第4話 はなびたいかい

 外からも見える居間で、香坂兄妹は夏海と渚とテレビを見ていた。『夏の野草特集』。食べられるものからかわいらしい花まで、様々な野草を紹介していた。

『ここまで見てきてどうでしたか?』

 司会の一人が、ゲストへ質問を投げかける。

『私はトキワハゼですかねー。いつもと変わらぬ心、っていう言葉が良いですよね』

『オレはスズメウリですね。スズメ好きなんすよ』

『あんたごっつい見た目のわりに、結構小動物好きよなー』

『ごっついは余計っすわ!』

『でもいたずら好きっていうところは、似てますよね』

『ももいちゃーん、それは言わない約束よー』

 他愛ない芸能人たちの会話。ごっつい男と彼が飼っている小動物たちの写真が一枚出てくる。

「ここに出てくるお花ってさ、この辺でも見たことあるやつあるよね」

 夏海がテレビを指さしながら言う。

「ここに出てるのって、今のところほとんど日本全国でみられる奴だろ?タンポポとかドクダミとか」

「最初にそう言ってたんだから、そうなんじゃない?だから今言ったやつもこの辺にあるよ。山に行ったら確実に生えてると思うけど」

「ふえー。お母さんもお花好き?」

「勿論。お庭に夏海の好きなチューリップ植えてあるでしょう?」

「うん」

「あのチューリップはね、夏海が産まれた記念に植えたものなの」

 七、八年続く赤色と桃色の二色のチューリプ。世代交代を繰り返し、いまだに綺麗な花を咲かせている。

 芸能人の話とCMが終わり、続いて北海道から順番に南下して野草を紹介するコーナーが始まった。

 サクッと何者かが家に近づく足音が聞こえた。

「ただいまー」

「あ、父さんお帰りー」

 家に近づいていたのは、咲守の父親である蓮だった。

「お父さん、今日お土産は?」

「そんな毎日あるわけないだろう。……っと、津積さんところの、こんばんは」

「こんばんは、お邪魔してます」

「おじさんお帰りなさーい」

「やあ、夏海ちゃん。君にはとってもいい知らせがあるよ」

 何かと夏海がわくわくしていると、蓮の後ろから、もう一つの足音が聞こえた。

 夏海の顔がみるみる明るくなる。

「ただいま、夏海」

「……!お父さん!」

 夏海は嬉しさのあまり、裸足で外に出て父に抱き着いた。火実十とは三週間ぶりの再会。

 嬉しさと眠気で、夏海は父に抱き着いたまま眠った。時刻は九時。夏海にとっては眠い時間だ。

「この子ったらね。お父さん今日帰ってくるって言ったら、起きて待ってるっていうのよ」

 渚と二人だけでは眠ってしまうかもしれないと思った夏海は、騒がしくなって眠りにつかないように、香坂の家に遊びに来ていた。

 香坂家に礼を言って、津積家は家を後にした。

「夏海は元気だったか?」

 夏海を抱っこする火実十が尋ねる。

「勿論。お姉さんになるって言って、もう元気が有り余ってるよ」

「そうか、よかった」

 そういう火実十の顔はどこか沈んでいた。明らかに疲れているときとは違う顔。渚にはすぐに分かった。

「なにか、悩み事?」

「……いや」

「あたしに隠し事無駄なの、知ってるでしょう?」

 心配そうな、悲しそうな表情を火実十へ向ける。

「あ、あはは。やっぱり?駄目だな。昔から、君のその顔に弱い」

 火実十は深呼吸をして、心を決めた。

「僕は、昔から出張ばっかりだろう?それで最近、若い子から、仕事ばかりで奥さん可哀そう。とか、家庭捨てて仕事ばっかり、もうそんな時代じゃないんだから、もっと家のことした方がいいですよ。って言われた。そんなこと昔から思ってた。特に、夏海が産まれてからは。それなのに、今実際に言われて、世間は父親も家に帰って育児をしなければいけないっていう考えが蔓延っていて。僕は、本当はいい父親じゃないんじゃないかって……」

 火実十の足が止まった。妻は妊娠中、娘はまだ小学生。そんな子たちを放っておいて出張ばかりと、男女問わず呆れられていた。確かに火実十は出張が多い。数か月に一度の頻度である。

「あたしたちが結婚するとき、あたしが何て言ったか覚えてる?」

「え、いや……なんだっけ」

 渚の瞳は力強く輝いていた。

「あたしは子供が産まれるまでは仕事を続けるけど、産まれてからは専業主婦として家庭を支えていきたい、って。そしたらあなたは――」

「その分働くから、大切な子供たちの側にいてくれ。って」

「うん。あたし、子供は幼い時が、一番親がいないといけない時期だと思っているから。それに、あなたは言った通りにたくさん働いてくれて、三十代で本部長になって、あたしたち、何不自由なく暮らしている。それに、あたしがお義母さんのお店を継ぎたい、って言ったら、色々準備してくれたじゃない」

「……だって、それが夢だったんだろう?僕は、妻や子供たちの願いは、なるべく叶えてやりたい」

「あたしたちの願いをかなえてくれて、生活を支えてくれて、仕事で疲れているはずなのに、次の日には夏海と遊んでくれる。そんな父親がよくないなんてことない。仕事は育児じゃない、なんていう人いるけど、そんなことない。仕事も立派な育児よ。だから自信をもって。あたしにとってはあなた達が一番なんだから」

「渚……。ああ、ありがとう」

 そういうと、渚は何かを考える素振りを見せた。

「でもそうね。あなたのすぐに自分を責めるところとか、気弱なところは、直してほしいかな」

「んー。そこはまあ、追々……」

 ずっと言われてきて治らない性格改善に、弱々しい返事を返した。

 再び歩みを進めると、腕の中の夏海がうごめいた。

「んん……おとう、さん……お土産……」

 夫婦はくすっと笑った。夏海はいつも、火実十のお土産話を楽しみにしている。夏海の大好きな大好きなお父さん。家族から愛されている父親は、それだけで幸福だった。



 翌日の朝早くから、夏海は香坂の家へ行った。

「どうしたの、顔赤くして。熱中症?」

 優美は体をズルズルと匍匐前進させて、縁側の方にいる夏海に近寄る。

「こら、スカート捲れてる」

 スカートを引っ張られたことに驚いて、急いで手で止め、縁側へ座る。見られたことの恥ずかしさから咲守を睨みつける。

「で、どうしたの」

 咲守は意に関せず縁側に座る。

「お母さんもお父さんも、朝からあたしのお話ばっかり。つまらないし恥ずかしいからここに来たの」

 どんな話をしているのかはすぐに分かった。

「親ってなんで俺たちの昔話をほじくり返すんだろうな」

「ほんとよ。わたしたちだけじゃなくて、近所の人に伝わっていたりするから、聞いたとたん恥ずかしくなっちゃう」

 それでも両親は楽しそうだったので、無理にやめてとも言えなかった。過去に言ったこともあったが、二人が悲しそうな顔をしたのが忘れられずに、ずっと引きずっている。

 今日は咲守の部活はない。優美も特に用事がない。では三人で何をしようかと優美が声を上げると、おーい、という声が聞こえてきた。

「来たぞー、咲守ー」

 やって来たのは正義と誠。三日前の部活の時に家に来ないかと、あることを頼んで誘っていた。

「こんにちは。でもどうして二人がここに?」

 二人を縁側に招き入れ、優美は質問を投げかけながら、二人分のお茶を取りに行った。

「なんか名前の由来を教えてほしい、って言われたから」

「そうそ。オレ一度は聞いたことあってさ。今回聞いたら、なーんどでも話してあげる、って、なんか気持ち悪いくらい嬉しそうに話されて。その後の時間は昔話聞かされた」

 うんざりした様子で話す。

「で、誰が知りたいんだっけ?」

「あたし!」

「名前は?」

「津積夏海です。小学二年生です」

「そう。よろしく。俺は薄野誠。こっちは一応俺の幼馴染の鈴木正義」

「一応ってひどくね?」

 一通り自己紹介が終わって、優美が戻ってきた。

「よかったね、夏海ちゃん」

「うん、すっごく嬉しい!じゃあ、さっそく!」

 夏海は走って家の方へと帰っていった。すぐに帰ってきた夏海の手には、例のノートと鉛筆が握られていた。

 まずは正義から。

「オレの父ちゃんがヒーロー戦隊もの好きでさ、男が産まれたら絶対に正義って名前を付けたかったらしい」

「せいぎってどういう字?」

「これ」

 そういって指さしたのは、ノートに書いてある正義の字。

「お名前は?」

 夏海は小首を傾げる。

「まさよし」

 夏海は反対方向へ首を傾げた。

「同じ漢字でも読み方違う場合があるんだよ。漢字の読み方って一つだけじゃなくて、複数あるのがほとんどだろう?」

「確かに。別の漢字とくっついたりして、読み方変わるものあるよね。こんがらがっちゃう」

 読み方の数だけ名前がある。組み合わせ次第で無限大の理由と可能性がある。

「セイギって呼び名は母ちゃんが嫌がったんだよな。虐められると思ったらしい。オレは別にセイギでもよかったけど。その方が格好いいだろう?」

 咲守と誠は顔を見合わせた。

「いや、お前はセイギっていう感じじゃないだろ。女子とよく喧嘩するし」

「授業中に居眠りはするし」

「挑発するけど、自分は挑発に弱いし」

 ぐうの音も出ない。

「でも正義は正義だから。俺は気にしないけど」

「咲守」

「そうそう、気にしたって、なーんにもなんないんだからさ。お前はお前でいいんだよ」

「誠ー。お前はやっぱり一番の親友だよー」

 正義は嬉しくなって誠に抱き着こうとした。

「ふざけんなら親友止めるぞ」

 強い力で押し返された。

「ねえ、お名前の理由聞いてもいい?」

 暇を持て余していた夏海が、身を乗り出して尋ねて来た。

「ごめんごめん。えっと……、あっ、そうだ思い出した。母ちゃんが読み方嫌だって言ったから、じゃあ正義の漢字は残して読み方を変えようってなった。でも母ちゃんもヒーローもの好きで、昔はセイギって読みにしたいって思ってたらしい。でもさ、今はキラキラネームっていうのか?母ちゃんがあれに敏感になってさ。初めは二人揃ってセイギにしようって話だったのに、急に母ちゃんが嫌だって言いだすから、もう大ゲンカしたってさ」

