふふ、と笑う。
「えー、なに?教えて?」
「うーんとねえ……。知りたい?」
楽しそうにじらす夏海に、咲守は不敵な笑顔を見せて彼女をくすぐる。
「そんな意地悪な夏海ちゃんには、こうだ!」
「いやー!くすぐったいー!言う。言うからやめてー!」
夏海は笑いながら咲守から逃れようとする。
呼吸を整えて、夏海は話を始める。
「お母さんね、夏の海がすごく好きなんだって。どの季節よりも奇麗で、蒼くて、楽しいから」
――だからね、最初の子には夏海と付けたいとずっと思っていたの。
渚は夏美のアルバムを広げながら、懐かしむように話していた。
******
「行ってきまーす!」
咲守は自転車にまたがり、光雅と部活へ急ぐ。
「行ってらしゃーい!」
優美の返事を後ろに、坂を下ろうとする。先に車が登っていた。運転をしていたのは火実十だった。助手席には夏海が乗っていた。
「おはようございます、火実十おじさん。夏海ちゃん。渚おばさんの様態どうですか?」
「今は大丈夫そうだよ。今日は昨日忘れていたものを届けて来たんだ」
「またお昼に行くよ!」
咲守たちは火実十と別れて、高校へと急ぐ。
今日は男女混合ダブルスの日。一・二年合同で、毎年夏の終わりに開催されている。
咲守と組むのは雪花。彼女からの申し入れで組むことになった。
「まさか初戦から当たることになるとは。雪花!あたしは容赦しないから!」
「私たちだって!佳子ちゃんたちには負けないんだから!」
佳子と組んでいるのは一年男子。体の小さな少年だが、球の回転に自信のある生徒だ。
「先行サーブ、風間。試合開始!」
雪花の力強い上からのサーブが入った。球は既定の四角の中へ入り跳ねる。男子がそれをとって、打ち返す。これは雪花が打ち返した。
一度長いラリーが続いた後、佳子の返しを咲守は取れずに、デュースにまで持ち込まれた。
両者息を切らす中、雪花のサーブが放たれた。
「アウト!」
しかし、その球は惜しくも、センターラインを越えた。二度のアウトをして、咲守たちは追い込まれた。
「よし!次点をとったら勝ちよ。頑張りましょう」
「はい!先輩!」
「ごめん、香坂君」
「いいよ。次とられなければいいんだから」
どちらも一歩も引かぬ戦いが続いた。決着はあれから十五分ほどで着いた。
「40-30!勝者、風間チーム!」
審判からの掛け声に、四人とも感情を表す前に地面に膝をついた。
「勝ったー。けど、長かったー……」
他のコートではすでに三対戦が終わっている。それだけ両者の実力が互角で、手を抜かない良い勝負だったといえる。
「ほら、まだ試合は終わってないよ。立って挨拶して」
審判に指摘され、四人はのそのそ立ち上がって、コートネットまで駆け寄る。
お互いに握手を交わして讃えあった。
昼食をはさんで準々決勝。咲守たちと対戦するのは、普段咲守とダブルスを組んでいる秋梧。
「まさか、相棒が敵になるとは思わなかった」
「ああ、俺もだ。でも容赦はしないからな」
「されたらこっちが困る」
熱い視線を交わして、試合が始まった。先行は秋梧から。秋梧は上からのサーブが苦手で、いつも下から回転をかけたサーブを打ってくる。時々回転が変わるので、少し厄介だ。
雪花は回転をもろともせず、奇麗に相手のコートへボールを返した。秋梧が強めの低いボールを返すと、ここぞとばかりにやや真中から離れたボールを咲守がとった。反対側に返したから行けるかと思ったが、相手の前衛の方が一枚上手だった。相手は咲守のラケットの向きをすぐに判断して、目の前に来た咲守のボールをすぐに返した。
「なっ……!」
雪花は勢いのついたボールを返したが、それはふわりと飛んで、次スマッシュが来てもおかしくないような状況を作り上げてしまった。
