第3話 としょいいん
「夏海ちゃーん!おはよー」
図書委員の仕事は十一時から十五時まである。
元時刻は十時少し前。夏海を連れて行くので、少し早めに家を出ることにした。
「咲兄おまたせー」
夏海は自転車を押しながらやってきた。前の籠にはリュックサックが入っている。
「忘れ物ない?」
「大丈夫」
夏海の後ろからは渚が見送りについて来ていた。
「咲守君、夏海のことよろしくね」
「任せてください。じゃあ行こうか」
「はーい!行ってきます、お母さん」
自転車を漕いで家を後にする。坂を勢いよく下り、一時停止。車を確認してから海を左手に高校を目指す。
「咲守!」
隣町へ入った時、同級生の声が聞こえ、ブレーキをかけた。
「
声をかけてきたのは、咲守とダブルスを組んでいる
「何って、自主練してこようかと思って、今家出たところ。咲守は?」
「俺は図書委員だよ」
「ああ、そんなこと言ってたな。んで、そっちの子は?優美さん以外に妹居たっけ?」
秋梧の視線の先にいたのは夏海。
夏海はこちらの町へそう滅多に来ることがないので、咲守の友人の周りではあまり知られていない。
「妹じゃない。近所に住んでる子」
「ふーん。こんにちは、俺は九重秋梧。君は?」
秋梧は腰を落として夏海と視線を合わせる。
「あたし津積夏海。隣町の小学校通ってます!好きな人は咲兄です!」
秋梧は『咲兄』とは誰のことなのかと、一瞬頭をひねる。が、すぐに理解する。
「咲守、お前小学生はちょっと……」
咲守は理解するのに少し時間を要した。
「違う違う!んなわけないだろう!」
咲守は困ったように笑いながら否定する。
夏海はキョトンとしていた。
咲守たちが高校に行くということで、秋梧も一緒に付いて行くことになった。ついでに図書委員も手伝ってくれるという。自主練はいいのかと聞いたが、どうせ壁打ちだったから、と友人とのなんてことない時間の方が大切らしい。
三十分かけて、全員が自転車で高校まで来た。
人の居ない高校は、どこか涼しかった。
図書室へ着くと、咲守はガラガラと扉をスライドさせた。
「せんせーい。桜木せんせーい!こんにちはー。図書委員来ましたー」
シンとする図書室。少しすると、ガザッと物音がしたと思えば、本棚の奥から女性教員が現れた。
「やあ、香坂くん。なんかたくさん連れて来たね。九重くんと……誰かの妹?」
「津積夏海です。小学二年生です!」
「近所の子なんです」
「そうなの。津積さんね、よろしく」
大きな丸メガネが特徴的な桜木は、嬉しそうに笑顔で皆を迎え入れた。
「ちょうど人手がたくさんほしかったんだ。手伝ってくれたらアイスおごるからさ、本を本棚に戻すの、手伝ってくれないかな?」
「俺は別に構いません」
「あたしもー」
夏海も秋梧も特に異論はないようだった。
整理をしていた本棚は純文学のコーナー。
広い図書室の四分の一を占めている。残りは専門書やライトノベル、少量の漫画と絵本などもある。
本の整理は昼を挟んで二時間かかった。
疲れたと言いながら、咲守はカウンターの椅子へ腰かける。夏海たちも近くの椅子へ腰かけた。
「ねえ先生」
「なーにー?香坂くん」
桜木は机に突っ伏したまま聞き返した。
「名前の辞書とかってありますか?」
「んー、名前の辞書ねー。あったかな、そんなの。学生諸君が使わないからなー。探してみるから、少し待ってて」
「あたしも探す」
夏海は桜木の後ろへ付いて行った。
「名前の辞書なんて、何に使うんだ?」
「夏海ちゃんところ、今度赤ちゃん産まれるんだ。だから、その子の名前を付けるために」
「なるほど。でも辞書で探すよりさ――」
秋梧の提案を聞いて、咲守もその方がいいだろうと、夏海が戻ってくるのを待った。
「辞書なかったー」
夏海が悲しそうに帰ってきた。
「学生諸君がよく使ったり、誰かが欲しい、って言っていれば買うんだけどね」
桜木は、しょんぼりする夏海の背中を優しくさすった。
「夏海ちゃん、少しいいかな」
「なーに?