「はー、大変だったんだな」

「セイギってキラキラネームか?」

「そんなことないわ。だって普通の読み方でしょ?何の問題もないわよ」

「オレんとこの母ちゃん、すぐ感化されるからな。周りに言われて不安になったんだろ。今頃後悔しても遅いっつういの!」

 茶菓子を口の中へ放り込む。お茶を飲んで一息ついた。

「あ、それから――」

 正義は肩から掛けていた鞄から、一枚の紙を取り出し、夏海へと手渡した。

「それ、オレの妹と弟の分。好きに使ってくれていいから」

 手渡されたのは名前と由来の書かれた紙だった。

正兄まさにいはお兄ちゃんなの?」

「そうだぞ。なに?意外だった?」

 その場の四人が頷いた。

「え。なんだよお前らもかよ。……っていうか、誠と咲守は知ってるだろ」

「いや、知ってるけどさ」

「今聞いてもお前が兄だとは思えない」

「……たとえ誠でも、それは失礼だろ……」

 正義は肩を落とす。いつも言われるのだ。正義は長男には見えない。なんなら末っ子だろう、と。いたずら好きでお調子者。授業はまじめに受けないし、すぐに忘れものをする。他人から見れば、しっかりしたお兄ちゃんにはどうしても見えなかった。

「オレだって家では兄貴してるからな。何だったら今度家に来るか?」

「時間がある時にな」

 正義の家は咲守の家から一時間半ほどかかる。気軽に遊びに行くには少し遠い。

 誠の番になる頃には、咲守は昼飯づくりへ台所へ向かった。

「俺は正直な人になってもらいたいから、誠」

「正直な人はいい人なんだよ」

「そうだね」

「嘘をついたら泥棒さんになっちゃうんだ」

「そうかもね。でもね、嘘もたまにはいいもんだよ」

「でも嘘ついたら怒られちゃう」

「俺だって嘘の一つや二つは吐くからね。この間正義にも言ったし」

「えっ、何を」

 訝しげな様子で誠に迫る。

「休みに入る前に、彼女がいるか聞いて来ただろ」

 正義は重い頭で頷く。

「俺はいないと言った」

「……ま、まさか――」

「ああ。あれが、嘘だ」

「てめえ!騙したな誠!」

 正義は思い切り誠の胸ぐらを掴んで揺らした。

「お前は、お前だけは仲間だと思っていたのに!」

「別に彼女いない奴なんてたくさんいるだろ。咲守とか光雅とか……クラスのほとんどがいないだろ」

「そういう問題じゃなーい!親友に先越されるのが嫌なんだよ!第一なんで嘘なんかついたんだよ!」

 誠は掴まれていた手を引きはがして、襟を正す。

「だって、言われたの教室だぞ。こうなることが分かっているのに、わざわざ教室で騒ぎなんか起こさない」

 きっとどこで聞いても騒ぐだろうな、ということは分かっていたので、わざわざ嘘をついた。また別の、例えば誠か正義の家でなら本当のことを言ってもいいだろう、と思っていた。

「まあ、人を傷つける嘘はよくないけど。嘘と真は使い方次第だ。それさえ気を付けていれば大丈夫」

「じゃあ、傷ついてる正兄に嘘ついたまこ兄は、駄目な人?」

 疑問の瞳を向ける夏海に対して、誠は瞼をパチクリさせる。誠は一度正義と目が合った。

「いや、こいつは特別だ」

 すぐに夏海と視線を合わせる。

「なあ、それ喜んでいいやつ?それとも怒るところ?」

「怒るところでしょう」

 特別という言葉を聞いて騙されそうになるが、正義は再び胸ぐらを掴んで揺らした。

 怒り疲れてしばらく縁側でくつろいでいると、料理を作り終えた咲守が戻って来た。

「昼飯食べてくだろ」

 そういって机に置いた料理は、机いっぱいに乗った。喉から手が出るほどおいしそうな料理に、全員すぐに席に着いた。

「い、いっただっきまーす!」

 おいしそうなものからすかさず口へ入れる。あまりに美味しそうに食べるものだから、作った側もそれはそれは嬉しく思う。

「ただいまー」

 咲守もそろそろ食べようかと席に着くと、母親である七海が帰って来た。

「おかえりなさーい」

「おばさん、おじゃましてます」

 七海はお昼から一九時まで休みをもらっている。近頃ずっと出勤続きだったせいなのか。いつもより少し老けて見えた。

「咲守ー、ママの分もー」

「はいよー。今作るから待ってて」

 七海の分を急いで作り終え、咲守はようやく席につく。すでに半分ほど無くなっているが、十分だろう。

 相変わらずおいしいね、という母の言葉を聞きながら、ピーマンの肉詰めに箸を伸ばす。いつもと変わらぬ味。たまには変えてみようかと考えていると、お祭りと同じような静寂が、再び彼を襲った。

 体が動かない。そんな中、咲守は目を見開いた。今度は大学生か社会人の女性が、七海のすぐ横に座っていた。

『……七海』

 波打つように聞こえる声。それでも何を言っているのかは分かった。

『あたし。……あたしの…………し――』

「やめろ!」

 七海に手を伸ばそうとした彼女に怒鳴った。

 怒鳴り声と机を思い切り叩いた音に驚いて、全員箸を止めた。

「どうしたの、咲守……」

 例の女性を睨みつけていた咲守だが、七海は自分が睨み付けられているのだと思った。

 我に返った咲守は、謝罪しながら席に着いた。

 夏海は怖かったのか、泣き出しそうだった。

「……本当にごめん」

 咲守は立ち上がって、すぐに家を出た。今すぐにでも確かめたいことがあった。


                ******


 咲守は息を切らせながら寺の境内に辿り着いた。直線の道を途中で曲がり、寺の脇の扉をたたく。

「おじさん!小治郎おじさん!」

 何度も扉をたたいていると、ガラッと扉が開いた。

「どうかしましたか、咲守君」

 咲守は小治郎に縋りつく。

「俺を、俺を診てください!祭り前から変な人を見るんです!さっきは母さんを襲う仕草をしたんです!寒気はあるし、音は消えるんです!お願いします。お願い、します……」

 異常なほどの恐怖を露わにする咲守を見て、異常事態だと察した小治郎は、すぐに咲守を招き入れた。

 寺の中へと入った咲守は、差し出された座椅子へ座った。楽にしてくれて構わない、という言葉で、脚を崩した。

「一体何があったのですか」

 咲守は震える唇で、言葉を紡ぎだす。

「祭りの数日前、校庭で光雅の太鼓の練習を見ていた時、中学生くらいの女性を見ました。その後、祭りの太鼓をビデオに撮っていた時、高校生くらいの女性が立っていました。その時、声が聞こえたような気がしました。今日は、大人の女性が、母さんの側で、母さんの名前を呼んでいました。その時、どれもが無音で、冷たい風が吹くばかりでした……」

 小治郎は静かに耳を傾けながら、メモを取っていた。ミミズが這ったような字が、紙の上を進む。

「……その人は、同じ人物でしたか?」

「……多分。最初は姉妹かと思ったけど。でも、なんか、こう……うまく言えないけど」

「魂が同じ。ということですか」

「……多分」

 小治郎は腕を組んで頭をひねる。三十秒ほど経った後、彼はおもむろに立ち上がり、黒電話でどこかへ電話をかけた。

「私だ。……ああ、丁度いい。今すぐ寺の方へ来てくれ。咲守君のことで話がある。…………今すぐだ。事情が事情なもんでな」

 小治郎は電話を切った。

「少し待っていてほしい。彼女は私より霊感がありますから」

 電話が終わってから二十分後、扉がガラッと音を立てて、思い切り開かれた。

「霊感少女!みんな大好き露樹お姉さん!どんな悩み事も解決しちゃうわよ!」

 作務衣を着た露樹は、顔の前でピースした手を目の前で横へ引いて、ポーズをとった。キラッという効果音が聞こえてきそうだった。

 ただ誰も反応を示してくれなかった。

 小治郎が咳払いをすると、露樹は恥ずかしそうに顔を赤くして、扉を閉めて、静かに開けた。

「父上、咲守さま、先ほどはお見苦しい姿をお見せしてしまい、大変心苦しく思います」

 土下座をして謝罪する。いまだに耳を赤くしている。

「……露樹、お前今年いくつだ」

「聞かないでくださいー」

 土下座をしながら頭を振る。

 可哀そうな人を見るような眼で、娘を見下ろす。咲守は瞼をパチクリさせながら、彼女のことを見ていた。

「……そんなんだから、彼氏に逃げられるんじゃ」

「外ではこんなことやらないわよ!」

 露樹が落ち着きを取り戻すのに五分はかかったが、とりあえず小治郎に話したことを、もう一度露樹へ話す。

「……幽霊ねえ。祭り前からってことは、帰ってきた人たちではない。今もいるということだし。となれば、地縛霊か、咲守君に聞いてほしいことがあって、上から降りて来たのか」

「つ、つまり?」

「咲守君に霊は取りついてない。ただ、声が聞こえるのなら、聞かせたい、聞いてほしい何かがある。その人、咲守君は知らないの?」

 咲守は首を横に振る。

「そう。まあ何か危害が加わったのならまた来なさい。恐らく大丈夫だろうけど」

 何か決定的な解決策を出されたわけではないので、もやもやは残るが、露樹の言葉を信じて寺を後にした。

 重い足で、長い階段を下る。顔を上げると、広い町と海が見えた。周りは山。風を遮るものがなく、時々強い風が辺りを襲う。風と一緒に、誰かの声も乗ってくる。

「咲守ー!」

 階段をかけて登ってくるのは光雅。汗だくで浅い呼吸を繰り返す。

「光雅……」

「なに、どうした。元気ないな」

「……お前さ、幽霊っていると思うか」

「そりゃいるだろ。神も仏も幽霊も。見えないだけでこの世には様々なものが存在してる」

「昔から言ってるな」

「昔から言われてきたからな」

 見えるものだけが真実ではない。嘘か誠かを見極めることが大切だ。幼いころからそう教わってきた。だから昔から、与えられた情報は逐一自分で調べ物をしている。

「お前まさか、見たのか」

 咲守は首を縦に振る。

 どのようなものだったのか聞かれて、小治郎に話したものを同じように伝えた。

「なるほど」

「何か分かるか」

 光雅は眼下に広がる町並みを見ながら、考える素振りを見せる。

「その人、身内じゃないのか?」

「……それ、露樹さんにも似たようなこと聞かれた。知り合いじゃないかって。でも見たことないんだよ」

「うーん……何かを伝えたい時って、大抵身内とか、霊感のある奴、関係が深い仲の人を選んだりするはずなんだけどなぁ」

 階段を下りながら、首をひねる。咲守の浮かない顔を見て、手をたたく。驚いた咲守は顔を上げた。

「家帰ったらアルバム見せてもらえ。お前たちのだけじゃなく、おじさんとおばさんの分もな。ずいぶん昔に亡くなった人なのかもしれない」

「俺が記憶している間には、誰も亡くなってないが」

「そんなの関係ない。親族の中でお前が一番霊力があるってだけだ」

「迷惑な話だな。オカルト世界みたいだ」

「オカルト嫌いだったか?」

「いや」

 怪しく迷惑な話だが、とにかく次やることは分かった。落ち込んでいる場合ではない。何か嫌なことが起こる前に、例のあの女性の正体を突き止めなくては。

 階段を下りきったところで、光雅の用事を尋ねた。何でも、光雅と小治郎の名前の由来を聞いたから、夏海の元へ行く予定だったところ、寺の方に咲守がいるということを聞いて、こちらに来たという。

