第32話 ダサい自分を拾い直して
家に帰った俺は、そのまますぐに自分の部屋を目指した。
後ろからはお袋が、またパートで嫌なことでもあったのだろう。「聖夢! 帰ったら手洗いとうがいをしなさいっていつも言ってるでしょ、相変わらずだらしないわね!」と刺々しい口調で声をかけてきたが、それを無視して部屋の扉をパタリと閉めた。
それから部屋の押入れへと向かうと、その取っ手に手をかける。
その時に自分の手が僅かに震えているのに気づいて、俺は自嘲の笑みを浮かべた。
「……うわ、マジか。ビビってんのか俺、こんな程度のことで……」
忘れたフリをしてきたことだ。
なかったことにしたかったことだ。
あの頃の自分を封印して、今日までずっと何食わぬ顔で生きてきたのだ。
だからこそ、人から見れば些細で下らないことだとしても、感じないではいられない。黒歴史を掘り返す時に感じる、引き攣れるような心の痛みというやつを。
それは実際の痛みとはまるで違う。骨を折るとか、腕を切るとか、そういう物理的な痛みとは異なる想像上の痛みでしかないものだ。
だけど時として、それは傷を負うよりもずっと深く、重い痛みなのだ。少なくとも、そう、俺にとっては。
「……やっぱり明日にするか?」
だから押入れの扉を開けることもできないまま、思わずそんなダサい言葉が口を突いて出る。
そして押入れから、そっと手を離しかけたところで――。
「兄貴さぁ!? お母さんがなんかめっちゃ怒ってるんだけど!」
と、部屋の扉を開いて麗香がそう怒鳴りこんできた。
「どわっ!?」
「……は? てか、そんなところでお兄ちゃんなにしてんの?」
「え? あー……いや」
答えあぐねて、思わず俺は曖昧に言葉を濁す。
そんな俺に麗香は胡乱げな視線を寄越して、
「よく分かんないけど、あとでお母さんの機嫌取っといてよね!」
と言って、麗香は俺の部屋から立ち去ろうとした。
「あ、麗香待って!」
そんな彼女を、思わず俺は呼び止める。
「ああん?」
と、一応は止まってくれたものの、麗香の反応は刺々しい。
まあこれもいつものことだと思いつつ、気づけば俺は彼女にこう訊ねていた。
「なあ麗香。一個お前に聞きたいんだけどさ……俺って、なんつーかその……ダサく見えるか?」
「はぁ?」
『なにいきなり変なこと言ってんだコイツ?』という感じの視線を麗香が俺に寄越してくる。さっきまでは刺々しいだけだった視線に、今度はゴミを見る類の、侮蔑のニュアンスが加わった。
それから麗香は吐き捨てるようにして、
「兄貴がダサくなかった瞬間なんてこれまで一度も見たことないけど?」
と言ってくる。
「う……」
「っていうかいきなりそんなこと聞いてくるとかお兄ちゃんマゾなの? 本当に気持ち悪い。キモいじゃなくて気持ち悪い」
「あ、あのなぁ! そこまで言わんでもいいだろうが!」
「ほら。人にモノ聞いといてそういう返し方しかできないところとかがもうダサい」
……言われてみればその通りである。
むしろ、変な濁し方をして曖昧な回答をされるよりも、麗香の態度の方がよっぽど誠実でありがたい。口の悪さには目を瞑るとして、少なくとも彼女は俺に嘘をついていないのだから。
「……すまんかったな麗香。確かに今のはダサかったわ」
「ん。……で、それだけ?」
「あ、いや……質問ついでにもう一つだけいいか?」
「なに?」
「俺って……これからカッコよくなれると思うか?」
続けて繰り出された俺のそんな質問に、麗香は目を一瞬ぱちくりと瞬かせると……ゾッとした様子で両手で自分の肩を抱く。
それから、
「キモッ! うわっ、きんも! 今本気で寒気した! うぅ、鳥肌立ったぁ……」
と、本気で泣き出しそうな顔でそんな言葉を口にする。
「そこまでドン引かなくてもいいだろうが!? 俺そんなに変なこと言ったか!?」
「言ったよ! 逆にあたしが、『お兄ちゃん、あたしって可愛くなれると思う?』って兄貴に聞いたらどう思う!?」
「キモいこと言うな!」
「そういうことだよ!」
それから一頻り、やれお前のここがキモいだの、お前のあそこがウザいだのと不毛な言い争いを繰り広げたところで、やがてお互い同時にため息をつく。生産性のない時間を過ごしたことに、二人して妙な疲労感を覚えていた。
「――ってかさ」
と、口論に区切りがついたところで、麗香がうんざりした口調で口を開く。
「兄貴がカッコよくなれるとかなれないとか、そんなのあたしが知るわけないじゃん。頑張ってみてから言えっての」
「……っ。まあ、そうなる……よな」
思いのほかに、その言葉は効いた。ついさっきまで、明日やろうの馬鹿野郎になりかけていたから。
「すまんな、麗香。助かった。……変なこと聞いて悪かったな」
だから俺は、麗香に素直に礼を告げる。
すると彼女は、つまんなそうな顔で視線を逸らして、
「別に。兄貴が変なのはいつものことだし」
とだけ呟いて、そのまま部屋から立ち去っていった。
「……よし」
そんな彼女の背中を見送った俺は、改めて押入れの扉と向き合った。
そして再び、押入れの扉に手をかける。
今のやり取りで、手の震えが消えたわけじゃない。竦む心がいなくなったわけでもない。
だけどもう、『やっぱり明日にしようかな』なんて考えはこれっぽっちも浮かばなかった。
……いや、少しだけ嘘をついたな。
やっぱり明日にしたい気持ちは全然あるんだ。あるんだけど……。
「だからってほんとに明日にしてたらダサいよな」
それを恥じる気持ちの方が、この一瞬だけはほんの少しだけ上まってくれた。
***
そして、俺は押入れの扉を開く。
その奥へと身体を突っ込んで、段ボールに突っ込まれた都合十数冊のノートを引っ張り出してきた。
それはいわゆる、黒歴史ノートだ。
麻栗の真似をして、麻栗にカッコつけたくて描いてみて……そして結局挫折した、漫画もどきの出来損ない。
「考えてみりゃあの頃から……俺は麻栗のことが好きだったんだな」
ページを開いて、その中身の不細工さに眉を顰めながら、俺はそんなことを呟いていた。
だってそうだろ?
好きな子にはカッコつけたかったんだ。男の子なんだから当然だ。
だけどカッコつかなくて、そんな自分を知られたくなくて。
ビビって隠して、今日この日まで……か。
「でもいい加減、向き合わないとな」
いつまでもビビり続けたまんまじゃ、それこそこれからカッコつかない。
黒歴史ノートをパタンと閉じる。
代わりにスマホを手に取って、メッセージの作成画面を立ち上げた。
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