「名前のことなんだけどさ、身近にいる人の名前の由来とか、聞いてみたらいいんじゃないかな」
「由来?」
「ああ、それいいね。辞書で探すより、親たちがどんな風に考えて、思って名づけたのかがよくわかるから、参考になると思うよ」
「それって、えーっと、夏海って名前がどんな風につけられたのか、ってこと?」
三人は頷いた。夏海の顔が徐々に輝いていくのが分かった。
「いい!それいいね!楽しそう!ついでに自由研究にしちゃう!」
そうと決まれば早速、と、リュックサックから自由帳と筆箱から鉛筆を取り出した。
「えーっと。『みんなのお名前の』……」
「由来、かな」
「そっか!『ゆらい』っと!題名できた!後は、うーんと……咲兄!」
「なに?」
夏海はカウンターの方へ行き、受付にいる咲守の前に、ノートを広げる。
「この辺りにお名前書いて」
「俺の?」
「うん。でね、お名前の由来を教えて?」
「名前の由来か。……なんだっけなー。小学生の時やったはずなんだけど。帰ってからでもいい?」
「いいよ。でも名前は書いておいてね」
「了解」
咲守が名前を書き終わると、次は秋梧のところへ赴いた。
「少し自由帳借りてもいい?」
「いいよ。何するの?」
「んー、少し見やすいように」
秋梧はノートに縦横の線を引き、名前とゆらいの欄を、男女別に書いてくれた。
先ほどより見やすくなったノートに、夏海は飛び跳ねてお礼を言った。
「じゃあ次は秋兄ね。秋ってことは、秋生まれなの?」
「そうだよ」
「じゃあこの字は?見たことない」
夏海は梧の文字を指さして尋ねた。
「アオギリっていう植物の名前。アオギリのように真っすぐ大きく育ってほしいから、って聞いた」
夏海は急いで今言ってくれたことをまとめる。
「大きくなった?」
「えー、どうだろう?」
秋梧は咲守へ目配せする。
「俺よりは低いだろ」
「二センチ差だった気がする。あと十センチくらい欲しい」
「そうなんだ。頑張って、牛乳飲んだら背え伸びるんだよ」
「飲んでる」
秋梧は眉をひそめた。
「毎日二杯は飲んでる。おかげで先月三ミリ伸びたんだ」
どこか嬉しそうに夏海に伝えた。
「へえ、以外」
「なんで?」
咲守の一言に、桜木が食いついた。
「だって、こいつ何に対しても興味ありませんって態度で、テニスは好きなんだろうけど。でも何に対しても冷たいっていうか。背が三ミリ伸びただけで試合に勝った時くらい嬉しそうにしているの、滅多に見られませんよ」
「それは元からだ。俺だって好きなものくらいある」
家ではアオギリとユッカを育てている。アオギリは名前に入っているので愛着がわいたから。ユッカは花言葉の【勇壮】【偉大】というのが気に入ったから育てている。
秋梧の好きなもの、意外な一面の話だけ二〇分以上が経った。
「んー、先生?」
「なに?」
夏海は桜木にノートを手渡す。
「先生のお名前は?」
「桃子だよ。桃の様にか愛らしく育ってほしいから」
夏海は名前を書いてもらった横に、由来を描く。そこでまた疑問が浮かんだ。
「桃好き?」
「好きだよ。一つ丸ごと凍らせて皮剥いて食べるとおいしいから。よかったらやってみて」
桃の美味しい食べ方を教わったところで、生徒がやってきた。本を返却しに来たようだ。
十五時を周れば、図書委員の仕事はお終い。
桜木が約束通りにアイスをおごってくれるということで、全員でコンビニへ行くことになった。
校舎を出ると、テニスコートの方から何やら声が聞こえてきた。
「あれ、女子テニス部じゃないか?」
女子テニス部も長期休みのはずだが、コートでは四人の生徒がダブルスをしていた。
「風間!」
咲守に呼ばれた後衛の雪花は、飛んできたボールを打ち損ねた。
「こ、香坂君!」
雪花の声が裏返った。彼女は急いで境界のネットまで駆け寄る。
「どうしたのこんなところで。男子もお休み中だよね?」
「図書委員だよ」
「あ、そっか。そういえば言ってたね」
雪花は次に紡ぐ言葉が見つからない。
「やーん、かわいいー」
雪花の緊張を解いたのは、同じ部活の同級生二人と佳子。
「お菓子いる?」
「いる!」
「ジュースは?」
「欲しい!」
夏海は袋いっぱいのお菓子とジュースを貰い、辺りをスキップする。
「夏海ちゃん」
咲守の声に反応して、夏海は彼に駆け寄り抱き着いた。