 しばらく駄弁りながら津積家を目指している途中。小学校の裏手の森。どこからか聞き覚えのある子供たちの声がした。

 気になり草木をかき分け音のする方へ進むと、ガサッと顔が飛び出してきた。

「うわーーーー!」

「ぎゃーーーーー!」

 咲守たちが驚くと、相手も大声を出して驚いた。

「な、なんッ⁉」

 落ち着いてよく見て見ると、その顔は正義のものだった。

「……なんだ、正義か。何やってんだ、こんなところで」

「それはこっちの台詞だろう!お前さっさと家飛び出してずっと戻ってこないから。しょうがないから夏海のおじさん誘って虫取り」

 脈絡がないように思えるが、とにかく虫取りをしているらしい。夏の代表的なカブトムシなどはもう獲るのは難しいだろうが、蝶やバッタなどはまだまだ現役なはずなので、その辺りを狙っている。

「正兄!」

「うわあ!」

 今度は草陰から夏海の頭が飛び出してきて、またしても声を上げて驚いた。

「咲兄!どこ行ってたの?探したんだよ?」

「ん、ああ。ちょっと、寺の方にね」

「ふーん。あ、そうだ!お父さんすごいんだよ!どんどん虫を捕まえちゃうの!もう虫かごいっぱいで何回も逃がしたんだよ!」

「へー、おじさん結構すごいんだ」

「昔は虫取り少年だったからね」

 夏海の背後から、火実十が虫かごを肩から下げて現れた。

「咲守君たちもするかい?」

「え、いえ……」

 咲守は光雅と視線を交わした。光雅は少し顔を横に振った。

「今回は遠慮しておきます。やらなければいけないことがあるので」

 挨拶をして、咲守は光雅とともに家へ帰った。光雅は夏美に由来の紙を渡して、咲守の後に付いて行った。

「なあ」

「なんだ」

「光雅の名前の由来って、何だったんだ」

 まだまだ暑い八月後半の夏。学校の階段を下りながら、額の汗を拭う。

「光り続ける人になってほしかったんだと。いろんなものに興味を持って、好きこそものの上手なれ、って感じで好きなものに熱中して、それを輝かせていってくれ。だと。あと、正しい人になってほしいから」

「うーん……」

「なんだよ」

 咲守は何かを考える素振りをした。

「いや、同じようなことを言われて」

「父上にか?」

「いや、母さんから。俺の場合はいろんなものを守ってほしかったから。好きなものや好きな人を」

「……確かに似てるかもな」

 二人とも様々なものに興味を持ってほしいという理由は似ていた。ただそれだけで笑った。最近あった出来事を話しているうちに、幽霊のことなどすっかり忘れてしまっていた。

 ミンミンゼミがまだ鳴いている。ヒグラシに変わるまでにはまだ時間がある。

 家に帰ると、午前中出かけていた父親が帰ってきていた。

 お帰りと言われれば、ただいまと返すいつものやり取り。

「優美たちは虫取りに行ったぞ。会わなかったのか」

「……会ったけど、やることがあったから」

「宿題か?さっさと終わらせていればいいものを」

 ぐうの音も出なかった。夏休み始まって一週間当たりで、早く終わらせようと生き込んでいたわりには、咲守は四分の三、光雅は半分ほどしか終わっていなかった。夏休みもすでに半分を切っている。そろそろ本腰を入れなければ終わらないだろう。

「でもおじさん。宿題って最後の日にやるのが醍醐味だろ?」

 指をパチンと鳴らす。

「うん?まあ、七海はそう言っていたが。私は初めの一週間で終わらせていた」

 今の話を聞いて、光雅はふと思った。

「お前母親似なんだな」

「そうか?」

 母親似かどうかの話をしていると、蓮から、そんな話をしに来たのか?という質問が投げかけられた。そして思い出した。そんな話をしに来たわけではない。もっと重要なことがあったはずだ。

「そうだ。アルバムを見せてほしかったんだよ」

「アルバム?誰の」

「香坂家のです。どれだけ昔でも構いません。すべて見せてください」

 光雅が全てを話した。何故アルバムが必要なのか。今咲守が置かれている状況。咲守よりは光雅の方がより理解している。

「……幽霊?私はオカルト嫌いなんだが」

「オカルトじゃあありません。誰にでも起こりえる事象なんです。この世には幽霊も、神も仏もいるんです。だから信じてください」

 光雅からの一心な言葉。蓮は元から現実主義者だ。自分の考える非現実的な事柄にはあまり自分から進んで近づこうとしない。

「……まあいいか。息子の危機なのなら、光雅君の言うことを信じよう」

 蓮は立ち上がって、物置部屋と化している部屋へ向かう。咲守と光雅は急いで追う。

 部屋に入って襖を開けると、出てきたのは段ボールの山。手前も奥も、右も左も段ボール。探すのに骨が折れそうだ。

 アルバムを探すこと二〇分。ようやくお目当てのものが見つかった。

 表紙に書かれてたのは、咲守アルバム、優美アルバム、家族写真。の三つだった。

 当然のことなのだが、捲れど捲れど見知った顔ばかり。たまに知らない顔があるなと思えば、引っ越した蓮の先輩や、すでに亡くなった近所のおばあさんなどだった。

「ないー!」

 咲守は叫んで勢いよく床に倒れた。

「なあ父さん。本当にアルバムはこれで全部なのか」

「咲守が関わっているアルバムはこれで全てだ」

 咲守は多く溜息をついた。やはり全てオカルトの類だったのか。光雅や露樹が嘘をついているとも思えないが、ここに何もないとなると、道筋が断たれてしまうのではないか。そう思えて仕方がなかった。

「おじさん」

 今まで黙ってアルバムを確認していた光雅が口を開いた。

「おじさんかおばさんの、古いアルバムありませんか?それか、今まで亡くなった親族の写真とか」

 何を言い出すのかと思った。蓮は亡くなった親族の写真、という言葉に引っかかり、光雅を怒鳴りつけようとしたが、彼の目が真剣そのもので、確かに咲守を助け出したいという強い想いが伝わってきた。

 蓮は深い溜息をついて、少し嫌そうな表情をしながら、物置部屋を出て行った。

 蓮に付いて行くと、そこは彼と七海の寝室だった。

 扉を開けると、整った心室が姿を現した。

 蓮は部屋のクローゼットを開けて、再びアルバムを探す。

 クローゼットにアルバムが入るような箱は少なかったので、探すのに苦労はしなかった。

 三つあったアルバムの内、一つは蓮と七海のもの。一つは結婚する前の香坂家のアルバム。もう一つは七海の旧姓、佐々木家のアルバム。咲守は香坂家のアルバムを手に取って、表紙を捲り、一枚目の紙も捲る。初めに出てきたのは白黒写真。恐らく香坂家のものだと思われる写真だった。表札に香坂と記されていた。

「これ、だれ」

「オレの親父。つまり咲守のじいじの家族写真だ」

 おそらく一番若く映っている男性がそうなのだろう。

 いくつか頁を捲っていくと、今まで写されていなかった女性が映るようになっていた。

「この人――」

「へー、結構な美人だな」

 光雅が身を乗り出して、アルバムを覗き込む。

 咲守は黙って頁を捲る。恋人になった記念の写真。相手の家族と挨拶をして、認めてもらった写真。結婚式の時の写真。後半は新たな香坂家の写真となっていた。

 アルバムを見ていた咲守の手が震えだした。

「どうした」

 不審に思った光雅が声をかけると、咲守はゆっくりと写真に指を差した。

「…………この人」

「え?」

「この人だよ。俺の見た人」

「この美人か?」

 光雅の問いに、咲守は頷く。

「その人は私のおふくろだ。名前は麗香。母さんも会ったことがないほどに、早くに亡くなったんだ」

 家の仏壇にも写真が飾られていないので、咲守と優美は見たことがない。始めて見たばあばは、幸せそうな顔をして、静と腕を組んでいた。

「この方、いつお亡くなりになられたのですか?」

 聞いたことのない光雅の丁寧語に驚いた蓮は、一瞬言葉に詰まる。

「……私が、高校生の時だから……三七くらいだ」

「どのような方だったんで?」

「近所から評判の大和なでしこだったよ。気が強くて淑女の見本みたいな人だった。いろんな男から告白されたらしいけど、その中でも親父が一番輝いて見えたって」

「何故その若さでお亡くなりに?」

「癌だよ。乳癌。二〇代の時に発覚して一度治療したんだけど、再発して治療虚しく亡くなった」

 最後は笑っていた。静と蓮と衛と共に生きることができ、この上のない幸せだった、と言い、最後にはお礼を言って亡くなった。

「でも、そんな人がどうして霊体になって、今頃現れたんだ。咲守なんて写真も見たことがないんだろう?」

 光雅の質問に首を縦に振る。

「光雅には分からないのか」

 光雅は腕を組んで唸る。

「こればっかりは個人の考えだからなあ。ただ今回声がはっきり聞こえて、それを相手に示したのなら、次は咲守に話しかける、っていうことは十分にあり得る。だから、次声が聞こえたら一度聞いてみな」

