第2429話・近江に訪れし者

side:春


 シンディとリンメイが来たことで、ゆっくりする時間が増えた。そんな私と秋をわざわざ遠方から訪ねてきたのは近衛公と山科卿だった。


「めでたいの。内匠頭は喜んでおろう」


 表向きは懐妊の祝いというものでありがたいことこの上ない。ただ、近衛公は自ら祝いの品を持参して訪ねてくる影響を理解しているはず。近衛公が訪ねてくるほどに私たちの影響力があるということでしょうね。


「ええ、喜んでいます。子は宝ですから」


「そなたらだから言えるが、内匠頭からは人として大切なことをいくつも教えられた。子に関してもそうじゃ。吾は自ら育て慈しむなどしたことがない。そのツケが重くのしかかっておる」


 殿下……。まさかの告白に驚きのあまり秋と顔を見合わせた。自分の不利になること、親子の不和をこれほど簡単に自ら打ち明けるとは。


「私たちの生き方が必ずしも正しいわけではありません。公家の慣わしは詳しくありませんが、その時々の世によっては理に適うものも多いですから。今の世は誰がどう生きても難しいもの。私たちのやり方をしても上手くいかないことはありますので」


 少し自信を失っているのかしら? 朝廷と公家、その伝統と知恵はかけがえのないものよ。無論、変えるべきところもあるけど。もう少し自信を持ってほしい。私たちの価値を理解する近衛公ならばこそ。


「……内匠頭がそなたを近江に出したわけが分かるの。大樹にはそなたのような強く賢き者が必要じゃ」


 近衛公は驚いた顔をしつつ、頬を緩めている。これも演技だというのかしら? いえ、本音を明かしつつ自身の行く道を進んでいるように見えるわ。


 私たちに見抜かれるなら隠さなくていいと割り切ったのでしょうね。本音でぶつかり私たちのことを学び、朝廷と近衛家の行く先を見定める。怖い人ね。生まれも育ちも上から数えたほうがいい家に生まれてそんなことが出来るなんて。


「今は殿下が動くほどのことはないはず。此度は朝廷とのつなぎ役でございますか?」


「そうじゃ。働かざる者が働く者より信を得るなどありえまい? 吾は先代の頃は朽木で共に励んだからの。妨げにはならぬ。山科卿も諸国を巡りし者なのは承知であろう」


 確かに。動くべき時なのだと思うわ。近江御所は動き出して半年、今動かずしていつ動くのかとさえ思う。近江御所が苦労をしている時に力を貸してこそ、価値がある。ほんと近衛公がいてよかったと思わせるわ。


「頼もしゅうございます。奉行衆には私のほうから伝えておきます。何卒、良しなにお願い申し上げます」


「うむ、そう言うてくれると助かる。なにかあれば、なんなりと言うてくれ」


 生き残るための嗅覚なのかしら? これは私たちにはないものね。近衛公と山科卿が助けになってくれると諸問題がだいぶ楽になるわ。


「恐らく、一番助かるのは管領代殿と私たちですから」


 安堵したのか笑みを見せてしまった。近江政権はまだ私たちの負担が大きいから。


「であろうな。ようやっておると驚いておるわ。兵を挙げて潰してしまうことを良しとせぬ以上、なんらかの妥協がいる。関わる皆に。それの間に立つのは苦労しかなかろう」


 私個人としては司令の元の世界の日本が好きなのよね。そういう意味では朝廷も公家も形を変えつつ残したいと思っているわ。


「私と秋は産休に入りますので役目はシンディとリンメイにお願いします。役目以外でしたら世間話などお相手出来ますわ」


「任せよ。そなたの積み上げてきたもの、吾と山科卿で少しでも守る手助けをしよう。さすれば生まれてくる子も喜ぶというものじゃ」


 現状の政権は畿内には少し弱いのよね。ほんと助かるわ。戦さえ避けてくれたら三国同盟でなんとか出来るもの。頼もしい方々が来られたわね。




Side:山科言継


 曙殿と和やかに話す近衛公に驚きを禁じ得ぬ。近衛公は御身が公卿と違う生き方をしておることを承知なのか?


 吾らが近江に来ると決めたことは曙殿と夕暮れ殿の懐妊を知る前であった。二人が懐妊したらしいと知らせが届き、近衛公はすぐに近江に下向すると急ぎここまで来たのだ。


 名代は桔梗殿と唐殿とのことだが、かような時に駆けつけてこそ信を得られると取るものも取らず近江にやって来た。


 あえて口に出さぬが、尾張者が久遠を信じるのと同じように近衛公もまた久遠を信じて生きておるのではあるまいか?


 慶事を心底喜び、次の世代の子らのために今を生きる。まさに久遠の生き方そのもの。


「まことに喜ばしいの。曙殿と夕暮れ殿の慶事にて近江はひとつとなっておる。これで天下が乱れることはあるまい」


 近江に到着したその足で観音寺城下の久遠屋敷を訪ねた吾らは、御所に挨拶に出向くべく屋敷を後にした。


 屋敷を出ると心底喜ばしいと笑みをこぼす近衛公に、かつての姿とあまりに違うことを改めて教えられる。


 血筋や身分ではなく、人は付き合う相手により変わるのかもしれぬ。


 畿内が変わらぬわけが分かった。久遠がおらぬからじゃ。京の都に久遠がおれば、相応に付き合いをして皆が変わるのではあるまいか?


 ……とはいえ、それでは内匠頭に苦労を背負わせるだけか。


 まことに仏の使いではあるまいか? 内匠頭自身は知らぬとしても。関わる者らを変えて世を正してしまうなど、人の技とは思えぬ。


 出家した坊主どもですら出来ぬことじゃぞ。


「山科卿。吾はな、新たな世のために働けることは子々孫々まで誉となると思うておる。京の都におっては出来ぬことじゃ」


 吾の戸惑いを察したのであろう。老練な公卿そのものと言える顔になられた近衛公は、吾に耳打ちするようにそう教えてくだされた。


 ただ、人が良くなられただけではないか。世を知り、先々まで見据えて動く。恐ろしき御仁だ。


 されど……、近衛公ですらいかんともならなんだのが今の世であったはず。


「内匠頭殿は喜びましょうな」


「見捨てられぬように励まねばならぬ。あの男に見捨てられると、嘘偽りなく朝廷は終わるぞ」


 己が覚悟を持って動け。内匠頭がかつて吾らに伝えたことだ。近衛公はそれに応えた。


 かような近衛公だからこそ、内匠頭は政所の伊勢を近江に召し出す際に頼ったのであろう。あまり他者に頼る男ではないからの。


 二条公が案じていた通り。朝廷の命運は近衛公が握っておる。


 吾も少しでも励まねばな。



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