「咲兄!見てー、たくさんもらった!」
「よかったね。ね、せっかくだからさ、みんなにも聞いてみようよ」
咲守の言葉に、さっそく佳子が食いついた。
「何々?なんか面白いこと?」
「あたし今、みんなのお名前の由来を聞いてるの」
この話に全員が食いついた。今どのようになっているのかを見せた。雪花だけがなぜかしょんぼりしていた。
「あたしは佳子っていうんだけど、これ曾ばあちゃんとおんなじ名前なんだ」
「なんで?」
「曾ばあちゃんのように、強く逞しく、素敵な女性になってもらいたいから。実際曾ばあちゃんのことほとんど覚えてないけど。でも、男も女も頭が上がらなかったらしいよ」
夏海は、すごい!と声を上げる。咲守と秋梧は、名前の通りになったんだな、と心のどこかで思った。
「私は雪花。雪割草のように可愛らしくしっかりした子に育ってほしいから」
「雪割草?」
「冬に咲く小さな花だよ。私冬生まれなの」
「冬で好きな物ってなーに?」
夏海に尋ねられて、少し考えた。
「うーん……。海かなあ。夏にはない寂しさとか、遠くまで見えそうな景色とか。夏海ちゃんは好きかな?」
「うん!」
雪花の次に答えてくれたのは、ポニーテールが似合う、前衛の女子。
「あたしは夕菜。夕焼けに綺麗に咲く菜の花のようになってほしい。ってことで、夕菜」
「菜の花好きー」
「本当?なんか嬉しいな」
次は綺麗な黒髪を持つ、後衛の女子。
「うちは夏美」
「え、なつみっていうの?あたしも!」
「そうなの?お揃いだね。どういう字を書くの?」
「夏の海!」
「そうなんだ。可愛い名前だね。うちは美しい夏。夏の太陽のように輝かしく、自然のように凛々しく青々しく。そして海のように美しい。そんな夏の大自然のように、美しく逞しく育ってほしいから。夏美」
「なんかスケールおっきいね」
雪花がいう。
「そうかな?ちなみに弟は空海って言って、海や空のように心を広く、大きく透き通るような人になってほしいから」
「あんたの両親考えが大きいわね」
「そうかな?……ねえ、夏海ちゃん。あなたはどうして夏に海なの?」
聞かれて困った。夏海はまだ、なぜ自分がこの名前を付けられたのかを知らない。
「分かんない」
「そうなの?じゃあ、わかったらお姉さんに教えてね」
「うん。絶対また来るね」
指切り拳万を交わした。まだなつやすみ中盤。また来ることくらいあるだろう。なくても咲守に頼めば、必ず伝えてくれる。
「ところで、あんたたちなんでこんなところにいるの?男子も休みよね?」
咲守はここまでの経緯をすべて話した。桜木がこれからアイスをおごってくれることも。
「あたしも食べたいなあ、せんせ」
佳子が甘えるような声音で桜木にすり寄る。
「ダーメ。これは図書室の片づけを手伝ってくれた香坂君たちへの報酬です」
「えー!先生のケチ!」
佳子のお願いに他の三人も加わる。暑い中数時間テニスをしていたのだ、今の彼女たちにとって、アイスなどの冷たいものは喉から手が出るほど欲し。
桜木が押され根負けしそうになっていると、背後から自転車のリンの音が聞こえてきた。
「こんにちは、桜木先生。みんなも」
自転車を漕いでやって来たのは、水希だった。
「水希先輩やっと来た!」
「あら、私を待っていたの?でも約束していないわよね」
三年生の引退試合はすでに終了している。部活が休みの時に、彼女が来ることは本来ないはずだった。そんな彼女が何故ここに来たかと言えば、とある大学からテニスで推薦を受けているからだ。
それは和希も同じで、男女一人ずつ、テニスの名門大学への進学が決まっている。テニスの腕をなまらせないために、テニス部が休みのはずのこの時期を見計らって先生にお願いしていた。
「先輩この夏のおやすみ一週間の間でこのコート使わなくなるって聞いたから、最後にご指導していただけないかと思って」
「そう。じゃあこの後和希も来るから、ダブルスしましょうか」
「やった!ありがとうございます!」
女生徒四人は両手を上げて喜んだ。
「そうだ先輩。桜木先生がアイスおごってくれるそうですよ!」
佳子が嬉々として言う。
「え、本当ですか?」
「え⁉それは、香坂君たちが手伝ってくれたから――」
「でも先生?私この間、先生の無くしたもの見つけましたよね?」