「でも……」

「姉貴はなんて言ってたんだ」

 咲守は俯いて思い出す。顔を上げると、光雅の、寺の行事でしか見ないような真剣な顔がそこにあった。

「……大丈夫だって。危害が加わるようならまた来てって言われたけど。それでも大丈夫だと思うけど、って」

「じゃあ大丈夫。怖いかもしれないが、一度話を聞いてみな」

 咲守は少し間を置いて頷いた。

 片付けは後にして、先に玄関に向かった。

「咲守、明日の約束時刻、覚えてるよな」

 靴を履き終え、玄関先まで出た光雅に言われ、一瞬何のことだか分からなかった。

「ああ!花火大会か。勿論。七時に小学校の校庭だろ?忘れるわけないって」

 この時期に打ち上げられる花火は、あの世へ帰ってしまった先祖たちにお礼を言うために上げている。天国なら奇麗な花火が。地獄なら花火特有の音と煙の臭いが届くはずだと、

 どちらにも思いが伝わるように、とはじめられたものだ。

 光雅が帰った後、アルバムを片付けて、優美が帰ってきて、いつもの日常が帰って来た。

 夜になり就寝する時間が来た。一人になると急に不安になってきたが、露樹と光雅に大丈夫だと言われたのだから、安心して就寝しよう。そう自分に言い聞かせた。

 布団に入って、すっかり寝息をたて始めた頃。それは突如に現れた。

 瞼を開けると、そこは暗闇だった。ただ奥に小さな陽が見えた。そこに向かって無意識に歩いていく。呆然とする頭で。何も考えることなく。何かに導かれるようにして、歩みを進めていく。

 闇の中の陽に触れると、一気に視界が輝いた。眩しさに瞼を瞑り、慣れてきた頃に開けると、そこは一面の菜の花畑だった。驚きと微かな恐怖で足が動かない。

 いつからそこに居たのか。彼女はそこに居た。横顔は少し老けているように見えた。

『…………静。……もう、少し。もう少しだけ。まだ……来ては……』

 ずっとじいじの名前を呼んでいた。咲守は恐怖よりも不安と寂しさを覚えた。心に穴が開いたような気持ちだった。

『咲守……』

 名前を呼ばれてドキッとした。

『静…………会って――』

 何かを言おうとした彼女の声は、強風によって遮られた。

 目を覚ますと、大量に汗をかいて、かすかに涙を流していた。



 結局あの後眠ることができなくなり、部屋の電気をつけて、ずっとお気に入りのジャズを聞いていた。

 翌朝、階段を下りて一番に七海と会った。

 彼女は驚き、咲守の顔を両手で挟み込んだ。

「どうしたの咲守。目、真っ赤じゃない。微かに疲れも見えるし。夜に何かあったの?」

 咲守は七海の手を振る払い、何でもないと、居間の方へ足を進めた。

 全員で朝食をとっていると、咲守がおもむろに口を開いた。

「今日、じいじのところに行こう」

 三人は咲守を見て、次にお互いの顔を見合わせた。

「何言ってんだ。咲守、今日部活だろう」

 確かに今日は部活が一日ある。それでも行かなければならない気がした。今日は日曜日。蓮は休み。七海も夜勤なので午前中は十分に時間がある。

「行かないとダメなんだ」

 咲守の中で誰かの台詞が反芻する。

『静…………会って――』

「絶対に、今、会わないと……」

「虫の知らせかしらね」

 七海はそういって立ち上がり、食器を手に取って台所へと向かった。

「虫の知らせって、じいじに何か起きるの?嫌だ、そんなの」

 優美は急に不安になる。

「人間にそんな、虫みたいなものあるわけないだろ」

「あるよ」

 言い返したのは七海だった。

「あなたはそういうの嫌いだろうけど。でもある。この世には不思議なことも、不可思議なことも、全て存在している。第六感っていうでしょう?」

 食器を洗いながら、本気で淡々と言う。

「……私が言っても聞かないのなら、好きにすればいい」

 蓮には分からない何かがあるのだろうと。周辺の不思議な空気に飲まれて、すぐに引き下がった。

「先生には連絡していきなさい。それと光雅君にも」

「分かってる。全員で行こう」

 もうだれも反対しなかった。

 朝食を食べ終え少しして、光雅が迎えにやって来た。事情を話して今日は部活を休むことを伝えた。

「分かった」

 光雅の返事は早かった。まるで分っていたかのように。

「あの先生うちの檀家だし。オカルトとか超常現象とか好きな人だから、すぐに分かってもらえるよ」

 安心した咲守は、花火にはいくことを伝えて、光雅に礼を言って別れた。


                ******


 車を走らせ病院に着いた。受付を通して静の居る病室まで来た。

「失礼します。じいじ」

 病室にいた静は、静かに寝息をたてていた。

「静さんは常に元気ですよ。お変わりありません」

 付いて来た介護士が言う。担当の介護士との楽しい話。担当医との健康状態の話。いつも楽しそうに様々な人と話をしているという。

「先ほどご飯食べて眠くなったのですよね。いつも一時間後には起きますよ。では、私はこれで失礼します」

 介護士は礼をして部屋を出て行った。

 静が起きるまでなんてことはない話をしていた。咲守の部活の話。優美の話。七海の助産師としての仕事の話。蓮の取引先との面白話。様々なことを話した。

 時間にして三〇分ほどして、静は目を覚ました。何度か唸り声を上げ、徐々に瞼を開ける。

「おはよう、じいじ」

「んお。……ああ、咲守。……ん?どうした、皆勢ぞろいで」

 静は辺りを見渡して驚く。

「俺が言ったんだ。今日ここに来て、じいじに会おうって」

「おふくろに会ったんだと」

 蓮が言うと、静は勢いよく上体を起こし、咲守の腕を掴んだ。

「どこで会ったんだ」

「夢、というか。霊体、というか」

 霊体と聞いて、静は顔を沈めた。静も現実主義者で、霊や超常現象などの非現実的ものにはてんで付いていけない質だが、さすがに妻が亡くなって現世にとどまり続けていると聞くと、心配にもなる。何か後悔があるのではないか。心配事でもあるのではないか。様々な憶測が脳内を駆け巡る。

「なにか言っていたか。どんな様子だった」

 静は眉尻を下げて、不安げな様子で尋ねる。

 咲守は父親、母親と視線を交わす。父親は目を逸らせたが、母親は静かに頷いた。

「……じいじの名前、呼んでたよ。まだだって。もう少しって。よく分かんなかったけど」

 静は安心したような、しかしどこか心配を拭えないような顔をしていた。

「……そうか。もうすぐか」

 ぽつりと呟いた言葉は、誰の耳にも届かなかった。

 静の態度は変わり、何やら楽しそうに病院生活について語ってくれた。それからお互いのこの夏休み出来事。たくさん。本当に、ここ最近の出来事を、楽しかったことも、苛立ったことも、泣いたことも。ほとんどを話した。静は笑っていた。咲守も優美も蓮も七海も、全員が笑っていた。こんな時間がずっと続けば、とても幸せなのだろうと思った。それだけ咲守は幸せだった。


 話をしていると、いつの間にか十二時のチャイムが鳴る時間になっていた。何故か咲守の心臓がはねた。何故かは分からないが、胸騒ぎがした。

「もう昼か」

 蓮が言う。

「もう二時間も経ったのね」

 七海は病室の時計を見ながら言う。

「もう話すこともないし、帰ろっか」

 優美が言った。もう全員が帰ろうという気持ちでいたが、咲守だけは、まだ何かが足りないような気がしていた。何かが足りない。ただそれが何かが分からない。

 咲守が冷や汗をかいて黙って俯いていると、様子を察してか、静が彼に声をかける。

「咲守」

 咲守は呼ばれて顔を上げた。表情はどこか心配そうで、何か恐怖を抱いているようだった。

「私が亡くなったら、物置部屋へ行ってからくり箱を開けなさい。特別大きいやつだ。その箱と中身は全て咲守にやる。大切にしてくれ」

「お義父さん!そんなこと言わないでください!」

 自分が亡くなったら、なんて言葉、誰からも、特に身内からは聞きたくない。そんなことを言えば、今すぐにでも、本当にいなくなってしまいそうで、怖くなってしまう。

「悪かったよ、七海さん。それじゃあ、皆元気で」

 咲守以外は椅子から立ち上がった。

「行くわよ、咲守」

「……ん。もう少し」

「じゃあ、先帰ってるから」

 咲守は生返事を返した。

「咲守、帰りなさい」

 静は咲守の肩を抱いて、優しく諭す。

「私は大丈夫。なに、これは遅いか早いかだけの違いだ。生き物皆何時かそうなる。お前が麗香に会ってここに来たということにはきっと意味がある。少なくとも私はこの時間が楽しかった。これが最後ならば、悔いはないだろう。だから、もっと今の時間を大切にしなさい」

 咲守は顔を伏せたまま立ち上がった。

「……元気でね。釣りの約束、忘れんなよ」

「ああ、もちろん。あ、それから」

 咲守は小首を傾げた。

「私の葬式の進行は光雅にやってほしい。と、伝えておいてくれ。小治郎と一緒で構わないから」

 それを聞いて、咲守はいつもの顔を向けた。

「うん。分かった。伝えておく。またね」

 咲守は元気な笑顔を向けた。そしてそれだけを言って、足早にその場を去った。扉を閉めるとき、見覚えのある女性が、静のベッド横に居た気がした。


 駐車場まで戻ってくると、家族が待っていてくれていた。車に乗り込むと、さっそく車が走り出す。坂を下って二車線道路に出る。

「このままどこかで、お昼済ませましょうか」

「そうだな。何が食べたい」

 蓮が子供二人に尋ねる。

「わたしたまにはファミレス行きたい。それで、ビーフシチューのかかったオムライス食べたい」

 優美は久しぶりの外食に心躍らせる。

「咲守は何が食べたい」

 バックミラー越しに、蓮が尋ねる。

「……うん」

 咲守は窓の外を眺めながら、心ここにあらずという様子で返事をした。

「咲守!」

 一向に気持ちが戻らない咲守の様子を見て、呆れた七海が咲守の名前を強く呼んだ。驚いた咲守は肩を震わせた。

「あなたがそんな様子じゃあ、じいじも悲しむでしょう?じいじに元気でいてもらいたいなら、まずあなたが元気でいなさい。それが今は一番よ」

 七海が言うことはもっともだった。咲守と話している静は、時々心配そうな顔を向けた。それが嫌で、咲守は笑顔を向けた。麗香のことを時々忘れては思い出す。それを繰り返してしまっていた。

「うん。ごめん。今、じいじに電話してもいいかな」

「いいわよ。まずは私から介護士の方に連絡するから。そうしたら向こうから連絡が来るから、それに出て」

「分かった」

 七海は知り合いの介護士の女性に電話をかけた。仕事中にごめんね、と。その後すぐに電話がかかってきて、自分は元気だと。さっきはごめん、もう大丈夫、だと伝えた。その声は、誰が聞いてもいつもの元気な咲守のものだった。静も安心したのか、咲守に負けないくらいの声を張り上げた。

