桜丘町、クリスマス

マツ

第1話 轟 陽介

轟建設の社長、轟陽介がドジョウの養殖事業を始めるつもりだと告げたとき、工事部長の宮坂四郎は即座に反対した。理由は2つ。1.なぜ今なのか。2.なぜドジョウなのか。

「本業が儲かっているからだ」というのが1.に対する轟の回答だ。2020年に開催が決定した東京オリンピックの整備事業と東京7区にまたがって進む再開発事業とが重なり、建設業界はミニバブルの様相を呈していた。轟と宮坂を合わせて社員30名ほどの轟建設も例外ではない。オリンピック関連の工事は落ち着いたものの、再開発事業の方はゼネコンからの孫請けやひ孫請け受注で連日目が回るような忙しさだ。そんな状況で新規事業に人を割く余裕はない、という宮坂の言い分はもっともなのだが、轟は譲ろうとしなかった。

「今期と来期の黒字が見込める今なら事業資金を確実に調達できる。バブルが落ち着いてからじゃ遅いんだよ」

二人の話し合いは社長室で行われていた。社長室といっても事務机と来客用の黒いソファーセットがあるだけの質素なしつらえだ。ソファーセットは創業時に轟が通販で購入した合皮の安物で、会社が軌道に乗りはじめた頃、社長室に置くのだからもう少しマシなものに買い換えてはと経理の本多女史に進言されたが「いやこれでいい」と轟が拒んで以来、今も使われ続けている。宮坂が座る入口側のソファーの肘掛けには穴が空いており、黒のビニルテープで塞いであった。

(相変わらず頑固だな)

高校の同級でラグビー部のチームメイトでもあった轟の学生時代を宮坂は思い出す。がっしりした、いかにもフォワードらしい体躯の轟は、パワーで強引に相手を切り崩すプレースタイルをどんな状況でも変えようとしなかった。身体能力への自信というより信念、もっと率直に言えば融通のきかない性格なのだろうと宮坂は分析していた。対する宮坂は轟よりもずっと小柄で、司令塔役のスクラムハーフに自分の活路を見出した。主張を曲げない轟とはよく対立したが、心の底では彼のプレーと一徹さに憧れてもいた。

「それからさ」と轟はA4サイズの紙の束を宮坂に差し出しながら話を続ける。

「ドジョウの養殖っていうのはいまちょっとしたブームなんだぜ、成功例もある」

2つ目の質問への回答らしい。宮坂が手渡されたのは新聞のコピーやネットニュースのプリントアウトだ。大見出しや小見出しに「大分の建設会社」「ドジョウに着目」「養殖に成功」といった明朝体のフレーズが踊る。

「そこはうちよりも小さな建設会社なんだけどさ、官民共同でドジョウの養殖に取り組んで、今は年間10トンの出荷があるそうだ。お前、浅草の『こまがたどぜう』っていうドジョウ料理の老舗知ってる?あそこで使っているのもこの会社で養殖したやつらしいぜ」

轟の話を聞きながら資料の要点を拾う。その昔、田圃で無尽蔵に採れたドジョウは水田の減少と農薬の使用で激減した。今、食用ドジョウはほとんどが中国からの輸入に頼っている。しかしいつ頃からか休耕田の再利用と地域活性化策として自治体や企業がドジョウ養殖に着目するようになった。水田を養殖池に転用すれば、設備費用はほとんど必要ない。ただ、この方法は自然環境に左右されるので生産効率が悪い。そこで近年、専用の養殖設備を新たに作り、計画的生産が試みられるようになった。轟が手渡した資料にある大分の建設会社は、その成功例らしい。

「けれどキモになる養殖技術はたぶん特許取ってるでしょ?」

「もちろんうちも独自のノウハウを研究する。実験用の水槽を作って、2年間試行錯誤できるだけの事業費を今の本業の売上なら十分賄える。念のため区の産学連携事業資金にも応募するつもりだ」

「しかし人が」

宮坂は最初の反対理由を繰り返す。

「新規事業は俺が専任でやる」

「何馬鹿なこと言ってんの、そんなのありえないよ!」

 宮坂は思わず声を荒げた。わずか30名の建設会社にとって、社長とはいえ轟は貴重な戦力でもあったからだ。営業部長を兼務し、短期工事なら現場監督も務める。今本業から抜けられては困るのだ。

 轟が唐突にソファーから身を乗り出す。反射的に身構えた宮坂の前で轟は床に膝を付け、巨体を2つに折り曲げた。

「宮坂、頼む。なんなら会社、今後はお前に任せる。俺はドジョウに賭けたいんだ」

 土下座で頼み込む轟に、宮坂はかける言葉が見つからない。無茶苦茶だ、と呆れる一方で、懐かしさも感じていた。。そうだ。学生時代から、轟とはこういう男だったのだ。強引で、言い出したら人の話なんて絶対に聞かない。天真爛漫で、裏表がない。そして自分の言葉には最後まで責任を持つ。だから信頼できたし付いてくることができた。轟に説得され、大手ゼネコンからこの会社に転職したのも、思えばそんな人柄に惹かれたからではなかったか。

「……養殖に成功したとして、需要はあるんですか?」

「需要は作る。ドジョウ料理の店を開く。まずは渋谷に1店舗」

「それなら店舗だけ経営した方がリスクが少ないじゃないですか」

 轟は立ち上がると、背後の棚からファイルを取り出して宮坂の前で開いた。古地図のコピーが何枚か挟まっている。

「東京がまだ江戸だった頃は、川や田圃がたくさんあって、ドジョウがいくらでも獲れたそうだ。そういう東京を、俺は再生したいんだよ」

 なんだ? 都市開発までやろうというのか? 想像以上に大きい、いや無謀な計画だ。しかし轟の目は真剣だ。

「……何がきっかけなんですか?」

 宮坂の問いに、ちょっとセンチメンタルな話をしていいか、と轟は返し、確か昨年の10月だったかな、と前置きしてから語り始めた。


 大学時代の友人の谷垣から久しぶりに連絡があった。週末に渋谷で飲まないかと誘われて、轟は二つ返事で承諾した。金曜の夜、JR渋谷駅で待ち合わせ、駅の近くのチェーン系居酒屋で、まずは軽く飲んだ。

「近くにさ、贔屓の店があるんだけど、今日で店を閉めることになっててさ。あ、陽ちゃんドジョウは食える?」

「食ったことないけど食ってみたいな。場所はどこ?」

「桜丘町。店の名前が『桜河岸(さくらかし)』。知ってる?」

 轟は心の中で「あ」と声をあげた。桜丘町の再開発に伴う一帯の解体工事を、轟建設が受注していたからだ。開発エリアにある店は10月いっぱいで全て立ち退きになると聞いていた。今日で閉めるということは「桜河岸」という店も、おそらくその一軒だろう。

 自分の会社が取り壊す店で、しかもその店の最後の日に飯を食う。再開発も立ち退きも轟のあずかり知らぬところで決まったことだ。しかし分かっていても、何となく後ろめたい。轟は腰が引けたが、さりとて断る理由も思いつかず、少し重い気分のまま、谷垣と店へ向かうことになった。


「70くらいの爺さんと婆さんが切り盛りする古い店で、その日は爺さんの孫だっていう小学生くらいの女の子と、その母親が手伝いに来てた」

 らしくない、しんみりした面持ちで轟は宮坂に話し続ける。

「初めて食ったドジョウはさ、予想以上に美味かったんだよ。具材は頭も尻尾もついたままのが丸ごとと、たっぷりのネギだけ。それを醤油だれで煮込んでるの。思ったよりもあっさりしてて、ウナギともアナゴとも違うんだ。婆さんが、先代から数えて60年ここでドジョウを食わせてきたって言うんだよな。客もほとんど常連で、店の最後を名残惜しんでるのが伝わってきたよ。その店を、1月になったら解体するんだ、俺の会社が。いや、俺が。ふとカウンターに目をやると、爺さんの孫が、じっと俺を見ていてさ。なんかもう、いたたまれなくて」


 谷垣と別れたあと、自宅のある大塚に帰るため轟は山手線に乗った。車窓の外に、まだ10月だというのに雪が舞っていた。

 自分がこれまでやってきたことはなんだったのか。轟は窓に映る自分の顔を見ながら虚脱感に襲われていた。50を過ぎたころから、建設業という仕事に疲れていた。東京にはもう、作らなければならないものなど何もないのではないか。それでも何かを無理やり作るために、壊さなくてもいいものを壊しているだけではないのか。轟の胸に以前から巣喰っていた虚しさに、あの店が、思いのほか深く食い込んできた。


「今年の1月、『桜河岸』の解体工事に立ち会ったよ。」

(そういえば)

 宮坂は思い出す。人手が足りず、社員の手が空くまでの繋ぎでいいからと轟に現場監督を頼んだのだ。あの時、轟はどんな気持ちで引き受けたのか。

「なあ宮坂、桜丘町にできる新しいビルのパースを見たか? 俺はさ、でっかい墓石だって思ったよ。桜丘町だけじゃない。これから東京に立つビルは、古い東京を壊して弔うための、墓石ばっかりなんじゃねえか? 俺たちは坊さんか? 建設業は夢のあるハコを作る仕事だったんじゃなかったか? 俺の話は土建屋の青臭い理想論か? なあ宮坂。」

 宮坂は、轟に自分の気持ちを代弁されているような気がしていた。お前のいう通りだ。俺も同じ気持ちだよ轟。しかしそれは一時の気の迷いだということにして、蓋をするのも管理職たる俺たちの仕事じゃないのか。ところが、よりによって社長のお前が率先して蓋を開けるとは……。

「俺は考えたんだ。未来の東京に、何を建ててやれるかを」

それがドジョウか? 江戸時代の水上都市の再現か? たかだか社員30名の建設会社の事業計画にしては、いささか荒唐無稽でロマンチックに過ぎるんじゃないか? だが……だが、確かに面白い。久しぶりにわくわくできそうじゃないか。


 轟の思い通りにさせてやろう。

 口には出さなかったが、宮坂はもう腹をくくっていた。



 宮坂と話したその晩、轟は夢を見た。

「桜河岸」の解体の様子を、現場監督の轟が見ている。

 木造二階の建物は、重機が力を加えると紙細工のようにひしゃげた。

 崩れ落ちた部材が、トラックに積まれていく。

 ふと隣を見ると、小学生の女の子が立っていて、解体の様子を見ていた。

 女の子は、轟の方に目を向ける。

 桜河岸の主人の孫だという、小学生の少女だった。

「何を建てるの?」

 轟は言葉に詰まる。だが、しばらく考えてから、少女にこう言う。

「ドジョウ料理の店だ。おじいちゃんの店を、新しく建て直すんだよ」

「そう」

 少女は笑顔になる。

「でもじいちゃん、店はもうやめるって。だから、私にちょうだい」

「ああ、いいとも」

 轟は笑顔で答えた。

「俺からのクリスマスプレゼントだ」


 轟は、そこで目を覚ます。

 窓の外は、まだ暗い。枕元の目覚ましのボタンを押した。盤面が明るくなり、デジタルの数字が、2019年12月25日AM6時を示していた。

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