この暑い中、自転車を漕いでくたくた。水希も何か潤いが欲しかった。
「う、うーん」
生徒たちから何かを求める眼差しを受けると、桜木は怯んだ。
「そ、そうだなー――」
「こんにちはー、先生」
桜木の答えが出ようとしたとき、また別の人物が声をかけてきた。
「あ、和希ー」
水希は大きく手を振る。和希はそれに応えるように振り返す。
「みんなで集まってどうしたんだ?」
ここは全てを知っている咲守と秋梧が話をした。
「へー、いいなあ、アイス。……せんせえ、僕も食べたいなあ」
なんだかんだ言って全員高校生。大人と子供の中間のような子供たちからの甘えたような瞳には、桜木は勝てなかった。
「……まけた。分かったよ。買うよ」
生徒たちからの喜びの声。そして笑顔。それを見ただけで、まあいいか、と思えてしまう。
「どこで買うの?」
「すぐそこのコンビニです」
雑談をしながら生徒たちは桜木の先を進む。
桜木は生徒の後を見つめていた。すると一気に心配事が襲ってきた。今、これだけの生徒たちのアイスを買うようなお金を持っていたのか。それだけが心配だった。
「ふう……。これ、経費で落ちるかなあ……」
後日、出社してきた校長先生に頼み込んでみたが、もちろん経費として出るわけがなかった。
コンビニからの帰り道、みんなと別れて家の近くの海まで来ていた。夕日が眩しい。
「涼しいねえ」
「そうだね。ねえ、夏海ちゃん。いい名前思いつきそう?」
「うーん。……分かんない。でも後悔しないような名前にするよ」
先程水希と和希にも名前の由来を聞いた。
水希は、水のように透き通った希望と人生を歩んでほしいから。
和希は、母親が好きなアイドルの名前から。同じように格好よく、愛嬌のある子に育ってほしいから。
カーブを曲がった。自転車でのカーブは坂道の次くらいには気持ちがいい。
「止まれ!」
カーブを曲がり切ったとこで、背後から誰かに声をかけられた。
咲守は急ブレーキをかけた。夏海もかけたが、間に合わずに咲守の自転車とぶつかった。
「ふっ、いい子たちだな。さあ、そのままの状態で私の名を言ってみな」
夏海は本気で震えていた。今にも泣きそうなほど怖かった。
ただ咲守にはすぐに誰だかわかった。彼の知り合いでこんなことをする人は二人しかいない。
「女性の声ってことは。あなたの名前は、
背後にいた女性は、歩道の方から咲守たちの前へ行き、かぶっていた帽子とサングラスをとった。
「大正解。久しぶり、咲守、夏海」
久しぶりに会った露木はより大人っぽくなっていた。大学を卒業しただけでこれほど人は変わるのかと、まじまじと見てしまう。
露樹の願いで、咲守はこの夏あったことを話した。
「ふーん。なるほど、光雅が太鼓やるって話は本当だったのね」
自転車を押しながら進む。冷たい海風を浴びる中、夏海はずっと咲守の後ろに隠れていた。露樹が何か質問しても曖昧な返事しか返さない。
「ねえ、夏海ちゃん。私のこと、嫌い?」
歩みを遅らせて、露樹は夏海の横に並ぶ。
夏海は目を逸らせて、首を横に振る。
「なら、どうして?」
「……だって、知らない人」
全員歩みを止めた。
「会ったことなかったっけ?」
「あると思いますよ。でも、俺でも最後に会ったのって中学の……一年の時だったかと」
夏海はその時まだ幼稚園生。露樹と会ったのもたった数回。そのうちの数回は赤ん坊の時。覚えていないのも無理はなかった。
「そっか。でもそうよねー。あんな小さかった子がランドセル背負う歳になって、自転車も一人で乗れるんだもんね。覚えてないのも無理ないか」
再び歩みを進める。もうすぐ家の近くの坂に差し掛かる。
「じゃあ改めて自己紹介。私は弓削露樹。光雅の姉よ」
「光兄の?じゃあいい人だね。ごめんね無視して」
「いいのよ」
露樹は、咲守たちはこれから帰るのだろうと思っていたのだが、どうやら弓削家の方まで来るらしかった。
「あ!露樹お姉ちゃん!」
階段の上から聞こえてきた声は、優美のものだった。彼女は駆け足で降りてくる。
「優美ちゃーん!久しぶりー、すっごく美人になったねー」
「そうか?」
そういう咲守の左足に鈍い痛みが走った。
「やっぱりー?露樹お姉ちゃん見る目あるよねー」
優美からの予想外の足踏みの強さに悶える咲守をしり目に、優美と露樹は雑談を交わしていた。