 雑談をしながら車を走らせること三十分。よく行くファミレスについた。優美は先ほど言っていたオムライス。咲守はハンバーグとエビフライプレート。七海は海鮮パスタ。蓮は三種のチーズインハンバーグ。食べながら会話する様子は、傍から見ても微笑ましかった。咲守も十分に楽しめた。久しぶりの外食に心躍らせ満足した後、急に部活を休んだことへの後ろめたさが襲ってきた。しかし、先生も分かってくれるだろう、と光雅が言っていたので、今はあまり気にしないようにした。


                ******


 日がもうすぐ沈む時間。光雅との約束があるので、咲守は小学校へと急ぐ。

 走って来た小学校に、光雅はまだ来ていなかった。その代わり、校庭の隅には彼女がいた。麗香だ。また少し年を取ったような風貌に、薄紫の着物がよく似合っていた。

 かいていた汗はすぐに乾き。切れていた息もすでに整っていた。

 麗香は咲守に気が付いたのか振り返り、柔らかい笑顔を見せた。今なら彼女に魅了されてきた男性たちの気持ちもわかるかもしれない。そう思えるほど美しく、端麗であった。

 少し視界が揺らんだような気がした。

 一歩。また一歩足が前に出る。何かを言わなければならないような気がした。何か伝えなければ。ただそれが何なのかは分からない。

 彼女は手招きする。妖艶な笑みを浮かべて、濃くなった紫色の着物の袖をつまんで手招きする。

 本当に伝えるのは彼女でいいのか。伝えなくてはいけないのは祖父だったか。父だったか。それとも母か。もしくは妹か。何か。何でもいいから――。


 ――ここから逃げなくては。


「咲守!」

 聞き慣れた声と、掴まれた肩の痛みで我に返った。

「お前大丈夫か?」

「……光雅」

 そこに居たのは幼馴染だった。そして七海もそこに居た。心配そうな様子で、しかし胸を撫で下ろしたような安堵した表情をしていた。

 七海は急いで咲守に近寄り、息子の腕をしっかりとつかむ。

 何が起こっていたのか分からない。自分は一体何をしていたのか。呆然とする頭で考えを巡らせる。

「俺、なんで。母さんは、どうしてここに」

「仕事に行こうとしたのよ。ついでだから小学校に行った咲守の顔を見て行こうと思って。そうしたら咲守、学校の裏手の方へ覚束ない足取りで進んでいくんだもの。おかしいと思って急いで止めに入ったけど、咲守とは思えない。いいえ、人間とは思えないほどの力で進んでいくから、私怖くて。でも咲守を止めないと、もう二度と会えないような気がして」

 七海は少し泣きそうになっていた。それは恐怖と安堵の両方から来るものだった。

「オレも初めはびっくりしたよ。おばさんが咲守に抱き着いてなんかしてるんだからさ。香坂家で流行ってる新しい遊びかと思った」

「それはないけど」

 咲守が冷静に答える。

「でも助かったわ光雅君。あなたがいなかったら、咲守は今頃連れて行かれていたかもしれないから。ありがとう」

「良いんですよ。オレもあれを止めないわけにはいきませんから」

 七海は安心した様子で病院へと自転車を漕がして行った。

「さて」

 光雅は咲守へ体を向け、改まって質問を投げかける。

「何があった」

 花火大会まではまだ時間がある。咲守が話を始める前に、木陰に移動する。

「……麗香さんが、いたんだ」

「またか。その人、どういう風貌だった、年とか、恰好とか」

 咲守は思い出せる分をすべて話した。途中で着物の色と、雰囲気が変わったような気がしたことも。

「それ、本当に本人だったのか?」

「どういうことだ」

「偽物が化けてたんじゃないかって話。よくあるだろ?仲間だと思っていたやつが、いつの間にかそっくりな別人に成り代わっていた。とか」

「あー、ドラマとかで?あったような気がする」

「そうそう。それか、何らかの拍子に、本物が偽物とすり替わっていた。とか。今回着物の色が変わってたのなら、そっちの方が可能性はあるか」

 考え込む光雅に何も言うことがなくなり、自然と会話が途切れた。

「よし」

 光雅は気合を入れるように声を出し、立ち上がった。

「そろそろ行くか。いい場所とられちまう。話はまたそれから。な」

「ああ。そうだな」

 咲守も立ち上がり、歩みを進める。

「寺のある山ってさ、昔から悪霊がいるって言われてきてる。その悪霊を納めるために、寺を建てたって。戦があったり、飢餓があったり、疎まれ者だったり。理由はいろいろあるが、死体を捨てられたり、山に置き去りにされたり」

「ひどいよな」

「オレは単純にそうとは思わない」

 咲守はなぜかと問う。

「そう思えるのはオレたちが今を生きているからだ。病気はほとんどが治せる。飢餓はない。戦も今の日本にはない。する奴はとんでもないやつだ、って、今なら誰だっていう。でもそれって、今を生きているからだろ?たまに今の考えのまま昔に当てはめる奴がいるが、それって危ないことなんだよ。オレだって、可哀そうだと思うことだってあるが、でも何も知らない。だから人でなしだとか、ひどいとかは、言う資格はないんじゃないかと思ってる。」

「……おまえ、そういうところ厳しいよな」

「昔からの教えだからな」

 知らないことには口出しするな。知ってから意見を言え。そう言われてきた。それは自分の言ったことに責任を持てるようにするため。嘘を吐くなとは言わない。嘘も方便なのだから。ただ言葉は魔法で、生きていることを覚えておくこと。そうすれば、自ずと言葉に責任を持てるようになるだろう。そのようなことを言われてきたのだから、少なからず、言葉の重さは知っている。

 こんな暗い話は切り上げようと、光雅は今度の文化祭についての話を始めた。咲守のクラスは駄菓子屋だ。お菓子だけでなく、占いやシール、塗り絵に竹とんぼ。本物の駄菓子屋に似るように教室内も造り替えるつもりだ。

 光雅のクラスは演劇。オセロをやることになっている。

 文化祭と部活の話をしていると、花火会場の海の手前の高台まで出て来ていた。紺色の太平洋に、かすかに月と星が光る。すでに通行規制された道路とその近くの階段、高台は人でいっぱいだった。

「大会何時間前」

「二時間」

「いつも通りだー」

 咲守は手すりに掴まったまま腰を下ろした。

「仕方ない、いつものところ行くか」

「そうだな」

 立ち上がって、二人の秘密の場所へ向かおうとした。

「お兄ちゃん」

 声をかけてきたのは優美。何やら浮かない表情だ。

「どうした。元気ないな」

「なんでもない。わたしも一緒に行ってもいい?」

 咲守は優美の態度が気になったが、断る理由もないので承諾した。

 咲守たちの秘密の場所は、高台のさらに高いところの雑木林。夏は虫が多く花火会場から少し遠くなるが、誰も近寄らない絶景が見られる場所だった。

「遮るものが何もないから見やすいだろ」

「うん。真っ黒で、何でも描けそうな画用紙」

 普段の優美なら絶対に言わない言葉を聞いて、さすがに見過ごすわけにはいかなくなった。

「なんかあっただろ」

 優美は膝を抱え込んで姿勢を丸めた。

「友達関係だろ」

 優美の肩が僅かに震えた。

「……なんで」

「お前、今年の夏ずっと家にいただろ。出かけても一人だった。父さんも母さんも心配してたぞ。家では普通に振舞ってるけど、一人になると、ふと寂しそうにしていた。って」

 優美は涙をこらえた顔を咲守へと向けた。

 一瞬驚いたが、咲守は海を見ながら言う。

「帰ったら愚痴でも悩みでも何でも聞くから。落ち着いたら兄ちゃんの部屋に来い。な?」

「……うん」

 優美はいくつかの涙をこぼした。

「いいなあ!」

 光雅がわざとらしい大声を出した。

「なんだ。どうした」

「オレの兄貴は絶対にそんなこと言わない」

「そうなの?」

「ああ。兄貴は女の子には優しいが、男には厳しい」

「でも弟だぞ?」

「俺が優美ちゃんみたいなこと言ったって。で、何?って言われるのが落ちだよ。基本は優しいんだけど、言うタイミング間違えると本当に相手してくれなくなるからさ。ここ見極めが大事」

「じゃあ露樹お姉ちゃんは?公博お兄ちゃんはどう接するの?優しいの?」

「姉貴を女の子として見てはないけど、逆らったら怖いから従順になってる。うちの女連中は怖いから逆らうな。っていうのが兄貴の口癖だった時期があった。ヤンキーだった兄貴がだぞ?面白いだろ」

 優美には優しかった公博がヤンキーであったことを知り、女性に優しかったことを知り、身内の女性には弱いことを知った。優美の今までのイメージは崩れたが、それだけのギャップが面白く、くすっと笑った。

「そうね。すっごく面白い。ありがとう、光雅君」

 光雅の優しさに触れ、気持ちが少し落ち着いた。

 遠くの浜辺で、マイクを通した声が微かに聞こえた。もうすぐ始まる。死者を弔うための花火が、夜空と大海を色とりどりに染め上げていく。

 ピューという種が昇っていく音と、ドンッという大輪が咲いた音。夏の音と言えば風鈴や蝉、太鼓や盆踊りなど様々なものがあるが、咲守は花火の音が一番好きだった。腹の底から震える音と、見る者を圧倒する花弁。見るだけで、力と勇気が湧いてくるような気がしてならない。

「たーまやー!」

 光雅が声を張り上げて叫ぶ。香坂兄妹にニカッと笑う。

「かーぎやー!」

 彼の意図をくんだ咲守も声を張り上げて叫ぶ。一人取り残された優美は、何を叫ぼうかと悩んで。

「香坂家ー!」

 自分の家の繁栄を願うために叫んだ。

「ゴロわるー」

 咲守の肩から一気に力が抜けた。

「だって、他に思い付かなかったんだもん」

「なら、弓削家の方がいいだろ。弓削は二文字だ」

「自分で言っとけ。俺たちは弓削の家のものではないんでね」

「けちくさー。いいじゃんか別に」

 談笑しながら花火を見る。なんて夏らしくて楽しい時間なのだろう。こんな時間が長く、永遠に続けばいいと思った。夏で花火でなくてもいい。秋で栗拾いでも。冬で雪合戦でも。春でお花見でも。ただ寝転んで駄弁っているだけでも。ただ些細なこの幸せが続けばいいと、咲守は頭の片隅で思い、花火に願った。

