第2471話・静かに動く
Side:久遠一馬
熊野とは久遠船による定期船を出すことで合意した。背に腹は代えられない。まさにそのひとことに尽きるのだろう。
貧しくて飢饉のように飢えていたわけではないが、織田領に出て行く人をもう止められない状態だった。織田領から逃げていく賊のような連中はいてもまっとうな領民が減るんだ。
熊野三社と現地の武士はそこまで困ってもいなかったはずだけどね。やはり地の利がいいんだ。西から来る船は熊野の領海を通ることで、通行税やら津料が入ることは大きなメリットだった。
ただし、領民からするとメリットよりデメリットが大きい。一番のデメリットは、やはり経済だ。
敵対していたわけでもないが同盟相手でもない。熊野というだけでそこまで配慮もしていなかった。海上ルールを守っていることなどを考慮して他国価格より少し安いくらいの商いを織田はしていたが、その価格差でさえ領民には重たかった。
逃げる領民と引き留めようとする地主や武士や寺社。十年近く、よく我慢したなというところだろう。
熊野に関しては、もう織田領の暮らしと経済から逃げられない地域だ。統治する者たちも大変だったと思う。水軍でさえ、領海に最低限の船を残して尾張に出稼ぎにきていたし、織田領と同様に西から来る船や商人の評判は良くなかった。
熊野一帯の産物も西に売るより尾張に売ったほうがいいからと、だいぶ前からほぼこちらとの取引になっていたくらいだ。
熊野三山としては独立を続けることが理想ではあったのだろうが……。
「仁科の一件がここで役立つとはね」
思わず漏らした一言にエルたちが苦笑いを見せた。
結局、切っ掛け次第というところもあるのだろう。独立を断念するくらいの切っ掛けが仁科騒動だった。
ただし、すぐに熊野三山が寺領を放棄して臣従をするわけではない。織田家には寺社に対する警戒心が今も強く、熊野も要らないという人が多いんだ。
もう少し言うなら、熊野三山の運営と維持管理に必要なお金はいくらか、寺社の規模はどうするのか。僧兵などは自衛分を残して解体してもらわないと駄目だし。その辺の話し合いはしないといけない。
神宮みたいに高級ニートになっても困るし。
そもそも織田領だと寺社の人手不足が割と深刻で評定で議題に上がることすらある。熊野も今の規模を保つことは難しいと見る動きもあるんだ。
その辺りが合意出来ない限りは共通の利益分の配慮以上は出来ない。
「神宮は相変わらずでございますからな」
仁科の名が出たからだろう。資清さんはもうひとつの懸案を口にしたが、あそこは晴具さん次第だ。ウルザとヒルザを軽視したことが根源にあるのだが、晴具さんが矢面に立ってくれている。
今でも清洲に使者が来て交渉の場は持っているらしいが、なにかしらの嘆願があってもお断りして終わる。
晴具さんが怒っているという形で放置しているので、まずは晴具さんに許してもらって口利きをしてもらえと暗に示して終わりだ。もともとはオレと晴具さんが怒っているという状態だったが、オレが神宮と対立しているという形が残ることを憂慮した晴具さんが自ら恨まれ役を買って出てくれた。
おかげでウチに神宮の使者が来ても大御所様を通してくださいというだけで済む。
神宮は、臣従した寺社の未来の姿として織田家中に大きな影響を与えた。厄介な寺社は寺社領を返して独立させればいいと示したからね。
各地の寺社があれこれ理由を付けて現地の代官に寄進を求めることで、対立することが割とあるんだ。
代官は旧領をそのまま管理している人が今も多いのだが、もう統治方法も違うので決して楽ではない。末端の管理をしているのは代官なんだ。
流通と商いを織田家が取り上げたから、寺社は寺子屋とか医療活動をやらないと暇なんだよね。この時代では領民が寺社にお墓を建てるなんて習慣ないし。
中には、なにもやらない高級ニートが少なからずいる。まともな人が逃げ出してしまうと、残った人たちは寺の維持管理すら手を抜いてしまうところもあるし。
もっとも、そんな寺社は同じ宗派の上位の寺が人を変えるなり破却するなりしているが。
少し話が逸れたが、織田家代官は勝手なことをする寺社に対して独立するかと言えるようになった。それは本当に大きな手札で、威張り散らしている寺社を大人しくさせることの出来る一言として末端の代官たちから喜ばれている。
仁科三社と神宮の影響は今も終わっていないんだ。
Side:近衛稙家
尾張に来ると少し先の様子が見えるの。
熊野が大人しゅう織田に従う様子に心底安堵する。朝廷ですら手を付けられなんだ寺社を従え抑えてゆくには今しかあるまい。
叡山や高野山や興福寺もいずれは……。
寺社を堕落させたのは、朝廷と吾ら公卿に責がある。己が始末を尾張にさせてしまい申し訳ないところもあるが、出来ぬことを騒いだとて誰の得にもならぬ。降れるところから降るように促して、二度と世を乱すようなことをさせぬ寺社にせねば。
「本願寺は揉めておるようでございますな」
山科卿の言葉にため息を漏らしそうになった。
「内匠頭を知らぬからの。頼む相手が間違うておるわ。願証寺を助けたのは他でもない願証寺が織田の寺だからじゃ。あやつは身内を大事とするだけ。本願寺に限らず、力ある者は己が力でやれというのが内匠頭の考えじゃからの」
左様なことも理解しておらぬということは、武衛が寺社を疎んでおることも知るまいな。武衛が信じるのは弾正と内匠頭のみ。両名が穏やかなので表に出ておらぬが。
「近衛公が内匠頭と昵懇となり上手くいっております故に……」
「ほほほ、吾と同じ立場を欲すると? 鎮永尼もその程度の思慮しか出来ぬか」
山科卿の言葉につい笑うてしまった。甘いの、鎮永尼は。
「山科卿然り、二条公然り、内匠頭は働く者を好む。内匠頭に会いたくば、先に越中に確固たる姿勢を示すべきであったの。されば、助けることもあったであろうに」
大人しゅう弾正に頼めば悪いようにせなんだと思うがの。あやつは強い故に寛容じゃ。もっとも知恵を貸すのが内匠頭と奥方衆故、いずれにしても本願寺は厳しき道を選ばねばならなんだと思うが。
生まれた時から人に仕えられる身では気付かぬのかもしれぬの。共に働くという意味を。
そう考えれば、先代の大樹と共に京の都を離れたことが今のわしを助けておるのやもしれぬ。
今頃、立派になった倅を見て先代の大樹はいかな顔をしておるかのぉ。
喜んでおろうと吾は思う。
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