ようやく優美から解放されると、今度は男性の怒号が聞こえた。
「おいガキども!道路の端で遊んでんじゃねえ!」
驚いて背後を振り返る。初めは驚き怖くなったが、車の中の人相を見て、すぐに誰だかわかった。
「
車の運転席に乗っていたのは、光雅の兄である公博だった。
「本当だ。きみちゃん、あんたこんなところで何してるのよ」
「大学の補習で帰ってくるの遅れたんだよ。それより、きみちゃんって呼ぶな、姉貴」
「姉貴じゃなくて、お姉ちゃんって呼びなさいって何度言えば分かるのよ。あんたのせいで、光雅も姉貴呼びになっちゃったんだから!」
社会人と大学生とは思えない会話を、咲守たちは遠目で見守っていた。
滅多に車の通らない道といっても二車線の狭い道路。公博は大型の中古車へ咲守たちを急いで乗せて車を発車させた。
咲守と夏海の自転車は、渚の店の脇へと止めておく。
車に乗り込む前から気になってはいた。誰だろうかと、頭の片隅には疑問があった。車の助手席に座る一人の女性。
「聞きそびれてたんだけどさ」
「なんだよ」
「隣の人、誰?」
大きな鍔帽子が少し揺れる。
「向こう着いたらな」
公博は不敵に笑った。
いくつかの信号機を通過して、お寺の区画の実家へと辿り着いた。自宅の駐車場では、光雅が公博を迎えるために掃除をしながら待っていた。
「光雅」
公博が呼ぶと、光雅は瞳を輝かせて、兄に飛びついた。
「兄貴ー!おかえりー!」
「おう、ただいま。元気してたか?」
「もう元気元気!オレだいぶ大きくなっただろ?」
「ああ。でもまだまだガキだな」
「兄貴には勝てねーよ」
約三年ぶりに会った兄に会えてよほど嬉しいのか、頭をぐしゃぐしゃにかき乱されてもずっと笑っている。
公博の後ろで、露樹が人差し指を自身にずっと差しているのが見えた。すると光雅から笑顔が消えた。
「げっ、姉貴」
露樹は光雅を羽交い絞めするようにして後ろから抱き着いた。
「うーん、会いたかったわよー。元気そうでよかったー。それから、私のことはお姉ちゃんか姉上と呼びなさい、と何度言えば分かるのかしら?」
抱きしめる力が少し強くなった。
「す、すみませんでした。姉上」
「よろしい」
これ以上公博のように口悪くなってほしくないという願いが強かった。
「ところで、なんで咲守たちが?後ろの女誰?」
夏海は自由研究。咲守はその付き添い。優美は偶然そこに居合わせただけ。女性は未だに口を開こうとしなかった。
「ふーん。まあいいや。とりあえず入ろう」
古くから続く日本家屋とは思えないほどきれいに整った家の玄関。それは芸術と言ってもいいような景色だった。
「父上、母上。露樹、ただいま帰りました」
「……同じく、公博。ただいま帰りました」
三秒ほどお辞儀をして、玄関の中へと入る。
始めて弓削の家に来た夏海は、一体何をしているのか、小首を傾げた。
「オレんちは、家、特に玄関先では必ず礼儀正しく、っていう家訓があるんだ」
「どうして?ただいまー、だけじゃダメなの?」
「玄関っていう境界線を跨ぐからだよ。きちんとその家に帰ってきたこと。家を離れることを家と家主。後ご先祖様に報告しないといけないからな」
「ふーん?」
夏海は理解できなかった。
「弓削姉弟ってさ、俺たちとあんまり変わんない振る舞いするけど、家では結構落ち着いて礼儀正しいんだよ」
「へー」
玄関の先、二つに分かれた玄関の左側から、美鶴がやってきた。
「お帰りなさい。露樹、公博。いらっしゃい、お客様方。今回は、わたくし美鶴が、歓迎いたします」
美鶴は玄関先で奇麗に土下座をした。声が微かに震えているような気がした。
美鶴は顔を上げて、立ち上がる。
「母上、さっそくで申し訳ないのですが――」
「公博。お話は靴を脱いでからになさい」
全員奥の客間へと案内され、さっそく謎の女性の話へ入った。
女性は先程の美鶴と同じように、奇麗な土下座を見せる。
「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。私、公博さんと同じ大学、学部に通う
一通りの挨拶が終わると、公博の後ろにいた者たちが驚きの声を上げた。
「うっそだろ兄貴!彼女いたのかよ⁉」
「きみちゃん、なんでお姉ちゃんに言ってくれなかったのよ!」
「二年前って、公博さんのそんな話聞いてなかったのに」