案の定、前衛は位置を調整しながら、下がっていく。力強い掛け声とともに、スマッシュが咲守たちのコートのダブルスサイドラインギリギリに入った。雪花はそれをとることができなかった。
「セーフ!15―0!」
審判の掛け声が入ると、深呼吸をして、気持ちを整える。
十五分ほど試合は行われた。
「40―15!九重チームの勝ち!」
ほぼ一歩的な攻撃に、咲守たちは為す術がなかった。
秋梧の惑わすようなラケット捌きと、前衛の力強く早い球に、咲守たちは付いていけなかった。
お互い挨拶を交わした後、咲守は光雅たちの居る場所へと戻った。
「秋梧は相変わらず強いなー」
横に座って水分を摂る咲守に、光雅がそれとなく感想を零した。
「秋梧たちの方、一切表情変わらなかったな」
元から表情を表に出さない、淡々としている性格の二人が組んだことで、普段よりも違う緊張感があった。
「香坂君」
一息ついたところで、雪花が咲守に近づいて来た。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
「ああ、こちらこそありがとう。また組むことがあったら頼むよ」
雪花は嬉しそうに頷いて、佳子たちの元へ戻っていった。
準決勝が始まろうとしたとき、咲守のスマートフォンからジャズの音楽が鳴った。
「はいはい、もしもし」
咲守は出るか少し悩んで、結局電話に出た。
「電源切っとけよ」
「忘れてた」
電話の相手は優美だった。
『もしもしお兄ちゃん?もう部活終わった?』
「いや、まだだ。なに?」
『津積の赤ちゃん。もうすぐ生まれそうなんだって』
「なんだって⁉」
咲守の大声に、全員が振り返った。
「どうしたんだ、香坂」
顧問の先生が尋ねてくる。
「津積の……えっと。近所の仲良くしてもらっている家のおばさんの娘さんの家の赤ちゃんが!」
「落ち着いてくれ香坂。意味が分からない」
咲守は深呼吸をして、顧問に電話の内容と、事の重大性を話した。
「……なるほど。それで、病院へ行きたいのか」
「はい!」
「あ、先生!オレもオレも!」
光雅もその想いを説明する。
「――だから先生!お願いします!一世一代の重大事なんです!」
「いや、お前らの子供じゃないんだから――」
「いいぞ」
正義が口を挟もうとしたところ、顧問はすぐに許可を出した。
「は⁉なんでだよ先生!」
正義が抵抗する。
「俺は、家内の出産に立ち会えなかった」
顧問は空を見上げて、哀愁を漂わせた。そして生徒たちは、これは長くなるやつだ、と誰もが察した。
「こういうのはな、親族じゃなくても、親身になって家族同然のような関係なら、気になるし、見守っていたいと思う。だからいいぞ!これも経験だ!それに香坂たちの試合は終わっているのだ、こちらは困らない」
スムーズに事が進むことが、顧問がここまで言ってくれたことが嬉しかった。
「ありがとう先生!ではお先に失礼します!行くぞ、光雅」
「よし!準決勝と決勝頑張ってくれよー!」
二人は急いで準備を整え、自転車で走り去っていった。
咲守たちが去った後、顧問は女子テニス顧問に止められるまで、自身の話をし続けていた。
一度家に帰って、汗を流してから再び自転車に乗って病院へと向かう。外はもうすぐ夕暮れで、ひぐらしの声が鼓膜を撫でた。
「すみません!津積さんの病室どこですか⁉」
病院に着くや否や、咲守は受付にかぶりついて尋ねた。
「つ、津積様ですか?今調べますので少々お待ちください」
受付の看護師はたじろぎながらも答える。
調べはすぐについた。
「申し訳ございません。こちらの病棟に津積様のお名前はございません」
「は⁉なんで⁉」
「だって、今出産してるって……!」
「……あの。こちら、内科と外科の病棟になります……」
看護師は申し訳なさそうな目で、二人を見る。咲守と光雅は顔を見合わせ、頷いた。
「すみません間違えました!」
「ご迷惑おかけしましたごめんなさい!」
二人は焦りと恥ずかしさから、逃げるように隣の病棟へと向かった。
隣の病棟では、当たり前だがきちんと案内してくれた。
案内されたのは、三階の一室。
「渚おばさん!」
「しー!静かに」
大声で病室に入って来た咲守と光雅に注意をしたのは、今回の出産に立ち会った七海だった。
「母さん。どうして」
「どうしてって。あのねえ、ここは私の職場。私は助産師。ここにいても何の不思議もないでしょ」
慌てていたせいなのか、そんなことも忘れていた。
「で?部活抜け出してここに来た理由は?」
部活抜け出して来るかもしれない、と優美から聞いていた。部活での話を、優美は聞いていた。咲守は話の途中まで通話を切っていなかったから。
「そうだ!」
「だから、静かにしなさい」
咲守は口チャックして、光雅と共に渚の元へ向かう。そこには火実十と夏海、優美が渚の腕の中を覗き込んでいた。
「こんにちは、咲守君、光雅君。来てくれてありがとう」
咲守たちも渚の腕の中を覗き込む。彼女の腕の中には、始めて見る新生児の姿があった。
自然と産まれた、体重の少し重い健康児が、母親の腕に抱かれて眠っていた。
新しい命の誕生に、心が騒めき、煌めく。こんなに小さな赤ん坊が、今、生きようと生まれてきた。火実十と渚を選んで、津積家を選んで、この地を選んで産まれて来た。何億、何兆分の一の確率で授かる命。生まれてきた命。そう考えるだけで、神秘的で輝いて見える。
感動や嬉しさで言葉が出ない。そんな言葉いつ使うのだろうかと思っていたが、咲守と光雅は、今この瞬間、まさに使うには打って付けな場所に居た。
「すげー。こんな、こんな……言葉が出てこない」
「言葉が出てこないなんてこと本当にあるんだな」
感動していると七海が、新生児室へと連れて行く、と新生児を抱きかかえ、一時の別れとなった。暫くは渚も休養しなければならないと、咲守たちは少し世間話をしてから病院を後にした。
病棟を出て、すぐに目に飛び込んできたのは夕暮れの空。
山を下山する途中、先ほどの感動をいまだに噛み締めていた。
「なんかこう、うまく言えないけど。こう、胸の奥が熱くなるような」
「わかるわかる。うまく言えないんだよな。でもこう、テニスの試合に勝った時と同じような、高揚感?みたいなのがあったよな」
「わかるよ。本当、赤ちゃんってかわいいよね」
火実十も咲守たちに同意する。おそらく、今咲守たちは他人に見られると恥ずかしいくらいに、顔が緩んでいるだろう。
「ねえ、夏海。とうとうお姉ちゃんだね。赤ちゃんのお名前……夏海?」
右を向いても、左を向いても、どこを見ても、娘の姿がなかった。
「夏海。どこだ!夏海!返事をしなさい!」
火実十の慌てた様子に驚いた咲守たちだったが、すぐに状況を察した。夏海の姿がどこにも見当たらない。
病院の駐車場。周りの森。裏手。坂の先。病院の周りは全て探した。それでも夏海は見つからない。
「どこに行ったんだ……」
「オレ、病院の人たちに聞いてきます!」
光雅は病院へ戻る。
「火実十おじさん。俺は衛叔父さんへこのこと伝えてきます!」
今衛は近くの交番に居るはずだ。
「わたしは坂下の方を探して来る!」
「ありがとう。三人とも、見つかったら連絡して」
「はい!」
咲守は急いで坂を下る。病院から交番までは十五分ほどかかる。坂を駆け下りる勢いを保ちながら走ったおかげか、想定よりも早く交番へ着いた。
「衛叔父さん!」
交番の引き扉を勢い良く開ける。すると、机の向こう側にいた衛が、ガタっと音を立てて警戒態勢に入った。
「なんだ、咲守か。どうした」
「夏海ちゃんがいなくなったんだ!一緒に探して!」
「津積さんとこのお嬢さんか。悪いが僕は今一人なんだ。ここを離れるわけにはいかない」
「そんなあ……」
衛からのまさかの言葉に、咲守は怒りを覚え、落胆する。
「だから、外で見回りをしている後輩に探してもらう。ここを見てくれというところはあるか」
咲守はすぐに気持ちを整えて、津積の家の周辺を探してもらうように頼んだ。
交番の周りを探しながら、火実十ものとへ戻ろうとしているとき、蓮と出会った。
「咲守!」
「父さん!」
咲守は蓮に駆け寄る。
「夏海ちゃんがいなくなったんだって?七海から聞いた。衛には話したのか?」
「うん。今は交番から離れられないから、後輩の人に頼んでくれるって」
「そうか。ところで、火実十はどうした」
「病院の周り探してる。夏海ちゃんが帰ってくるかもしれないから」
二人は急いで病院へ戻る。もしかしたら夏海が戻って来ているのではないかと考えながら。
坂を上った先で、火実十と鉢合わせをした。彼の様子から見て、夏海が見つかっていないことはすぐに分かった。
衛に頼んだことを話していると、火実十のスマートフォンから、電話の着信音が鳴った。
火実十が電話を取る。相手は病棟医院長だった。
「どうかなされましたか?」
『先ほど弓削君から話は聞きました。こちらでも娘さんを探してみましたが、見当たりませんでした。警察の方へ連絡はしましたか?』
「ええ。先ほど。下の交番へ伝えました」
『そうですか。ではこちらも手が空いている者が――』
電話の向こうが騒がしくなった。看護師たちの慌てる声が聞こえる。
『……長!……が、いな……!』
『何だと⁉何故そうなった!』
『津積…………の前……話して…………申し訳……せん!』
『謝罪している暇があるのなら、早く探せ!彼女は出産を終えたばかりなんだぞ!』
『どうしたのですか』
七海の声が聞こえた。
『香坂さん!津積様が病室から姿を消しました!』
『何ですって⁉すぐに探しますよ!』
委員長の側に現れた七海に近づいた看護師の声が、受話器越しに火実十の耳に届いた。
「……渚が?」
『ふぅ……。すみません津積様。娘様のことですが――』
「渚も、消えたんですか?」
相手の音が、一瞬途切れた。
『すみません。聞こえていたのですか。看護師たちが彼女の病室の前で話してしまったようで。申し訳ありません!謝罪で済まされることではないとわかっておりますが。今は謝罪をさせてください。本当に申し訳ございません!今すぐ津積渚様の捜索に当たりますので!失礼いたします』
そこで電話が途切れた。火実十の全身から力が抜けた。
「渚。夏海。どうして。なぜこんな。僕が不甲斐ないからか?どうして……」
「おじさんのせいじゃないだろ!塞ぎ込んでいる暇があったら早く探そう!」
火実十の弱気な部分が出て来た。何か悪いことが起こるとすぐに自分のせいにする。気が弱くなる。渚が唯一彼に直してほしいところ。
「僕はどうしたらいいんだ!なあ!咲守君!こんな気弱な夫で。夏海から目を離さなければこんなことにはならなかったのに!どう考えたって僕のせいじゃないか!子供が生まれたばかりなのに。どうしてこんな目に……」
咲守は何も言えなかった。火実十の気持ちは分からないでもないが、学生の咲守が何を言っても、今の火実十には届かないと直感した。
自分自身を攻める火実十に、強烈な拳が入った。火実十は盛大によろけ、しりもちをついた。
「……父さん」
「蓮さん」
蓮の目は怒っていた。今にでももう一発殴ってきそうなほど、怒りを露わにしていた。
「塞ぎ込んでいる暇があるのならさっさと探しに行け!夏海ちゃんが消えて、渚さんもいなくなって。残っているのは火実十だけなんだぞ!津積の大黒柱は誰だ?今一番力を出さないといけないのは誰だ?渚さんの夫は?夏海ちゃんの父親は?」
蓮は一泊置いて、火実十の胸ぐらを掴んで立ち上がらせ、声を張り上げて言った。
「全部あんただろ!今動ける家族はお前だけだ。誰のせいでこうなった?そんなことは後で考えろ。今は探すことに集中しろ!お前にとって一番大切な人たちがいなくなったんだぞ!口より足を動かせ!探しもしないでこんなところでうだうだしているなら、お前は夫も父親も失格だ!」
蓮は火実十を突き放すようにして、掴んでいた胸ぐらを離した。
「行くぞ、咲守。森の方を探す。もう少しで暗くなるが、懐中電灯があればどうにかなるだろう。ただし、私からは離れるな」
「分かった」
咲守は強く頷いた。
森へ入る最中、火実十が反対側の森へ入っていくのが見えた。
森に入って一時間弱が経った。すでに辺りは真っ暗で、何かを探すどころではなくなった。
蓮たちは捜索を切り上げて、明日、本格的な捜査活動を再開しようと思った。警察へもその時に届を出すつもりだ。
病院の方へ戻ってくると、玄関先で蹲っている火実十の姿が見えた。
「どうだった?」
火実十は力なく頭を左右に振った。
「そうか。……どこに行ったんだ、一体」
渚は病棟の非常階段で見つかったらしいが、体力が戻っていないのと、体にガタが相当来ているらしく、今は病室で大人しく横になっている。
「お父さーん」
少女の声が、夏の虫たちと鳥たちの声をかき分けて、咲守たちの耳に届いた。
「優美。どうだった」
遠くに居る彼女は、辺りを見渡しながら、前へ進んでいた。
「ちゃんと、この通り」
左手を横へ差し出すと、そこから探していた娘がひょっこりと顔を覗かせた。
「夏海ちゃん!」
咲守の声に、火実十はすかさず顔を上げた。
嬉しそうに駆け寄ってくる娘は、泥だらけで、膝を擦りむいていた。
「お父さーん!見てー!これね――」
「馬鹿夏海!」
火実十は駆け寄ってくる娘を、勢い良く抱きしめる。もう離さないと言わんばかりに、きつく、きつく抱きしめる。
「一人で勝手にどこへ行っていたんだ!みんなに心配かけて。どうして……。ごめん。ごめんよ」
夏海には、火実十が何故涙を流しているのか分からなかった。
「夏海。みんなに謝りなさい。心配かけてごめんなさいって」
夏海は咲守たちの表情を見て、初めて迷惑をかけていたということに気が付いた。
「えっと。よくわかんないけど、ごめんなさい」
「夏海ちゃん、迷子だったんだよ?」
「えっ、そうなの?別に危険なところ行ってないよ」
「近くにいたのに急に居なくなって、暗くなっても見つからなかったら、心配するに決まっているだろう⁉」
「ご、ごめんなさい。もうしません」
火実十の滅多に見せない本気の怒りに、夏海はシュン、と悲しそうに反省をした。怒られたのが嫌だったのと、本当に心配をかけていたことが分かったから。
「それで、森に入って一体何をしていたんだい?」
「お花!お花探してたの」
夏海は泥だらけになった手で持っている、小さな野花を火実十へ差し出す。
「これは?」
「あっ、なんか見たことある。どこで見たっけ。最近見たんだよな」
咲守が頭をひねると、優美が答えた。
「テレビよ。野草番組の」
「そうだそうだ!名前なんだっけ……」
「トキワハゼ。もう。お兄ちゃんなーんにも覚えてないんだから」
「そんな何日も前のテレビ覚えてねーよ」
植物に特に強い興味がないので、特別覚えているわけではなかった。ただ少し、そんな番組やってなあ、くらいしか覚えていない。
「でもどうして、この花を?危険を冒してまで」
「テレビの人が言ってたよ。花言葉は、いつもと変わらない心。だって。皆とずっと一緒にいられますように、って。見つけたら赤ちゃんとお母さんにあげようって、思ったの。でも、お父さん悲しませちゃった。……お父さん」
「なんだい?」
「お花。一つ貰ってくれる?あたしとお揃い」
夏海は束になっている花の中から、二本のトキワハゼを差し出した。
「ありがとう。夏海」
嬉しさと安堵から、火実十は涙を流した。
「お父さんごめんね。泣かないで。あたし、いい子でいるから」
また父親を悲しませてしまったのかと不安になった夏海は、土だらけの手で、火実十の目元を拭った。
「ん。大丈夫。じゃあ、ママのところへ行こうか。大分心配させたからね」
「うん!あ、咲兄!」
「なに?」
「あのね、おじいちゃんがいたよ」
夏海は笑顔で言った。何のことだかさっぱりだった。
「おじいちゃんたちがいたから、あたし山を下りることができたの」
咲守は蓮と顔を見合わせた。一瞬、悪寒が走った。
「また後で話してあげる。待っててね」
夏海は火実十と共に渚の待つ病室へと向かった。咲守は夏美の言った言葉の意味を、ずっと考えていた。
渚は病室でずっと祈っていた。夏海が無事に帰ってくるように。
「お母さん!」
扉がガラッと開くと同時に、夏海の元気な声が渚に届いた。
「お母さんあのねー――」
夏海がベッドの隣へ着くと、何かをたたくような音が病室内に響いた。
一瞬何が起こったのか分からなかった。じんじんと頬が痛む。
「お、おか、しゃ……」
夏海は母親に自分の頬をたたかれたことを、ようやく理解した。すると同時に、涙があふれて来た。渚はその涙ごと夏海を抱き寄せた。
「お馬鹿夏海!どうしてみんなに黙っていなくなったの!」
夏海も泣いていたが、渚はそれ以上に涙を流していた。
「ずっと、ずっと。生きた心地がしなかった……。もう、二度と暗い森に入らないで。一人でどこかへ行ったりしないで……。夏海。お願いよぅ……」
泣きながら必死に言葉を紡ぐ。
夏海は母親の胸の中で、早い鼓動と震える体を感じ取っていた。それが、本当に悲しんでいて、安堵しているように思えて、夏海は大声で泣きだした。
「ごめんなさい。ごめんなさーい!」
「いいの。いいのよ。こうして無事だったんだから。ママも、叩いてごめんね。痛かったでしょう。ごめんなさい」
渚はもう一度夏海を強く抱きしめて、体から離した。
「あらあら、かわいい顔がぐしゃぐしゃ」
渚は近くにあったタオルを取って、夏海の顔についた涙や鼻水を拭き取った。
「はい、かわいい」
「本当?」
「うん。この世で一番かわいい」
夏海はくしゃっと笑う。
「ところで、どうして森なんかに入ったの?」
「お花を取ってきたの。お母さんと赤ちゃんにあげるために。すっごくかわいいの。でもね、病院の人に盗られちゃった」
話が見えずに、渚は火実十に説明を求める。
「野草で土洗い流してないやつでさ。病気や細菌持ち込むといけないから、受付のところで預かってもらっているんだ」
「ああ、なるほど。ありがとう夏海。お花は家に持って帰って、飾っておいてくれる?」
「うん。枯れる前に帰って来てね」
母娘は指切りをして約束を交わした。
「そうだ!」
夏海は何かを思い出したのか、ポケットをまさぐって、何かを取り出した。
「これは?」
「赤ちゃんのお名前。女の子と男の子の。あのね、一人じゃ難しかったから、咲兄に手伝ってもらったの。大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。良い名前ね。理由、聞いてもいい?」
「うん。あのね――」
夏海は名前に込めた思いを語った。二種類の名前を語るだけでも幸せだった。
この後、受付で待っていた咲守たちと合流したが、夏海が眠ってしまったので、おじいちゃんの話は別の日に持ち越された。
午後の部活がない日。夏海を呼んでおじいちゃんの話を聞くことになった。咲守の予感が働いて、光雅と露樹にも来てもらった。
ここは津積の家。津積と香坂、光雅と露樹が集まっていた。
「森に入ってね、たくさんお花集めようと思って、森の上の方に登ってたの。そうしたらね――」
******
地面に手を突きながら、急斜面を登っていた。片手には集めたトキワハゼ。小さな体で必死に登っていく。
「よい、っしょ!あった!奇麗なお花」
目の前に咲いていたのは小さな花。微かに輝いているような気がして、目を奪われていた。
「もう少し……!」
息を切らせながら、夏海は山を再び登る。
『駄目よ』
冷たい風と共に、女性の声が運ばれてきた。
振り返ると、そこには薄紫色の着物を着た女性がいた。
「おばさん、だあれ?」
『名前はいいの。それより、これ以上登ってはいけません』
「でも、お花」
『手元のものだけでお母上はきっとお喜びになられます。これ以上登れば、貴女はこの世に戻れなくなってしまう』
「どこ?」
『ご両親の元へ。この先は、あの世へ帰らない悪霊が蔓延る領域。貴女、誘われているわ。だから、どうか今すぐ降りて』
夏海は小首を傾げる。どうしてもあの花が欲しい。目の前のおばさんに反抗したくなる。
ムキになって言い返そうとすると、別の声が聞こえた。
『夏海さん』
名前を呼ばれた夏海は、目を見開いて彼に駆け寄った。
「やっとお名前呼んでくれた!静おじいちゃん!」
実の祖父母がいない夏海にとって、唯一のおじいちゃん。
「あれ?でもおじいちゃん、死んじゃったんだよね?」
『みんなが心配でね。八月いっぱいはいようと、妻と話したんだ。閻魔様も仏さまも、きっと許してくださる』
夏海は再び小首を傾げた。だって、人は死んだら天国という場所へ行くと聞かされていたから。
「あれ?お星さまだっけ?それとも仏様?……でもおじいちゃんたち、ここにいてもいいの?」
夫婦は頷く。
「そうなんだ」
区切りがついたところで、静はすぐに話を切り替えた。
『さあ、病院でみんなが待っている。早く降りなさい』
「……うん。そうする。なんだか、急に、お母さんとお父さんに、会いたくなっちゃった……」
夏海は一歩、また一歩と足を踏み出す。
『夏海さん。山を下りている最中、絶対に後ろを振り返ってはいけませんよ』
「絶対?」
『ええ、絶対。でないと、もう、両親に会えなくなってしまいます。下であなたを探している人に触るまで、振り向かないで』
「うん」
夏海は走り出した。急な斜面を転げ落ちそうになっても、止まることなく走り続けた。
そうして、気が付けば優美の腕の中にいた。
******
「きっと、この時の為に残っていたのね。麗香さんは静さんを待ち続け。静さんはこの事態を察知した。だから、お盆を過ぎたこの時期まで残っていた」
露樹の分析には、誰も反対しなかった。
「未来に何が起こるかなんて誰にも分からないけど。きっと、亡くなる直前、肌でよくないことが起こると感じとった。だからこそ、自分たちよりも、幼い、咲守君たちにとっても大切な夏海ちゃんの救出の方を選んだ。あの世へ行くのが遅れたとしてもね」
誰も何も言わなかった。無言のまま解散した。何かを言うべきではないと思った。ただ、静かに病院の方へ頭を下げていた。
怒涛の夏休みが終わろうとしていた。渚は無事に退院し、赤ちゃんと共に家に帰って来た。
部活の方は、生徒たちからの強い要望もあってか、二日間休みになった。
「咲守ー」
「なにー?」
「宿題終わったか?」
「後英語だけ」
「うそ⁉」
縁側で寝そべっていた光雅は、驚きのあまり上半身を起こした。
「お、オレ。後英語と国語と理科残ってんだけど……」
「あと二日で終わるのか?」
「終わらせねーと!オレんとこの担任怖いんだよ!じゃあ次の土日で終わらせてきてねー。なんて、お前のとこの担任みたいに優しくねーよ!」
「さすがに評価は下がるけどな」
そうでなくては、きちんとやってきた生徒との差別化ができなくなる。きちんと宿題をやって来て、期日を守ることができている生徒を評価し、出された宿題もやらずに期日も守らないような生徒には厳しく指導する。それができなければ、将来困るのは生徒の方だ。社会に出た時に、やるべきことをやらない。期日を守らない大人になってしまう。
「あれだけ最初の方に気合入れてたのにな」
「想像以上に忙しなかったからな。今回の夏休み」
まだまだセミの鳴く夏の昼下がり。寝転がっている暇があるのなら宿題をやれ、という幻聴が聞こえる。
「そういえば、咲守は進路決めたか?」
「……まだ。したいことが分からない。やりたい仕事なんてないし。何を勉強したいかもわからない。光雅は?」
「オレは皇室の歴史勉強できるところへ行く。親父には許可貰った。ただ、オレんち仏教徒だろ?神道はちょっと避けたい。から、きちんと、雑音の入っていない皇室の歴史を教えてくれるとこ、また一から探し直して、日本史も学べるところへ行く」
「ふーん。いいな、やることがたくさんあって」
咲守は項垂れた。自分とは比べ物にならないほどの道と学びを持つ光雅には、咲守は到底かなわなかった。
「んな不貞腐れるなよ。好きなことないのか?」
「……ジャズ」
「じゃあ、音大は?」
「俺楽器できない。聞くだけ」
「海すきだろ?海洋学とかは?」
「勉強するほどじゃあ……」
話が詰まった。
絵が好きなら美大へ行けばいい。歴史が好きなら歴史学のある大学へ。古代が好きなら古生物学の学べる大学へ行けばいい。ただ、その学びたいことが、咲守には分からなかった。
「オレは、咲守は大学の方が合ってると思うけど」
したい仕事が分からない咲守には、就職も専門学校も向いてはいないだろう。
「音大とか専門の大学じゃなくてさ、こう、総合的に学べるところが良いんじゃないか?文系と理系と数系なら、どれが良いんだ?」
「どれが一番、学問を学べるんだ」
「えっ、そうだな。……文系じゃないか?数系は数学一筋って感じだし。理系は多いとは思うけど。でも、思いつけだけなら物理、化学、生物学?くらいか。文系なら、日本史、世界史、経済学、日本文化、外国語学……とか?」
「経済は文系の分類なのか?」
「えっ、たぶん。経済系とは言わないと思う」
咲守は深い溜息をついた。
「今度、公務員系の専門学校見学しに行くんだ」
「へー、安定取るんだな。なんか意外」
「やりたいことがないから。なんか、無難なとこ取ろうと思った。けど、なんか違う」
違うとどこかで思っていても、それが何なのかが分からない。分からないから、とりあえず無難な場所へ行く。それならきっと後悔しないだろうと思って。
「……あー!わかんねえ!何が正解なんだ!」
頭を抱えて、勢いよく後ろへ倒れる。両腕を無作法に放り投げた。
「無いだろ。正解なんて。今はまだ」
光雅は頭の後ろで腕を組んで、後ろへ倒れた。
「わかってるよ。でも、正解と安心が欲しいんだ」
「今じゃなくてもいいだろ。あと一年くらいはあるんだ。なんかの拍子に、ここへ行く!ってことがあるさ」
「そうだと良いなー」
投げやりになって言った。
「まあ、今は宿題を何とかせねばなるまい」
起き上がった光雅の言葉遣いに、咲守も起き上がって乗っかった。
「そうですな。まずは目の前のことを片さなければいかんですな」
おかしくて笑った。大声で笑って、少しすっきりした。
重い腰を上げて宿題に取り掛かろうとした時、二つの影が現れた。
「お兄ちゃん!」
「兄たち!」
優美と夏海は声を揃えて言った。
「宿題教えて!」
咲守と光雅はまた笑った。
優美も夏海も残りは苦手科目だけだった。
先に二人の分を終わらせ、おやつ休憩を挟んで、二人の残りと咲守の宿題をすべて片づけた。残った光雅の科目は国語と理科の物理。今日中には終わらなかったが、何とか翌日のおやつ時間までには終わらせることができた。
長くて短い夏休みが終わる。笑って、悲しんで、心配して、一歩進んだ夏休みは、咲守たちにとってかけがえのない思い出となるだろう。
こんな生活が少しでも長く続くと良いなと、そう願う。
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