第2414話・越中に向けて
Side:斎藤孫四郎
総勢五千の将兵が越中へと出張ることとなった。
尾張は清洲を出立し美濃と飛騨を通り越中に入る。共に出張る者らはいずれも諸国に名が轟くほどではないが、家中では知られた者らだ。
「おお、あれが飛騨の山か」
「同じ領内とはいえ、用向きがなければ来ることなどないからな」
休息とすると見えてきた飛騨の山々を皆が見入っておる。これから越中で一向衆と戦となるかもしれぬというのに、気負うこともなく不満をこぼすこともない。
他家ではあり得まいな。功を稼ごうと抜け駆けするような者がおらぬなど信じられぬわ。
「孫四郎様、越中の神保、こちらに手を出す気はないとのこと。されど、斎藤家の所領が織田の地になったと知れれば飢える者が押し寄せるかもしれませぬ」
「そうか、難儀なことになりそうだな」
越中から届いたばかりの知らせに諸将の顔が武士のものへと変わった。神保も織田を相手に戦などする気はないか。されど……。
「噓偽りがないと言い切れぬからなぁ。一向衆をけしかける恐れはあろうな」
「けしかけるというか、一揆勢を上手く御せるのか?」
武官衆が届いた知らせから神保方の動きを考え始めるが、正直、始まらねばいかになるか分からぬのが本音か。
「滝川殿、いかが思われる?」
皆がひとりの男を見ておる。我らの中でもっとも名が知られておる男であろう。軍監として出張っておる滝川儀太夫殿は。
「難しかろうな。そもそも斎藤方とて、端の者はまだ織田の政を理解しておるまい。飛騨からの街道だけは押さえてもらえると思うが……」
滝川三将と言われる者だ。父上は美濃土岐家を終わらせたのはこの男の功であると言うていたこともあるほど。
武官衆は、久遠の軍略を得意とする儀太夫がおられれば負けはあるまいとさえ言う者がいた。
「なにもなければ、それに越したことはない。行ってみるしかあるまいな」
わしの信念は欲を出さぬことだ。越中に負けず劣らず愚かで醜い争いをしておった美濃を織田は仏の国に変えてしまった様を見ていたからな。
一族や親子で争う愚かな者たちを改心させたことには、恐ろしいとしか言いようがない。
一向衆がいかに恐ろしいかは分かるが、大殿には勝てまい。まことに仏の慈悲を示して国を治められるのだ。
Side:かおり
琉璃と共に越中に送っている食糧と物資の報告書を確認して、ホッと一息つきます。
隠す必要もないので人を集めて必要な物資は堂々と越中に送っていますが、飛騨と越中の街道は山も多く人が行き来するだけでも大変なところ。まして街道整備などしていないので輸送するだけでも苦労が多い。
まして越中斎藤領は未だに治安が安定していない場所。
今回、越中への派兵は五千。彼らと旧斎藤領を飢えさせないだけの物資を送るのは今の織田でも決して楽ではありませんから。
織田領各地に備蓄している食糧と領内に流通している食糧、それとこれから他国から集まる予定の食糧を正確に把握して必要なところへと届ける。この作業も決して簡単なものではない。
それらの管理も今は大部分を織田家で行っていますが、二重チェックが必要なことでもあるので私たちも続けています。
「セルフィーユのお味噌、ほんとあってよかったわね~」
琉璃の言葉に心から同意する。史実の速醸法による味噌。セルフィーユが今回の飢饉の切り札として用意したものになる。織田家中だと『早味噌』なんて呼ばれているけど、数年前から準備して備蓄していた味噌が越中や甲斐、信濃などの不作が続いている地域の命綱になっています。
栄養があるのはもちろんですが、味噌は庶民にとってはありがたい品。雑穀や野草の雑炊でも味噌を入れるだけで一味違う。単純な栄養だけじゃない。その一味で心が豊かになると言えるほど。
地域によっては数日に一回になることもあるけど、飢えさせないで味噌味の食事が取れることには感謝されています。
「越中の行方が分からないところがね……」
武官衆からは神保と長尾の双方が敵になった場合も想定した物資を越中に送るよう献策され、評定衆はそれを認めました。五千と斎藤方の者たちが飛騨からの援軍が到着するまで籠城する物資が必要になる。
この時代ではまだ知られていませんが、長尾景虎は戦の天才と言ってもいい。彼の決断次第では、儀太夫殿であっても後手に回ってしまう恐れがあります。
清洲ではすでに追加派兵の検討も入っていて、一万の軍勢を越中に送る支度も密かにしている。司令たちは戦線を増やしたくないと消極的ですが、斎藤領からの撤退は戦略上無理なこともあり、敵となるなら越中を制圧するしかない。
幸いなのは飛騨が安定していることかしら。亡くなった先代の三木殿が飛騨の地のためにと、対立していた江馬や内ヶ島と和解するなどして飛騨を上手くまとめて織田の領国としました。
越中が孤立することだけはない。それは戦略上大きな意味を持つ。
あとは不確定要素が強い関東次第というところでしょうか……。
Side:メルティ
私は今日、武官衆の軍議に出席している。ほんとは私の役目じゃないんだけど、今日はみんな忙しいのよね。特に私はエルが産休の時に、北伊勢の一揆で献策しちゃったから期待されてもいる。
「長尾は本気だな」
長尾勢が越中に向けて進軍していると知らせが届いたわね。兵は八千ほどとか。史実の資料と過去の長尾の戦を見ても、動員出来る人は動員したとみるべきかしらね。
長尾の名目は、あくまでも守護代として椎名の後詰め。神保は史実と同様に最終的には増山城に籠城でしょうね。
「加賀の門徒が後詰めを出すことは?」
「願証寺の話だとないだろうとのことだ。本證寺と願証寺もそうだったが、我らが思うより仲が悪いらしい」
連日の軍議は北陸全般に及んでいるわ。特に加賀と能登。越中の情勢に関与しうる地域になる。
能登畠山は海路をウチが制していることと、六角と縁があるからこちらに敵対まではしないと見ているけど。加賀一向衆は、織田家で把握していないことが多いわ。
「神保方は一向衆を動員してもせいぜい三千か四千であろう? 長尾に勝てぬぞ。上野での越後守の戦を見るかぎり、奴が戦上手だというのは事実だ」
「甘く見ておるのであろうな」
史実の軍神。この世界では評価が低いのよね。もっとも織田家だと戦の情報も集めているから甘く見る者は、少なくとも武官衆にはいないわ。
神保もそこまで戦下手じゃないけど、野戦で長尾に勝てるほどではないと見ている。
動けない戦。策を用いてはいけない戦。なかなか難しいわね。
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