「おめでとう。公博お兄ちゃん」
夏海だけは現状を理解できずに、おろおろしていた。
「聡美さん。公博が誰かとお付き合いしているであろうことは、薄々分かっておりました。しかし、公博はこの寺を継ぐ身。公博と付き合い、結婚まで進むとなると、あなたもこの寺に従事しなければなりません。そこはお判りいただけますね」
「ええ、もちろん」
「それから、公博の素行の話なのですが――」
「そちらは何も問題ございません。公博さんが昔ヤンキーをしていたことは知っておりますから」
「え、そうなの⁉」
驚きの声を上げたのは優美。立ち上がるほどだった。
「あれ?知らなかった?」
優美は何度も頷く。
「お前の中学に、今までで一番素行の悪かったヤンキー。
「し、知ってる。ずっとあの中学に伝わっている伝説の不良少年」
「それ、きみちゃん」
「うっそ!あの優しい公博お兄ちゃんが⁉」
優美の中にある優しい公博は、よそ行きの彼の姿だ。
「よほどこの家での肩身が窮屈だったのでしょうね」
「ちっげーよ!あの親父が気に入らなかっただけだ」
公博は言葉を美鶴へと投げ飛ばした。
「公博。言葉を改めなさい」
美鶴からの鋭い眼光を向けられ、公博は顔を逸らして、小声で訂正した。
「とまあ、このような様子なのですが――」
「本当に大丈夫ですよ。私も元スケバンですから」
「……?」
公博以外の人たちは、開いた口がふさがらなかった。
さらっと出た元不良少女発言。驚いてしまったが、今はこんなに礼儀正しい子なのだから、きっと大丈夫だろう、と言い聞かせた。
「ちなみに番長だったんですよ、私。二つの高校の不良少女をまとめていたんです。総勢六〇人ほどでしたかね」
美鶴は頭を抱える。
「へー、それは初耳。こっちなんて人あんまりいないから、多くて二十人前後だったな」
「でも公博さんも高校で番長やっていたんでしょう?十分すごいですよ」
ヤンキー時代の話に花を咲かせる二人に、他の者は付いていけなかった。
「ヴォンヴォンバイクを鳴らしていた番長同士。馬が合ったのかもね」
「五年くらいやってたよな」
「そ、そんなに?見たことも聞いたこともないんだけど」
「うちの方はほとんど道路と海で人いないからだろ」
咲守たちの家の方は数十人で走るには道路が狭すぎる。大勢で走るなら道が広く、人の多い陸側の方だろう。
「ねえ、なんで公博お兄ちゃんは、ヤンキー止めたの?」
「オレが父上に言ったから」
「告げ口したのよね。高校三年の春まで誰が影の公なのかわかってなかったのに。電話で聞いただけでも笑ったわよ」
露樹は転げるように大きく笑う。誰も身内が告げ口をするなんてこと思っていなかったから、なおさら面白かった。
「兄上が怒鳴られてたことは忘れないな。その後静かにお互い何もしゃべらなくなったからさ、あれが怖くてオレは、父上に逆らうのはやめようと心から誓った」
公博ヤンキー話で盛り上がっていると、美鶴が手をたたいて、場を仕切り直した。
「えー。あなたたちのことについては、小治郎さんにも聞いてもらいます。話はそれからです」
「はい。勿論でございます」
「……しかし、まあ」
言い淀む美鶴に、聡美はどうしたのかと次の言葉を待つ。
「今はこんなに礼儀正しいのですから、わたくしは良いと思っていますよ」
「お義母さま!」
「それに、女は肝が据わっていて、強くなければ家族を守れません」
聡美は強く頷いた。
「さあ、あなたたちの話は終わりです。次、咲守君。あなたたちはどうしてここへ来られたのですか?」
「自由研究のためです!」
夏海が元気よく答えた。
「自由研究?」
夏海は自由研究の内容を話した。それを聞いた美鶴は、快く承諾してくれた。
「じゃあ、このノートに名前を書いて、お名前の理由を教えてください」
美鶴、公博、露木、聡美、光雅と名前を加え入れた。
「でも私、聞いたことないわ」
「俺も」
「オレも」
弓削姉弟は、美鶴へ視線を向ける。
「わたくしは読んで字のごとく。美しい鶴のように羽ばたいていってほしいからよ。露樹。あなたは、葉に付く雫のようにはっきりしていて美しく、樹のように大きく立派に育ってほしいから。公博。あなたは大きく、広く世界へ飛び立てるような立派な人になってほしかったから」
初めて聞く自分の名前の由来に、恥ずかしながらもそれだけ考えてつけてくれたんだと、嬉しくなる。
「母上。オレは?」
キラキラさせる瞳を美鶴へと向ける。
「光雅。あなたは小治郎さんがつけてくれたのよ」
「父上が?」
「ええ。少し面白いから。場所を移しましょうか」
客間を出て、資料が大量に保存されている部屋へと案内された。
「露樹も公博もわたくしが決めた名前です。それが気に入らなかったのか、次の子供は私が決めると言って、光雅が産まれる五か月も前から半紙と向き合って名前を考えていたのですよ」
襖を開けて三つのカンカンを開けた。そして驚いた、中身を出してみれば、全て名前の書かれた半紙。男も女も、漢字もひらがなもカタカナも入り混じったものが出てきた。
「これ、全部光雅のために考えたものなの?」
「そうよ」
優美、海那、撫子、心、菜々子。良悟、佐介、賢、充、聡。他にも様々な名前が書かれていた。これはどうなんだというものもいくつかあった。
「あ、わたしの名前」
「夏海もあるね」
見知った名前もいくつもあった。
「何枚あるんだよ」
「光雅の時には露樹と公博に負けないような名前にしたいと言って、倒れるほど一生懸命に考えていたわ」
「父上が、そんなに……」
「だから、あなたの名前の由来は小治郎さんから聞きなさいな」
「……うん」
あまり感情を表に出さない父親が、体調崩して倒れるほど、光雅の為により良い名前を考えて決めてくれた。それを初めて知って、光雅は胸が熱くなった。
「さて、今日はこの辺りでお開きにいたしましょう。露樹」
「なんでございましょう、母上」
「あなたもそろそろ彼氏を連れて来なさいな。以前付き合っていた彼はどうしたのですか」
露樹は資料室を勢いよく飛び出した。
「あ、姉上が逃げたぞ!者ども出会え出合えー!」
公博の合図で、子供たちが露樹を追いかけだした。美鶴たちはゆっくりと後を追うことにした。
捕まった露樹は、どこか話ずらそうに顔を伏せていた。
「逃げなくてもよいではないですか」
「だって……。だって!彼私よりスマフォが好きなのよ!いっつも私のこと見ないで、ゲームゲーム、ラインライン!ずーーーーっと画面とにらめっこ!しまいにゃ他の女作ってたのよ!信じらんなーい!」
露樹は大声で泣きだした。
「姉上は本当に男運ないな」
「きみちゃんうっさい!もー、私の拠り所はこうちゃんだけよー」
露樹は光雅の腰に縋るように抱き着く。
「抱き着くなよ。暑いなー」
光雅は無理やり露樹を引きはがした。
「やーん。昔はお姉ちゃんのお嫁さんになる、なんて言ってたのにー」
「いつの話だよ」
「ねえ、もう私と結婚してえ」
すでに露樹は自暴自棄になっていた。ただ本気ではなかった。
「駄目!」
誰かの叫びに、露樹の泣き声も止まった。
「お姉ちゃんでも……ううん、お姉ちゃんなんだから絶対に駄目!」
光雅の腕に抱き着いて来たのは優美だった。
「光雅君は絶対に!誰にも渡さないんだから!」
辺りが静まり返った。
「え?」
「ふーん」
「まあ」
「んん?」
声を荒げて荒れていた呼吸が落ちついて来ると、自分が何を言っていたのか、冷静に分析をしてしまった。
優美の顔がどんどん赤くなる。
「優美ちゃん」
「ひゃい!」
優美は驚いて光雅の腕から身を話す。
「今のって……」
どんどんどんどん赤くなる優美の顔。夏の夕日のように真っ赤になる。
「い……」
「い?」
「いやー!」
優美は勢いよく走りだして逃げた。
「お兄ちゃんのバカー!」
「なんでだよ!」
この恥ずかしさとぐちゃぐちゃの気持ちの捌け口が分からなくなり、いい慣れた言葉、兄なら笑って許してくれるだろうという思いから、思わずそんな言葉が出ていた。
「なんなんだ一体……」
よくわからないままバカと言われて、怒るより先に困惑が出てきた。
「光雅ー」
にやにやしながら、公博が光雅の肩に腕を回す。
「お前も隅に置けないなー」
「私もう駄目だわ」
先程の優美の言葉の意味について、全員の考えが一致していた。だからこそ、話が盛り上がる。そんな中、咲守だけは険しい顔をしていた。
「お、なんだ?妹をとられそうで嫌だったか?」
公博の言葉は聞こえていなかったのか、咲守は無視して、光雅にビシッと指を差した。
「俺はお前にお義兄さんと言われるのは嫌だからな!」
「は?」
