第2487話・太平の国で……
Side:狩野派の絵師
尾張は日ノ本であって日ノ本ではない。そういう噂が聞かれたのはいつ頃であったか。
斯波家ほどの家柄ならば、新たに城や屋敷を構えると襖絵を求めて我らに声が掛かるが、尾張からは十年ほど前から声が掛からなくなった。
絵師自体は諸国におる。落ちぶれて絵師も呼べなくなったのかと笑うておったこともあるが、笑い話で済まなくなったのはいつからであろうか。
絵師の方殿。内匠頭様の奥方であり、尾張の絵師の頂におるお方。那古野にある学校にて自らも育てておるのだ。
我らの書画とは違う南蛮の絵であると聞いておったが、雪村殿が尾張に来て以降は書画も教えておる。
数年の年月が過ぎて、今では我ら狩野派どころか領国の外の絵師に絵を描いてほしいと頼むことはないと聞き及ぶ。
もっとも、伝え聞くところによると絵師だけではないようだが。今では尾張が畿内に求めることはないとすら言われる。
公家衆などは尾張に下向したいと動いたこともあったそうだが、今川の伝手で駿河に下向していた者ら以外は、武衛様と弾正様が拒んでおられるとか。
それらしい理由を付けておるらしいが、扱いが難しい公家衆など来ても困るという声が尾張にあると誰かが言うていた。幾年か前に院が尾張に下向した際、
来てみて分かったが、尾張は己の流儀で上手くやっておる。他所から高貴な者が来ても喜べぬのだ。此度とて熊野と石山の者らが来ておったが、正直、丁重に扱ってはいたが、むしろ熊野と石山が気を使うておったように見えたほど。
ふと見ると、留吉殿とおみね殿が海で遊ぶ者らの絵を描いておった。
「ほんにおみね殿の絵は面白いの」
「ああ、確かに……」
帝にすら認められた久遠絵を描く留吉殿が別格なのは今更だが、おみね殿の絵は雪村殿の教えを受けたもので、我らと同じ書画だ。
幼さ故に我らでは思いもせぬ構図を用いたかと思えば、教えを受けた技を存分に生かす絵は、この世にふたつとないものかもしれぬ。
「えへへ、ありがとうございます!」
そこらの町娘のように笑うおみね殿に我らがたじろいでしまう。雪村殿からはあまり持ち上げたりしないでほしいと頼まれておる故、我らも言葉には気を付けているが。
思うままに絵を描けるようにしてやりたいという久遠家の意向なのだとか。これほどの絵を描いたとて、まだ十代の娘。先々を見据えて育てるとは、恐れ入ったとしか言いようがない。
おかしなもので、留吉殿やおみね殿を見ていると己で絵を描きたくなる。なにものにも囚われず思うままに絵を描けるなど、なんと幸せなことか。
「雪村殿、我らもこの場を絵に描いてみたいのだが……」
「むろん、よろしゅうございまする。されど、ひとつだけ。外の者に顔が知れるとお困りになるやもしれぬお方がおりまする故……」
我慢出来なんだのであろう。ひとりの者が雪村殿に頼むと条件付きで許してくれた。
「分かっておりまする。ここを描いた絵は内匠頭殿に献上致しまする。それならばよろしいのではございませぬか?」
「ご配慮かたじけのうございます」
当然だな。内匠頭殿と奥方衆、それと子らの顔はとても絵にして外に出せぬ。命を狙われでもしたら、我らが東国の者らに子々孫々まで恨まれてしまうわ。
「この鉛筆という品はよいのぉ」
「ああ、筆にはない良さがある」
筆で絵を描く者もおるが、尾張で絵師らが使う鉛筆なるもので絵を描く者もおる。下絵を描くなら、むしろこちらのほうが良いのではと思えるものだ。
心地よい日差しの下、畿内では決して見られぬ人々の楽しげな様子を思うままに描けるとはなんと幸せなことか。
「うわぁ」
「えしさまおじょうず」
気が付くと子らが集まって絵を描いておる様子を見ていた。絵を描く姿を他人に見せるなど考えもせなんだことだが、数日前、孤児院にて同じようなことがあった時に許しておる。
特に頼まれたわけではないが、絵師殿と留吉殿が子らに見せながら絵を描いて教えておったからな。この地にいる以上、久遠の流儀に習ったまで。
「そうか、そうか。それなりに励んだからの」
畿内では絵師として名が知れており、市居の者には頭を下げられることも珍しゅうない。身分ある方々からお褒めの言葉を頂くこともあるが、我らの名も立場も分からぬ子が絵を見ただけで喜び褒めてくれると、これはこれで嬉しきことだと気付いた。
狩野派の名も立場もない。絵を素直に認められたのだからな。しかも久遠で育てておる子らに。
よいの、なんとよい国だ。己の描きたい絵を思うままに描けるとは。
いっそのこと、このまま京の都に戻らんでもいい気がしてきた。
Side:久遠一馬
お昼ご飯のいい匂いがしてきた頃、狩野派の皆さんが子供たちに囲まれながら絵を描いていた。
邪魔になっているなら遠ざけたほうがいいかなと思ってメルティに聞いたんだけど、孤児院や学校でわりとあんな感じだったから大丈夫らしい。
なんか、もっと気難しい人たちだと思っていたんだけど。偏見はよくないなぁ。気を付けないと。
お昼は海鮮焼きそばと海鮮鍋、それと浜焼きという海鮮尽くしだ。
「おお、これは美味い」
「なんと贅沢な……」
ああ、狩野派の皆さん。見ていた子供たちと一緒にお昼にしている。ほんと馴染み過ぎじゃないだろうか。ただ、ウチの子たち、雪村さんを頼ってくる絵師の人たちと会う機会多いから慣れているんだよね。
「うむ、麺は知っておるが、海の幸と共にこうして料理するとは……」
「唐の料理をもとにした、焼きそばというものなのですよ」
「ほう、さすがは久遠家じゃの」
子供たちを真似てズルズルと焼きそばをすすり唸る狩野派のお偉いさん。相手をしているのは孤児院の年長さんなんだけど。
尾張では尾張の流儀で、割り切っているんだろうなぁ。いつの時代もこういう割り切りの出来る人は強いのかもしれない。
というか雪村さんが有能過ぎるんだろうか? これほど上手く取り持つなんて。あとで褒美をあげたいけど、正直、褒美とかそこまで欲しがらないんだよね。
今の暮らしが気に入っているらしくて。
◆◆
『久遠家海水浴図』
永禄六年に狩野派が尾張に花火見物に行った際に、同行した久遠家の海水浴の様子を描いた屏風になる。六曲一双の屏風であり、当時の狩野派絵師の合作として描かれたものになる。
画風は当時の狩野派の画風そのものであり、前年に近江御所に納めた襖絵や屏風に勝るとも劣らない力作である。
同年の花火見物には熊野三山や石山本願寺も来ていて、それらの勢力は政治的な思惑を抱えての花火見物であった。
ただ、狩野派絵師たちは熊野や石山と違い、特に政治的な狙いもなく前年にあった近江御所での仕事で尾張との絵師と伝手を得たことから招かれての来訪であった。
滞在中は久遠家客分として尾張の画壇を差配していた雪村の接待を受けて、大いに喜んだという逸話が残っている。
また、この頃にはまだ無名だった
絵師の方こと久遠メルティを筆頭に尾張の絵画を見た狩野派絵師たちは、滞在中にいくつかの絵を描いており、それらはすべて斯波家、織田家、久遠家に献上されている。
現在は国宝となっており、久遠メルティ記念美術館にて常設展示されている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます