第2397話・海祭りを眺めつつ・その二

Side:岡部貞綱(土屋貞綱)


 四度目の海祭りを迎えた。かつて不満ばかり言うていた駿河と遠江の水軍衆も、今は織田水軍として生きておる。


 今川の御屋形様が許せぬ、織田が許せぬと隠居するなりして水軍を辞めた者もおるが、左様な者らですら大半は織田の治世を生きておるのだ。


 織田が定めた値で酒や米を買うことで恩を受ける。織田の地にて織田から逃れることは何人であっても出来ぬこと。


 駿河や遠江には今でも織田を疎む者はおるが、今の暮らしを捨ててまでかつての日々に戻りたいと動く者はおらぬ。


 権威でも武威でもない。己と己の一族の暮らしと明日を守るために皆を従わせる。なんと恐ろしき策だ。これこそ天下の策。


 関東では昨年の秋に不作となったことで多くの民が飢えておる。飢えた民は僅かな願いを込めて仏の弾正忠に祈りを捧げ、少しばかり知恵を持つ武士や坊主は新たな治世を導く久遠の助けを欲する。


 すでに関東でさえも織田を求めておる者はおるのだが……。


「熊野が落ちるのも遠くないようだな」


 熊野水軍の様子を見ると、臣従が遠くないことが分かる。すでに争う気概すらなく織田の治世を生きておるのだ。西も関東と大差ないのやもしれぬ。


 熊野三山が尾張との関わりをいかに考えておるか知らぬが、あの様子では端の者は織田と争うことを望むまい。


 寺社は恐ろしきところであるが、神仏を敬う者ほど寺社に疑念を抱く。最早、これは織田領に留まらぬ。俗世の縁やら力で寺社にて立身出世する今の世の寺社からは、確実に民の心が離れておるのだ。


 他家他領はいい。身分ある者や武士が寺社と一蓮托生だからな。だが、それは民になんの関わりもないこと。おそらく熊野も同じであろう。


 まあ、熊野三山がいかになろうとも、わしにはあまり関わりがない故、構わぬが。


「おお!」


 歓声と共に競技が終わった。


 小早の舟漕ぎ競争にて、駿河水軍衆がようやったわ! 一番にはなれなんだが、惜しいと言えるくらいに速かったのだ。これはめでたい!!


「次は久遠船か、今年は負けぬぞ!!」


 かつて、久遠船を与えられず不満ばかり言うていた駿河水軍衆はもうおらぬ。今は駿河にも久遠船が多くあり、水軍衆ならば操船出来ぬ者はおらぬかもしれぬ。


 速く船を走らせるようにと皆で励んでおった。いつまでも尾張者に負けておられぬからな。


 もっとも、一番になるには海神わだつみ殿を超えねばならぬという難題があるが。皆が、海神殿を超えようと今日を迎えた。


 さて、いかがなるやら。




Side:武田信繁


 兄上は甲斐におられる故、某が名代として海祭りに参席しておる。


 山国の甲斐にとって、海はずっと求めておったもののひとつだ。近隣から塩を買わねばならぬことが甲斐にとって不利となることも珍しゅうなかったからな。


 もっとも、今は昔のことだが。


 兄上ばかりではない。駿河の代官である今川殿も今年はおらぬ。信濃代官殿もだ。関東が少し騒がしいというのでそれぞれの任地におる。昨年の飢饉があり関東では種籾を巡る争いがあちらこちらで起きておるのだ。


 相模や伊豆はそこまで荒れぬと思うが、上野がな……。


 こちらに攻めてくるとすると信濃だ。信濃代官殿は内匠頭殿の奥方故、落ちることはあるまいが、飢えた者らが攻めて来るかもしれぬ。念には念を入れて関東と接する領国では備えを厳としておるからな。


「おふね!」


「おっきいね!」


 船競争を見物しておる席では、子らの楽しげな声が聞こえる。この場では子らに動くなと命じて、乳母や傅役が押さえつけることなどせぬからな。


「おっきいね。明日はみんなも乗せてあげるから。いい子にしているんだよ」


「はい!!」


 子の育て方は、久遠の教えが家中に浸透しておる。子が好きな内匠頭殿の流儀を皆が真似ておるのだ。今も内匠頭殿のところには家中の者の子が入れ替わるようにやっていき、あれこれと話しかけておる。


 内匠頭殿は嫌がることなく、ひとりひとりの相手をしておるな。


 中には実の親以上に内匠頭殿を慕う子もおるとか。内匠頭殿に遊んでもらったことは覚えていても、実の親とは主君とその子という形しかないと情を持てぬのだ。


 その事実に震え上がった者も多くおるという。


「留吉殿は今更だが……そなたも上手いな」


「ありがとうございます!」


 ふと海祭りの絵を描いておる留吉殿とおみね殿の様子が見えた。


 久遠の教えの申し子ともいわれる牧場留吉殿。そのあまりの才に先を案じた内匠頭殿が猶子としたことから、内匠頭殿は孤児らが元服する際には猶子として世に送り出す切っ掛けとなった男。


 さらに市居の娘から留吉殿の弟子となり、牧場姓を許されておるというおみね殿。かの者に至ってはまだまだ若い娘でしかないのだがな。


 内匠頭殿が連れてきて皆に絵を描く様子を見せておる。主に子らに絵を描く様子を見せたいのだとか。


 おみね殿は度胸も据わっておるな。名立たる者がおるこの場でも楽しげに絵を描いておるわ。名が知れておる絵師であっても、身分のある武士を前にすると笑みを見せて絵をかくなど出来ぬというのに。


 内匠頭殿が育てておる孤児を見て、皆が驚き案じるのだ。己が子はあの者らのように励めるのかと。


 武芸ばかりやらせても駄目だ。学問や人との関わりなどを今の世に合わせて学んでいかねば武士も先はないと、子の育て方を変えておる。


「えをかくのたのしい?」


「はい、楽しゅうございます! 良かったら描いてみませんか?」


 なんとおみね殿は、近くで見ていた子のひとりに絵を描くことを勧めた。子はよいのかと迷ったのであろう。傅役を見るが、傅役は親を見た。


「いいね。誰か紙と鉛筆を持ってきて。子供たちにも描いてもらおう」


 左様な様子を見たのだろう。内匠頭殿が絵を描く道具を運ばせると、子らは並んで絵を描き始める。


「好きに描いていいのよ。描きたいものを描いてみて」


 中にはなにを描いてよいか分からぬ子もいるが、絵師殿がひとりひとりに声を掛けて描きたいものを見つけるべく助言も与えている。


 なんというか、これこそ久遠だなと思わされる。子らに権威や武威を示すなど関心すらないのだ。内匠頭殿は。


 ただ、それ故に、久遠の子は己が才を見つけて伸ばし、尾張という国を支えている。


 説教などせずとも人を導く。内匠頭殿の恐ろしきところだ。


 真似しようとして出来た者は未だにおらぬからな。





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