 一時間の打ち上げ花火の後、空には大量の煙が残った。

 草木をかき分けて帰る道中、咲守のスマートフォンの着信が鳴った。二人に先に行っていてくれと伝え、電話をとる。

「もしもし、母さん?」

『もしもし、咲守?今すぐに病院へ来て』

「……は?なんで?」

『いいから来なさい』

 有無を言わさない圧力があった。

『いい?産婦人科のところじゃなくて、介護施設のある病棟の方よ』

 介護施設と聞いて、一瞬脳裏に嫌な思いが浮かんだが、すぐさまそれを振り払った。

「分かった。すぐに行く」

『父さんには伝えてあるから、途中でのせてもらいなさい。病棟の方には話し通しておくから』

「ああ」

 電話を切って、咲守は優美たちのところへ急ぐ。

「おい、優美……。誰だ?」

 雑木林を抜けた先にいたのは、優美と光雅と女子三人。

「また男が来た」

「あらやだ。優美ったら二股。いっけないんだー」

 女子たちはくすくす笑う。優美は視線を逸らせて黙っている。

「おい、優美」

「……お兄ちゃん」

「病院行くぞ」

「え、今から?」

「ああ。それと――」

 咲守は女子たちに向かって言い放った。

「俺はこいつの兄だ。これ以上優美に手を出すな。ほら、行くぞ」

 優美は腕を引っ張られて、急ぎ足で蓮の運転する車まで向かう。恐らく下の道で待っていてくれているだろう。

「なあ、君たち」

 咲守たちが遠ざかり、女子たちもつまらなさそうに去ろうとしたが、光雅に呼び止められ、足を止めた。

「ちょっとさ、オレとお話しない?」

 彼女たちの優美への態度に、イラつきを覚えていた。



「ねえ、どうして病院に行くの?」

「介護施設のある病棟に来いって」

 優美の顔が沈んだ。朝の出来事と照らし合わせると、どうしても嫌な考えが過ってしまう。

 下の道路まで出て、蓮の車を探す。しばらく速足で進んでいると、後ろからクラクションの音が耳をつんざいた。

「咲守!優美!やっと見つけた」

 運転席から蓮が顔を出した。背後を確認してから車を止める。

「花火大会の場所から大分離れたところにいたな。すぐに乗れ、もう行く」

 咲守と優美はすぐに車に乗り込んだ。

 法定速度を守りつつ、急いで車を走らせること数十分。病院に着くと、駆け足で介護施設のある病棟へ入る。面会手続きを取り、静の居る病室まで急ぐ。

「じいじ!」

 扉を開けて中へ入ると、何人かの医師と介護士たちが顔を伏せて、その場に立ち尽くしていた。

「……やあ、咲守君」

 五十代と思われる医師が、蓮を見て改めて挨拶をした。

「こんばんは、香坂さん」

 医師たちの、平然と無理に取り繕うとする表情を見て、なんとなく察してしまった。

「……もう、駄目ですか」

「はい。ほんの二十分前です」

 その後も色々話をしていたような気がするが、咲守と優美はほとんど覚えていなかった。



 翌日は、親族が慌ただしく書類の準備や葬式の手続きなどを行っていた。

 咲守は、朝はずっと布団の中でうだうだして、昼間になって居間に降り、昼過ぎた現在、防波堤で釣りをしていた。

「釣れますか?」

 誰かが声をかけて来た。

「いえ……」

 そんな返事しか返せなかった。

 今自分が何をしているのかすらも朧気で、このまま空しさと共に何もかも投げ出してしまいたかった。

「なあ、オレだって気づいてないだろ」

 声のする方へ顔を向けてみると、そこには見知った幼馴染の姿があった。

「……ああ、光雅」

 咲守はすぐに視線を戻した。

 光雅は静かに隣へ座る。しばらく波の音を聞いていると、咲守の方から話を切り出した。

「穴が開いたんだ。大きな穴が。心にぽっかり穴が開く。なんて表現、いつ使うんだよって思ってた。でも、こんな身近で起こることなんだなって」

 咲守は一度深い息を吐いた。

「一日でこんなに変わるもんなのか?人はこんなにもすぐに、命尽きるのか?」

 竿の先端が少し揺れた。

「人だけじゃない。命と定義されるものを持つ者は皆そうなる」

 動物も植物も魚類も昆虫も。生きとし生けるものは全て平等に産まれ、平等に死んでゆく。そうでなければ全てが止まってしまう。何も進化しない。その一つが終わればすべてが終わる。そうならないために命は繰り返し、この地球を作っている。

「光雅は、全てを受け入れるのか?」

「人生の?」

 咲守は肯定する。

「さあな。なんたってオレはまだ高校生ですから。でも最後には受け入れる。きっと。ほとんどの人がそうだ。親族や仲のいい人が亡くなって。初めはみんな悲しんで、一通りやること終わって。最後に、あんなことがあったな。って、笑顔で亡くなった人の思い出話をして、ちょっとしたことでふと悲しくなって。でもそれを受け入れて生きていく。檀家のほとんどがそうだった」

 光雅はペットボトルの水を喉の奥へと流し込む。

「……ひとつ」

 咲守は竿をしゃくる。

「なんでもいいんだけど。光雅の印象に残ってる、檀家の話ってないか」

「なんでもいいなら」

 光雅は小学生の頃の話を始めた。


               ******


 檀家に一人の娘がいた。彼女は高校生だった。祖母が亡くなって、大変悲しんだ。毎年夏には墓参りへ赴いた。それは遠くの大学へ行っても変わらなかった。毎年同じ時期、同じ時間にやってくる。

 光雅は尋ねた。

「どうしていつも悲しそうなんだ?」

 娘は答えた。

「大好きだったの。光雅君はそんな経験ないかもしれないけど。でもいつかやってくる」

 墓参りを終えた娘は、少しすっきりした顔をしていた。

「ねえ、一つ。お願い聞いてくれる?」

 光雅は元気よく承諾した。

「私ね、遠くの町で働くことになったの。お仕事おやすみあんまり取れないから、この時期にここに来る機会も減っちゃうかも。だからね、この時期のお墓参り、光雅君に任せてもいいかな?」

「親族がやらないと意味ないんだぜ」

 娘は軽く笑う。

「そうかもね。でも、さっきおばあちゃんに言ったら、いいよ、って、言ってたよ?」

「えー、本当かよ」

「ほんとほんと」

 娘はそういうが、光雅は納得していなかった。それを見た娘は、何かいい案は無いかと、空を見上げる。

「あ、そうだ。じゃあ、お姉ちゃんが何でも一つ、願いを叶えてあげる」

「なんでも?」

「そそ。なんでも」

 光雅は悩んだ。何でも、一つだけ。何にしようか。小さな脳みそを回転させる。光雅が今一番してほしいこと。

「……手紙」

「何?」

「手紙交換しよう」

「文通かな?そんなことでいいの?欲しいお菓子とかあったら買ってあげるけど」

「ううん。手紙がいい」

「……そう?じゃあそうしよう。光雅君、どんなことを書いてくれるんだろう」

 楽しみだなあ。娘はそう零した。それが小学生の内の、娘との最後の会話だった。


               ******


 身近な人の死程悲しいものはない。それも大好きな、何時までもいてくれるだろうと思っていた人ほど、その時のショックは大きい。

「その人って、初恋だって言ってた人?」

「そうだけど。今は別に何も。あの人今三十くらいだろ。最後に会ったのは去年の冬だよ」

 聞いてはいないが、話を始めたので静かに耳を傾ける。

「何回か転職して、今北海道にいるんだってさ」

「そうか」

 竿をしゃくって返事を返す。

「なあ!元気出せ」

 光雅が勢いよく肩を抱いて来る。勢いが強すぎてバランスを崩すが、何とか持ちこたえる。

「すぐには無理だけどさ。忙しなく生きてたら、辛いことって意外と忘れるんだ」

「お前そんなに忙しいのか?」

「姉貴が言ってた」

 実際嫌なことがあっても、忙しい時はそれのことは考えられないわ。と、露樹はよく言っている。光雅は言われてからそれに気が付いた。嫌なことはずっと忘れられないだろうと思っていたのに、露樹が言ったことを意識してみると、確かにふと思い出すようなことの方が多かった。

「でもさ、嫌なことを思い出すってことは、次それを回避するためのものだと思うんだよ」

「じゃあ、今回みたいなのは?」

「大切で忘れたくないからだろ」

 それは単純な答えだった。人間の機能の問題ではなく、想いと心がそう思っている。

「……少し、気が楽になったよ。やっぱ誰かに話すって大事だな。一人で抱えてると億劫になる。気分も晴れないし」

 咲守は釣り糸を引き上げ、釣り針の先にゴカイを付け、再び投げ込んだ。

「そういえばさ、じいじが光雅に葬儀の進行任せたいって」

「……は?それ本当に言ってたのか?」

「ああ。おじさんと一緒でいいからって」

「オレまだ僧侶でも住職でもねえんだけど。いいのか?」

「じいじが良いって言うんだから、いいんだろ。後はおじさんに任せるよ」

 光雅は腕を組んで考え込む。進め方は知っている。何をしなければいけないのかもわかっている。幼いころから教わって来たから。

 ただ、得度を受けたことはない。認められたわけでもない中途半端な人間が、住職、僧侶の真似事などしていいものなのか。そんな考えが巡る。

「こんなとこで何してんだ。釣りか?」

 ぶっきらぼうな声が真後ろから聞こえて来た。

「公博さん。ええ、釣りです。公博さんは?」

「俺はただの散歩だ。んで、光雅は何で唸ってるんだ?」

 滅多に頭をひねる姿を見せない光雅を見て、公博は首をかしげる。

「じいじが自分の葬式進行してくれと、頼んだんです」

 それを聞いた公博は、口角を少し上げた。

「はーん。なるほど。仏教の心得はあるけど、得度は受けていない。そんな自分がしてもいいのかってところか」

 光雅は組んでいた腕を解いて、股の間に力なく下ろす。眼下の海を見つめたまま、光雅は公博にモヤモヤをぶつける。

「死者に失礼だろ。こんな中途半端なオレが葬儀の進行、関わりを持つなんて。静じいさんはいつも、親父……父上の話を、教えを、経を聞きに来てくれるくらい熱心だったんだ」

「じゃあ聞くが。それだけ俺たちの寺を、弓削の家を大事に思っていた静の大爺さんが、中途半端な気持ちでお前に最後の願いを頼むと思うのか?」

 光雅は公博へ振り向く。その顔は、なんとも言えない顔をしていた。

「死者のことを愚弄し、死体蹴りし、憐みもせず、最後の願いも聞きえれられない。そんなの、人じゃねえだろ」

 光雅は目を丸くする。人じゃないとまでは思わないが、人でなしだとは思った。この願いは、光雅に厳しく当たっていた静本人からの、最後の願いなのだ。

「……最後までやり遂げたら、喜んでくれるかな」

「さあな。死人に口なしだ。俺は分からねえ」

「じゃあ。最後までやり遂げたら、認めてくれるかな」

 熱を持った瞳を公博へ向ける。覚悟が決まりそうな瞳に、公博は短く笑って返した。

「さあな!――ただ!そこの幼馴染は喜んでくれるだろ。祖父の願いなんだ」

 光雅が咲守の方を向くと、彼は力強く頷いた。

「……分かった。オレ、親父に相談してくる」

「そうそう。初めは何でも相談だ。それすりゃあ、第一歩は踏み出せる」

「進路相談も結果も誰にも教えずに家を飛び出して、半年間行方不明扱いを受けていた兄貴がそれ言うんだ?」

「忘れてろそんなこと」

 公博は片目の瞼を半分閉じ、不機嫌そうな視線を光雅へ向ける。

「あったなそんなこと」

 咲守が言う。この町の人ならばほとんどの人が知っている。捜索はこの町から始まり、隣町。県。隣県。かなり捜索の手を伸ばした。

「まさか一つ跨いだ県にいたとは思わなかった」

 公博の情報がその県と市に在籍していた。

 そこからは早かった。すぐに住所と大学を特定され、一度家へと帰された。帰った先で公博は何も語らなかった。公博からの言葉を聞きたかった両親も、彼が何か言うまで何も言わないことにしていた。両者正座して付き合わせていた。その状況が丸一日続いたが、公博が何かを語ることはなかった。

 長い反抗期だが、彼にも思うところがあったのか、大学は仏教系の大学へ通っていたことが、のちに判明した。

「もういいだろ。暗くなる前に帰ってさっさと話しちまえ」

 光雅の気持ちに決心がついたところで、高波が襲い掛かって来た。それほど風もない晴天のはずなのに、頭から波をかぶった。

「な、なんだあ⁉」

「なんで急に!」

 少し飲んでしまった海水を吐き出す。咲守は持ってきていた水筒の中の水を、勢いよく喉に流す。同じく吐き出す光雅に水筒を手渡すと、同じように水を流し込む。

 背後で公博の大笑いが聞こえた。見ると腹を抱えて笑っていた。

「ああ、良いな。良いよなあ!」

「どこが良いんだよ……」

 光雅は辟易した表情で言う。

「これは海からの激励だと思えばいい。良い方向へ思考を巡らせばいい。そうすれば少しくらいはいい方へ行く」

「お前、兄貴じゃないだろ。兄貴はそんなこと言わない」

「……と、姉貴が言っていた」

「納得した」

 露樹は落ち込むときは極度に暗くなるが、基本前向き思考の持ち主だ。何かいいことがあれば誰かにすぐに話す。これが良いと思ったことは、基本弟たちへ伝える。何かを共有して、幸せを分かち合いたい人だ。そのおかげで何度も救われてきた。公博と光雅にとって露樹は、うざくて、うるさくて、あまり仲いいところを見られたくない存在だが、それ以上に信頼しており、何時も助けてくれる。そんな存在だった。それを自覚したのは、つい最近のことだった。

 咲守の持つ釣り竿が少し引いた。ちょん、ちょん、と竿が反応する。

「何か来るか?」

「わかんない。もう少し……」

 少し反応があると、静かになった。そうしてしばらくすると、再び竿が反応し、一気に引っ張られる。

「来た!」

「おい。一気に引っ張るなよ」

「わかってますよお!」

 少しづくリールを巻く。獲物の動く向きに合わせて竿の向きを変える。強く重い竿の引っ張りに、かなりの大物だと確信する。

 魚影が見えてきた。

「光雅!そこの網構えてくれ!」

「よっしゃ来た!任せろ!」

 巨大な魚影に思わず叫んで頼む。

 もう少しで網が届くだろうというところで、魚影がはっきりと見えた。

「これ、もしかして……!」

 光雅はゆっくりと網をくぐらせ、魚影を網の中へと納める。

 輝く鱗と太陽が、視界を赤く染め上げる。

 釣った魚から釣り針を抜いて、すぐに氷の入ったクーラーボックスへ入れる。

 覗き込んだそこに居たのは。沖へ出ないとまずは見ないであろうという大きさの鯛だった。

「うわー!すげー!この時期にこんな場所で、こんな大きな鯛って釣れるんだな!」

「これもやっぱり、海が応援してくれてるのかな」

「そう思っておいた方が、心が休まるだろ」

 咲守も光雅もそう思うことにした。鯛の入ったクーラーボックスを担いで帰る準備をする。

 今日は刺身にしようか。又は葬式後に鯛めしでも作ろうか。寂しい気持ちとワクワクする気持ちを抱いて、咲守は家へ帰った。


                 ******


 弓削の家へと続く階段を上っている途中、光雅には見覚えのある男がそばを通り過ぎた。

「あ?なんだ今の。家の方に用か?」

「……兄貴。今親父に会わない方がいいかも」

「は?なんで。俺もお前を見て決心がついたってのに」

「んー。何というか。今の人――」

 階段を上りきったところで、鋭い視線を感じた。

「お帰りなさい」

 兄弟は足を止めたまま、動けずにいた。

「…………」

 小治郎は息子たちの返事を待っている。

「……ハッ。ただいま」

 すぐに我に返ったのは光雅。

「何かあったのか」

「いや。父上目が怖いぜ。それでびっくりした」

「ああ、悪い」

 そういって目頭を揉む。

「すれ違ったと思うが、またあいつが押しかけて来たのだ。新しい仏教と道具売りだ。今の日本の仏教のやり方は古いと、訳の分からないことを言い出した。あの男は何百年も続いているこの宗派を何だと思っているのだ。終いにゃ古い考えを押し付ける奴は嫌われる。だから新しい常識とこの世界を教えてあげよう、などと抜かす。十分ほど聞いたがどれもこれも押しつけがましく、馬鹿々々しい。あの男は自分がやられて嫌なことを、他人に全く同じことを強要し押し付けている自覚がないのだろうな」

「それオレも聞いたことあるけど、この辺じゃ誰も言ってない。その人の進める新しい宗派の考え方なのかと思ってる」

「だろうな。母数から見た少数の意見を誇張して見せるのは好かん。ところで――」

 光雅から視線を外さないまま、小治郎は逃げようとする公博へ声をかける。

「どこへ行こうとしている」

 逃げきれないと悟った公博は、その場で止まった。

「公博。お前帰って来て父親に挨拶一つないとは、どういうことだ」

「あ、やっぱりそうなんだ」

 公博は帰って来て家で話をした後、すぐに家を出て姿をくらました。その理由は分かっていた。父親と会いたくなかったからだ。

「お前はいつまで高校生の気分でいるのだ。私と話さなくなって何年経ったと思っている」

 重くなった空気に耐えられなくなった光雅が、答えようとしない公博に代わって、話を少しだけ逸らす。

「父上!兄……上は、父上に話をする決心がついたと先ほど言っていました!」

「あっ、てめえ光雅!」

 黙っておいてほしかったことをばらされて、つい手が出そうになる。が、小治郎の鋭い目つきにやられて、それ以上声を荒げることはなかった。

「……話があるなら聞く。後で私の部屋へ来なさい」

 公博は目を逸らしたまま何も言わなかった。

「父上。オレも話したいことがあるんだけど」

 小治郎は頷いて玄関へと進んでいく。光雅はその後を追った。公博はその場で強く拳を握った。

 小治郎の部屋へ入る前に、体に着いた海水、塩を流し、体を奇麗にする。

 風呂から出て、小治郎の部屋へと来た。机を挟んでお互いに正座をして向き合う。

「単刀直入に言うよ。オレに静じいさんの葬式の進行をさせてくれ」

 小治郎は驚いたように、僅かに目を開いた。

「咲守から聞いたんだ。静のじいさんが、父上と一緒でいいから、自分の葬儀を担当してほしいって。得度を受けていないオレがやるのはどうなんだって思ったけど、じいさんの最後の願いを聞き入れない方が失礼だと思うから。頼むよ、父上」

 光雅の真剣な気持ちは、瞳を見ればわかった。ただ小治郎には不安要素があった。

 光雅に限ってそんなことはないと思いたいが、どうしてもその考えが払拭できない。

「一つ聞きたいことがあります」

 光雅は静かに頷いた。

「光雅は、この寺に従事する気があるのですか?」

 それが一番の不安事項だった。公博は仏教系の大学へ行ったと言っても、何も話してくれないので、本人が何をしたいのか全くもって分からない。一時は絶対に受け継がないとまで言ったのだ、小治郎は公博を諦めようとしていた。少しの希望を抱きながら。

「大学は、仏教の勉強ができるところを探してる。でも一つ、やりたいことがあって……」

 光雅が言い淀むと、小治郎は言うように促す。

「日本史のできる大学へ行って、皇室、天皇、神道の歴史を学びたいんだ。日本人としては、やっぱり知っておかないと、と思って。それで、今どっちをとろうか迷ってて……」

「後者を選べばいいでしょう」

 小治郎の返答は早かった。光雅は困惑し、一瞬時が止まったものかと思った。それでも我を取り戻した。

「どうして」

「光雅には幼いころから仏教をたたき込んできた。心得はある。修行も時間があれば行っている。大学に行かずとも私が師となり、得度を与える。修行なら大学へ行きながらでもできる。光雅が本気なのなら、私は最後までお前を導く」

 光雅は喜びのあまり、拳を握って思い切り叫んだ。

「ありがとう親父!オレすっごく嬉しい!」

「……まあ、今回はいいか」

 光雅は自分が『親父』と言ったことを分かっていない。それだけ嬉しかった。胡坐をかいて嬉しそうに揺れる。

「ただすべてを行ってもらうわけにはいかない。だから、今回は私の手伝いということにしておこう。経を読ませるわけにはいかないから、それだけは分かってくれ」

「わかってるって!大丈夫だよ。最後まできちんとやるから」

 小治郎は嬉しそうに微笑んだ。

「葬儀は明々後日です。明日も明後日も忙しいが、時間を見つけて流れを教えます。覚悟しておきなさい」

「はい!」

 光雅は立ち上がって、部屋の襖をあけて部屋を出る。

「光雅」

「なに?」

「兄上を呼んできなさい。話があります」

「はい!」

 光雅は静かに襖を閉めて、スキップしながら公博を呼びに行った。


                ******


 静の葬儀には、彼の友人や近所で付き合いの深い人たち、親戚が来てくれた。

「結局、名前覚えてもらえなかった……」

 夏海は肩を落として、しょんぼりしていた。

「少し認知症入ってたからな。仕様がないよ」

 咲守が言う。

 認知症初期段階で亡くなったのは、幸なのか不幸なのか。それは分からない。

 様々な人が挨拶を済ませ、香典を手渡す。

 葬儀が始まると、きちんと光雅も来ていてくれた。これで約束は果たされるだろう。

 粛々と葬儀が執り行われる中、香坂兄妹の中で、だんだんと寂しい気持ちがこみあげてきた。優美は既に七海に肩を抱かれて泣いていた。咲守は膝の上に置いた手を、制服のズボンと一緒に握りしめた。

 葬儀が一通り終わり、香坂一家と親戚一同は火葬場へと移動した。

 火葬が終わるまで、大きな一室へ案内され、用意されていた食事を進める。様々な話をしていた。今まであったこと。香坂の近況。誰が元気で、誰が不幸にあって。他愛ない話が進む中、咲守は部屋を出た。優美がそれを追う。

「どうしたの、お兄ちゃん」

 鯉の居る池のある庭まで来た兄に問いかけた。

「なんか、少し落ち着いたなって」

「……そうね。いっぱい泣いたからかな。なんだかすっきりしちゃった。不思議。今まであんなに悲しかったのに。大人たちの楽しそうな話聞いたからかな?」

「さあな。でも、一つ、どこかに何かが進んだ気がした」

「んー。……なんとなくわかる」

 池の先を見つめる。そこに何かがある気がした。何か大切なものを、これからとっていくような気がした。

 池の中の鯉が口をパクパクさせながら、咲守たちに餌をくれ、とアピールしていた。

「咲守ー。優美ー。納骨しに行くわよー」

 母が呼んでいた。それに咲守たちは、元気よく返事を返した。

 案内された場所へ着くと、係の人の説明の後、さっそく納骨が開始された。

 最後に蓮が喉仏を拾い上げると、七海が声を上げた。

「あら。すごく綺麗に残ったのね」

「え?」

 三人は疑問の声を上げた。

「あら知らない?喉仏が綺麗なのは、生前に善い行いをしたからなの。きっと極楽浄土へ行けるわよ。お義父さん」

「……そう、だと良いな。そう願うよ」



 夕方ごろ帰って来て、夕飯にする前に蓮に物置部屋へと連れてこられた。

 目の前に出されたのは、両腕の中に納まるくらいの大きさの箱だった。

「なに、これ?」

「じいじが咲守に渡したかった箱だ」

 静は言っていた。私が亡くなったら、からくり箱を貰ってほしい、と。

「こんなに大きなからくり箱あるんだ」

「おふくろ……ばあばが作って、じいじにあげたものなんだと。父さんも何が入っているのかは知らない。開け方もな。だから、中身が知りたければ自力で開けてくれ」

 言われなくてもそうするつもりだった。

「父さん、ありがとう」

 祖父が残してくれたからくり箱を抱きかかえて、咲守はすぐに自室へと戻る。

 階段を上りきったところで、優美が咲守の部屋の前にいるのが見えた。

「優美」

 優美は肩を震わせて、咲守の方へ視線を向ける。

「お兄ちゃん……」

 優美の瞳を見て思い出した。彼女の話を聞くと言ったことを。悩みを打ち明ける場を提示したことを。

「いいよ。その代わり扉開けてくれ。両手が塞がっててさ」

 優美は兄の持つからくり箱を見る。

「どうしたの、それ」

「じいじからの贈り物。話聞くの、これ解きながらでもいいか。中身、気になるだろ?」

 優美はすぐに頷いた。

 優美をベッドへ座らせて、咲守は丸型の小さな机を引っ張り出す。そのうえでからくり箱を開ける作業する。

「……夏休み前なの。お寺の前を通ったら、たまたま光雅君に会ってね。友達と帰ってたんだけど、そこで別れて、光雅君と少しお話してたんだ――」

 他愛もない世間話だった。光雅からは咲守の話ばかりだったが、それでも光雅といる時間が楽しかった。たとえそれが、全て兄の話であってもよかった。

 光雅と下校時に会う、なんてことはほとんどない。休日も光雅は部活と家の手伝いで忙しく、優美が彼と会うことはほとんどなかった。特に彼が中学に上がってからは、合う頻度が激減した。

「――光雅君と話し終わった後、いつもと同じ道を帰ったんだけど、途中でその友達に会ってね。『光雅君と楽しそうにしているところ、全部見てたよ』って、言われて。そこから。みんなわたしを無視し始めたの」

「ちょっと待て」

 咲守は作業をしていた手を止めた。

「それだとまるで、お前の友達も光雅のことが好きみたいじゃないか」

「そうだけど……」

「えっ、あいつ以外ともてんの?高校じゃそんなこと聞かないけど」

「光雅君意外と面倒見良いし。お寺でお手伝いとか、お祭りとかの町の行事にはほとんど出てお手伝いしてるから、みんな、働いてる姿がかっこいいよね。て言ってるよ?」

「意外。因みに俺は?」

「何もないけど」

「……さいですか」

 咲守は何とも言えない表情をして、からくり箱を開ける作業に戻る。

「あ、でもね。まだわたしと一緒にいてくれる友達は褒めてたよ?」

「なんて?」

「優美ちゃんのお兄ちゃんはちょろそうだよね。いたずらしたくなっちゃう。だって」

「それ絶対褒めてない。その子、俺が家に居るときに呼ぶなよ」

 絶対に。と念を押した。

 優美の話を一通り聞いて分かったことは、彼女のことを妬んでいる、ということだった。

 光雅と楽しそうにしている、近くに居られることを妬んで、そこから何もないことまでも言いがかりのようにして、攻撃する。いじめによくあるパターンだった。

「そんなん無視しろ、って言うのが一番手っ取り早いんだけどな」

「……でも、まだ半年は同じクラスだもん。クラス変わっても学校は一緒だし」

 咲守にはそんな経験がないので、どう返していいのかいまいちわからなかった。

 からくり箱を解きながら考えていると、一つの結論に辿り着いた。

「自分を強く見せればいいんじゃないか?」

「……どういうこと?」

「いや、よく聞くだろ。ニュースとかでさ。男が老人を殴ったとか。女性が子供に手を出したとか。後は……うん。まあ色々あるけど。結局人って、自分より弱い者にしか手を出さないんだよ。返り討ちに会うのが怖いから。だからさ、本当のことを言って、強気に出ればいいんだよ」

「そうかなあ。……でも、みんな友達じゃなくなっちゃう」

「それは……」

 咲守は悩んだ。そんな奴はもう友達じゃない、と言うべきか。まだ仲直りできるチャンスはある、と言うべきか。

 咲守はどちらかと言えば前者の考え方の方だが、優美にとってどちらがいいのか分からない。

「俺は。……俺は、そんなことで嫌ってくる奴なんて、元から薄情な奴なんだから、そこで縁を切る。俺には光雅がいるし、誠や秋梧もいる。優美もいるだろ。そういうやつ」

 先程まだ友達がいると言っていた。なら嫌ってきたその子たちとは別れて、友達でいてくれる子と一緒にいた方がいいのではないか。そう考える。

「できたら、いいけど。でも、もう少し話してみる。でも、何を話したらいいのか……」

「正直に言えばいいだろ。わたしは光雅君のことが大好きだから、彼のことはあきらめてねっ!ってさ」

 優美の真似事をしながら、見本を見せる。

「やめてよお兄ちゃん!」

 優美は恥ずかしさから兄を平手打ちした。

「ッ!いきなり平手打ちはねえだろ!」

「お兄ちゃんが気持ち悪い動きするから!」

 咲守はぶつくさ文句を言いながら、からくり箱の作業に戻る。

「……ねえ、それまだ開かないの?」

 優美は落ち着いて咲守の前に座り尋ねる。

「もう少しな気はするんだ」

 カチャカチャ動かすが、カチッとはならない。

「んー。もうっ!貸して!」

 じれったいと、優美は半ば強引に咲守から箱を奪い取った。

「あ、こら!返せ!」

「お兄ちゃんパズル苦手なんだから、わたしに任せなさい!」

「お前も苦手だろうが……。兎に角返せ!」

 机の上で箱が回る。正面が咲守へ優美へ。代わる代わる箱は回る。

「痛っ」

 優美が声を上げるとほぼ同時に、カチッと箱から音がした。

「……開いた?」

 どうやら、優美の指が引っ掛かって、その拍子に開いたようだ。

 ゆっくりと箱の蓋を開ける。その中身は、笛とカスタネットだった。

「変な組み合わせ」

 笛の音にカスタネットは合うのか。なぜこの組み合わせなのか。考えれば考えるほどわからなくなってくる。

 咲守たちは一階へ降りて、蓮にこの笛について尋ねた。

 言うに、笛は静のもの。カスタネットは麗香のものだそうだ。麗香は才色兼備とまで言われたが、どうしても楽器はうまく扱えなかった。音痴というわけではない。

 蓮は幼いころには聴いたことはあるが、いつの間にか、静は笛を一切吹かなくなった。

「咲守。その笛吹いてみないか」

「え、うーん。できるならやってみたいけど」

「一周忌に奏でてくれないか。きっと、じいじも喜ぶ」

 そういわれると、断る理由がなくなる。が、リコーダーとピアニカしか演奏したことのない咲守には、一歩踏み出せなかった。それに、もうそろそろ受験の準備をしなくてはならない。

「完璧じゃなくていい。たどたどしくていいんだ。一人が嫌なら、優美もカスタネットをやってくれ。なんなら光雅君を誘ってもいい。太鼓はできるんだから」

「……でも、何を演奏すれば」

「お兄ちゃん」

 優美に呼ばれてそちらを向くと、彼女は何かの紙束を持っていた。

「箱に入っていたの。楽譜みたい」

 咲守は楽譜をもらい受け、題名を確認する。

「盆踊りの楽譜じゃないか」

「じゃあちょうどいいじゃない」

 七海が手をポンとたたく。

「それならよく聞いているし、馴染みがあるもの。まったく知らない曲よりは演奏しやすいと思うけど」

「じゃあ、暇なときにでもやってみるよ」

 祖父が喜んでくれるのなら、と、咲守は練習することを決めた。

 ただ、咲守には演奏よりも先にやらなければいけないことがあった。遅くても今年度中には決めておきたいことが。

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