第2421話・軍神の戦と一馬の戦
Side:知子
長尾が越中に出陣したわね。正規のルートからの情報はまだ届いていないけど。正直、ホッとしたわ。
たとえ局地戦で敗れても奥羽領が総崩れとなることはない。それだけの備えはしたけど、それでも長尾景虎が奥羽に来ると厄介なことになっていた。
怖いのは彼が滅びゆくことを覚悟した時、私はそう見ていた。古き時代と共に死を覚悟して戦を繰り返すと、少なくない犠牲を出して時間を費やした可能性はあった。
もっとも、長尾景虎は破滅願望があるわけではない。あくまでも最悪の予測としての話だけど。
奥羽領も大変なのよね。小野寺が臣従したことで小野寺領への食糧支援を開始した。今のところは検地どころか臣従するという形だけで、分国法の布告も統治法の変更もしていないけど、飢えている地域がある。
さらに小野寺を従えたことで、斯波一門である大崎家と領地が接することになった。大崎は伊達と葛西に挟まれていて、南にある伊達に従属を強いられている。
大崎家が尾張に頭を下げて支援を頼んだことで、何年か前から義理程度の支援を続けている。ただ、葛西も伊達もそうだけど、奥羽の勢力は支配下の国人や土豪の統制に苦労しているのよね。
現状でも大崎家は伊達と一緒にこちらと争う気はない。ただし、伊達との縁も軽くないのと家臣や国人領主をまとめきれていないことで動きが取れないでいる。これは葛西も同じなのよね。
肝心の伊達は戦う気でいる。いえ、それしか取れる道がないというべきかしらね。大崎や葛西に優位に立ち、なまじ力があるだけに戦わずして降るという道は選べない。そもそもかつての内乱の影響が残っていて、一枚岩とは程遠い。
「葛西がまとまるのは難しいかと」
高水寺殿の言葉にため息が出そうになるのを押しとどめた。
目下の課題は葛西の内輪の争いね。史実にも記録として残っている及川一族の蜂起も昨年にはあった。ただ、それ以外にも細々とした争いが起きている。
伊達と織田に挟まれてなにも出来ない葛西本家の求心力が落ちていて、一族や家臣がそれぞれ伊達と織田に通じて独自に生き残ろうとしているのよ。
「大崎家は相変わらずよね?」
「はっ、こちらに従いたいようでございますな。されど伊達がつなぎ止めようと躍起になっておりまする」
葛西と大崎が織田に降ると困るのは伊達になる。硬軟織り交ぜた動きで両家を繋ぎ留め、せめて一戦交えようと画策しているわ。
「守護様の御一門なのよね」
守護様からは遠慮はいらないとのお言葉を頂いているけど、こちらに助けを求める形に近い大崎は見捨てられない。
奥羽は斯波と北畠の権威が使えるから思ったより楽なのよね。その分、配慮もいる。はてさて、どう動くべきか。
Side:久遠一馬
神保は増山城に籠城して長尾は包囲したか。長尾勢は増山城に備える兵を残して神保領を暴れまわっている。
乱取り、いわゆる略奪と人狩り。神保も越中では弱くはないのだが、当人たちが籠城していては領内を守る者がいない。さらに田植えを終えたばかりの田畑をも荒らしていて凄まじいという一言に尽きる。
景虎が命じたわけではないようだが、この時代、特に東国の戦はこんなものだ。敵方に遠慮なんてしない。特に長尾と神保や椎名には、過去に当主が戦で亡くなるなど因縁が根深く存在するからな。
そもそも越後から越中に通じる街道は、獣道を街道と考えるこの時代においても難所になる。数千の軍勢を支える兵糧を越後から運び続けるのは無理がある。現地で徴発するしかないんだよなぁ。
さすがの景虎も兵糧を管理して略奪を禁じた織田と同じことは出来ないらしいね。
「やはりこうなりましたな」
評定衆も渋い顔をしている。どっちが勝っても相手方を荒らす。その結果、織田領に流民が集まるんだ。
まあ、そんなこと戦の前から分かっていたので、こちらも支度をしていて受け入れるが。
神保領からの流民は、当面越中領に留め置いて賦役をさせる。長尾の出方次第によっては野戦陣地を構築して戦になるし。長尾と戦うなら越中を知る現地の人は貴重な戦力になる。
これらも三河本證寺の時の戦訓から事前に想定した戦略のひとつだ。考えたくはないが、織田による越中平定も計画は立てているし。
「構いませんよ。こちらが越中や越後の戦に付き合う義理はない。逃げてくる者を食わせるだけでいいです。それこそ織田の戦です。敵は北陸の一向衆ですから」
敵は神保でも長尾でもない。武器を捨てて逃げ込めば飯が食える。その希望を北陸に示す必要があるんだ。村の外を知らない。地域の外を知らないまま信じるしかない人々に、一向宗とは違う希望を与える。
これが、益氏さんの誘いに全力で答えた景虎さんへのオレの返答だ。景虎さんは気付くだろうか?
もし景虎さんと、この時代の流儀で戦をしたらオレひとりだと勝てないだろう。ただ、戦いの主導権を握るのはこっちだ。オレはオレの戦いをする。
仮想空間での十五年とこっちに来てからの十年、ずっと積み重ねた経験がある。悪いけど、戦略では負ける気はない。
「内匠頭殿……」
軍神は戦場にいてこそ輝く。彼を同じ土俵で相手をする気はない。
Side:佐久間盛重
長尾も一向衆も、すべては内匠頭殿の掌の上か。
少しばかり背筋が冷たくなる。越中からの知らせは恐ろしきものがあった。あのまま長尾が越中、加賀、能登と制すると厄介になるのではと思えるほど。
無論、長尾だけでは敵となり得ぬ。されど、奴が我らを憎む者の光明となるおそれはあるのだ。畿内も関東も流れが変われば瞬く間にこちらの敵となるであろう。
すべて分かっていたのであろうな。そもそも長尾を真っ先に気にしておられたのは内匠頭殿だ。
評定も終わると、皆がそれぞれの役目に戻っていく。わしも役目に戻るべく廊下を歩いておると、時計塔が見えた。
「惜しむべくは時だな」
面目でも銭でも命でもない。我らは時を惜しまねばならぬ。内匠頭殿がいるうちにいかな相手であっても奪われぬ国とせねばならぬ。
……わし如きでは筆頭家老の職は少し荷が重いな。愚かな身故、その時にならねば分からぬことが多すぎる。
されど……、次の世のために愚か者でも世を乱さぬ政の礎くらいは築けるか。愚か者の政は愚か者が作らねばならぬのかもしれぬ。
「大学殿?」
「いや、なんでもない」
突如止まったことで共におる者が何事かと思うたのだろう。声を掛けてくるが、なにも答えることはない。今はな。
役目に戻ろう。僅かでもいい。内匠頭殿の負担を軽くせねば。
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