第2話 津島慎太郎
109やセンター街がある渋谷の北側とは対象的に、戦後からの古い店が軒を連ねた南側、いわゆる桜丘町は、時代の流れについていけない人間のささやかな楽園だった。けれど国が主導する都市再生緊急整備地域に含まれことで、桜丘町の山手線沿い一帯は複合商業施設やオフィスビルが並ぶモダンな街に生まれ変わることになった。商店会の代表や建物のオーナーとデベロッパーの間では、2023年に完成する新しいビルの区分所有や入居しているテナントへの補償金の交渉が数年に亘り続いていた。訴訟を起こすテナントもあったが、多くは補償金のつり上げが目的で、開発自体を止めるつもりはないようだった。2018年には双方が合意、整備地域内の店舗は年内の10月までにすべて退去することになった。
津島慎太郎が切り盛りする桜丘町のドジョウ料理屋「桜河岸(さくらかし)」も、10月25日を最後に閉店する。そうしようと思えば再開できるだけの補償金を手にしたが、慎太郎は別の場所に移ってまで店を続ける気には、もうなれなかった。創業1958年、父親から継いだのが1988年。父親と自分とで60年間暖簾を掲げてきた桜河岸は、木造のどっしりした構えの二階建てで、一階を店に、二階を住居に使っていた。磨き上げた8人がけの木のカウンターに4人がけのテーブルが6つ。ドジョウのほか、ふな、鯉、しじみなど、東京らしい川魚も出していた。もっとも今は輸入物ばかりで、東京産の魚はひとつもなかったのだが。
厨房の2018年10月カレンダーの、25日が赤ペンで丸く囲んであった。今日で店じまいだというのに格別の感慨もないことを、慎太郎は不思議には思わない。感傷には時差がある。何かがこみ上げるとしたら、店を畳んでしばらく経ってからだろう。今までの人生で、幾度も経験してきたことだ。普段と同じ手順でドジョウの下ごしらえをする。隣では、妻の明枝が大鍋で鰹の出汁を取っている。
昼営業を取りやめたので、正午に二人で味噌汁、たくあん、佃煮、白飯の簡単な昼食を掻き込んでいた。携帯電話が鳴る。目をやるとディスプレイに“翔平”と表示されていた。慎太郎の一人息子だ。急いで白米を呑み込み通話ボタンを押した。
「もしもし、今どこだ」
「東京駅に着いたところ。ちょっとぶらぶらしてからそっちへ行く、4時には着くと思う」
「奈々子さんと透子も一緒か?」
「うん。なあ親父、奈々子はともかく透子に店の手伝いなんて本当にできるの?」
「できることしかさせねえよ。それより悪かったな、平日だってえのに会社や学校まで休ませちまって」
まあ、親不孝な息子だからこんな時くらい、と翔平はぶっきらぼうに答えて携帯を切った。
電車が遅延したせいで、翔平たちが到着すると、もう5時前だった。慎太郎は挨拶もそこそこにお品書きや店の動線、料理を出すタイミングなどを翔平の妻の菜々子に教え始めた。翔平は店の隅で、持参した一眼レフのレンズをとっかえひっかえしている。一人取り残された透子が祖父と母のやり取りに割って入った。
「ねえ、透子は何するの?」
「お客さんが来たらおしぼり出してくれ」
「注文は?」
「おめえ算数の成績が悪いっていうじゃねえか、数を間違えたら大変だからダメだ」
「えー、じゃあ料理運びたい」
「ドジョウの鍋はグラグラ煮えててあぶねえからダメだ」
「……わざわざ博多から手伝いに来たったいが、意味はなかったばいね」
わざと方言で膨れてみせる透子に、慎太郎の表情がわずかに緩む。
慎太郎が5時半に店を開けるとすでに数人の客が並んでいた。今日はどうも、と頭を下げ、暖簾を掛ける。次々と客が来て、6時には満席になった。
いつもは明枝一人が接客だが、今日は義理の娘と孫娘が加わっていつになく華やかだ。
8時ごろ、引き戸が開いて、常連の谷垣がもう一人男を連れて入ってきた。「来ましたよ」とカウンターへ声をかけ、空いたばかりのテーブル席に座る。ドジョウを焼いていた慎太郎は谷垣の方へ顔を向け、いらっしゃい、と言った。谷垣の同伴の男には見覚えがなかった。
慎太郎に促される前に、透子はおしぼりを二つお盆に乗せ、テーブルに運ぶ。カウンターの内側に戻ってきた透子と入れ替わりに、明枝が注文を取りに行く。
「今日でうち最後でしょ、店は混むだろうけどアルバイトを雇うのももったいないから息子のお嫁さんと孫に手伝ってもらってるんですよ」
「じゃああのカメラ持ってる人が」
翔平は、開店時から店内をひたすら撮り続けていた。
「息子。店を継ぐのは嫌だって言って、今は九州でサラリーマンですよ。でも結局立ち退きになるんだから、継がなくて正解だったんですよね」
にこやかに話しかけてくる谷垣と対照的に、向かい側に座る男は憮然とした表情で黙っている。ずいぶん愛想のない男だ、と明枝は思った。
10時過ぎ、最後の客が店を出たあと暖簾をおろし、水入らずで遅い夕食を食べた。父さん、母さん、お疲れ様、と言って翔平が慎太郎と明枝のグラスにビールを注ぐ。菜々子もキャリーバッグから花束を取り出し、長い間本当にお疲れ様でした、と言って二人に渡した。おいおい、照れるぜ、とはにかみながら、慎太郎は花束を受け取る。「透子はじいちゃんとばあちゃんに何をくれるんだ?」と冗談のつもりで聞くと、透子は真顔で「私、おじいちゃんの店を継いであげる」と答えた。慎太郎は「そうかい」と言って翔平の方をちらりと見た。心なしか表情がこわばったように見えたが、いやいや考えすぎだ、と打ち消した。
「店はじいちゃんの代で仕舞いなんだ。だが、ありがとうな」
慎太郎は透子の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「記念写真を撮ろう」と翔平が唐突に言い、カメラを持って外へ出た。翔平を追うようにみんなで店を出る。10月だというのに、雪がちらついていた。綿埃のように頼りないが、皮膚に触れると確かに冷たかった。
慎太郎と明枝は三鷹に借りた小さなアパートに引っ越した。店の後始末も一段落した11月半ば、翔平から小包が届いた。開封すると大量のプリントだった。あの日翔平が撮った店の写真だ。
「なあ、これ、お客さんにも送ろうか」
常連客にDM や挨拶状を郵送する為の名簿があったことを思い出したのだ。明枝と二人でプリントを仕分けていると、慎太郎の胸に、突然店の思い出がどっと押し寄せた。思った通りだ、感傷ってやつはいつだって遅れて、おまけに不意を衝いてきやがる。
慎太郎の手が、一枚のプリントを持ったまま止まる。カウンターの奥に立つ透子が写っている。
「あいつ、私が店を継ぐなんて、マセたこと言うじゃねえか」
あの時、店を継ぐと言ったのが翔平だったら、俺は保証金を全部くれてやってもいいと思っていた。そうだ、俺は「桜河岸」を残したかったんだ。まだかすかに、あいつに期待していたんだ。
(透子が、もう少し大きけりゃなァ)
明枝に思わずこぼしそうになるのを、慎太郎はすんでのところで堪えた。
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