「いいか?さっきの優美の話が本当のことで、長いこと付き合っていくならば、だ。何時しかはそういうことになるってことだろ⁉」
「なんか話が飛躍してない?」
露樹が淡々と突っ込む。
「……ふーん。なるほど」
咲守の言うことを理解した光雅は、嫌な笑みを浮かべた。
「でもさー、咲守」
「なんだよ」
「今の話が本当に進むとしたら、義兄さんと呼ぶのはお前の方だろ?」
「は?なんで」
「オレの方が早生まれ」
「……あ」
今気が付いたが、それでも頭を振る。
「いやでも!たった四日だろ⁉」
「四日でも事実は事実。認めろ」
それでも嫌だった。考えただけでも違和感が襲ってきたから。
「それはまた追々ね。さ、咲守君たちは優美ちゃん探してもう帰りなさい」
外はすでに夕方。ここから歩いて帰れば、ちょうど夕飯の時間には間に合うだろう。
「ま、待って!聡美お姉ちゃん」
「ん?何かしら」
聡美は夏海の目線に合わせるようにしゃがみ込む。
「帰る前に、お名前の由来教えて?」
「ああ、そういえば言っていなかったわね。私は、頭がよい美しい子に育ってほしかったから」
「お姉ちゃん美人だから、本当になったんだね」
嘘偽りのない夏海からの評価に、聡美は嬉しくなって彼女の頭を撫でた。夏海は嬉しそうに笑った。
「じゃあ光兄。おじさんに聞けたら今度教えてね」
「ああ、今日にでも聞いておくよ」
弓削の敷地内の坂を下って帰る途中、優美を見つけた。蹲ってダンゴムシをつついていた。
「優美、帰るぞ」
優美はゆっくりと顔を上げて、ゆっくりと視線を下げた。
「……嫌われたかなあ」
泣きそうな声だった。
咲守はため息をついた。
「光雅があれくらいで優美のこと嫌いになるわけないだろ?」
まさか光雅のことが好きだったとは思わなかったが、今考えてみれば、光雅のことだけお兄ちゃんと呼ばなかったのはこういうことだったのかと、咲守の中で自然とパズルのピースが合わさった。
優美はゆっくりと立ち上がり、先を歩き始めた。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「さっきはごめんね」
「ああ、いいよ。その代わり三日分の昼食作りよろしく」
「うん」
何だかんだ言って、優しくて頼りになる兄でよかったな。と思う優美だった。
家に帰ると、仕事を終えた七海が夕食を作って待っていた。
「おかえり」
「ただいま母さん」
「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
七海が何故夏海も来ているのかと尋ねるので、自由研究のことを伝えた。
「なるほど。確か咲守には話したよね」
「でも忘れた」
「ではもう一度ね。咲守は咲き誇ったものをすべて守れるように」
「どういうこと?」
夏海だけではない。優美にも分からなかった。
「……思い出した。初め聞いた時訳分かんなかったんだよ、それ」
「咲き誇るものは何でもいいの。夢でも希望でも命でも。あなたが咲かせたものを守っていって、大事に大事に育てていってほしい。だから咲守という名前を付けた」
夢を見つけたのならそれを目指してほしい。挫折して諦めたとしてもまた夢を見つけて大事に育ててほしい。子供が生まれればその子のことを守ってほしい。好きな人や物ができたら大切にしていてほしい。
その願いが叶ったのか、妹との仲はどちらかと言えば好調。幼い時からお兄ちゃんとして、一生懸命にやっている。
「優美は優しく美しく、みんなに愛される子に育ってほしいから。大切に大切に、自分の求める優しさと美しさを追い求めてね」
聞くとどうしても気恥しくなってしまう。
夏海が何やらもぞもぞしている。何事かと声をかけると、一気に立ち上がった。
「あたし帰る!」
「まあ、食べていかないの?」
「ごめんねおばさん。あたしすぐにでも自分の名前を知りたくなったの!じゃあね!」
夏海は玄関の方へと駆けてゆく。
「夏美ちゃん!」
咲守は急いで追いかけて呼び止めた。用事は、明日の図書室はどうするのか、ということ。
「明日も行く!」
「じゃあ今回と同じ時間に」
「うん!ありがとう!また明日ね!」
夏海は駆け足で家へと帰っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます