第2390話・田丸でのこと
side:慶光院清順
信濃の一件以来、北畠家の様子までも変わってしまわれた。尾張は蟹江におられる大御所様に至っては、未だに神宮の使者を拒むことが多いという。
幸いなのは、田丸にいる御所様は神宮の使者の目通りを許されていることでしょうか。
私は今日、その田丸御所に来ております。年も明けて落ち着いたこともあり、僅かな供の者と共に挨拶をするために出向いて参りました。
少し待つと御所様に目通りが許されました。脇を固める者の中に内匠頭殿の奥方がいました。席次から客分として遇していることが分かります。
「息災なようで、なによりだ」
型通りの挨拶を済ますと御所様のお言葉がありました。ご機嫌は悪くはないご様子。ただ、これはあくまでも私に対するものであって、神宮の話とは別問題なこと。これは以前から変わらぬまま。
周囲の者らの表情は硬い。最早、神宮というだけで信を得られ許される世ではない。
「清順殿、ちょうどそなたに話しておきたいことがあったのだ」
はて、なんのことでしょう。あまり良い話でないことは察しますが……。
「神宮ではそなたのことを悪く言う者がおるとか。そのことで案じておる」
その件が御所様のお耳にまで届くとは。
「申し訳ございませぬ。御迷惑は決して掛けぬように致します」
内々の愚痴が漏れている。そのことから、神宮がかつてより乱れているのではと案じておるのでしょう。困ったものです。おそらく私の名を落としたいと、意図的にあらぬ話を流している者もおるのでしょう。
「そうではない。わしはそなたの身を案じておるのだ」
「……もったいないお言葉でございます」
「確と分かっておるか? そなたになにかあらば神宮は終わりぞ。清洲が信じておるのはそなたひとりだ。代わりなどおらぬ」
御所様のお言葉に返す言葉もございません。私が動いたことでなんとか繋いでいる斯波と織田との誼が、私と共に切れるかもしれないとは。なんと皮肉なことでしょう。
神宮の者たちはそれを理解していない。
「己が命を懸けてと思うのは立派だ。されどな、なにかあってはならぬ者もおる。毒や身辺には気を付けられよ。必要とあらばこちらから人を出そう。危うくなれば宇治か山田の奉行所に駆け込め。よいな」
「畏まりましてございます」
御所様がここまで言われるほど神宮には信がない。万が一、おかしなことを企む者がいたら、今度こそ神宮に兵を挙げることもあるかもしれない。そういうことでしょう。
神宮のためにこの歳まで励んできたというのに。何故、私を疎み、騒ぐのでしょう。
ただただ申し訳なく、頭を下げるしかありません。
Side:シンシア
清順殿が下がると、居並ぶ北畠家家臣の誰かがため息を漏らしたのが聞こえた。
「いかがだ、シンシア。あれくらい言えば己が身を守るであろう?」
「はい、お見事でございます。あのお方はいささか御身を軽視している節がございましたので……」
神宮内の不和は北畠家にも伝わっていたわ。北畠家家臣たちの多くは呆れていただけになるけど、私たちは確かな懸念を持っていた。
忍び衆を配して万が一に備えてもいるけど、慶光院の中、しかも清順殿の身辺には人を配することが出来ていない。
どこかのタイミングで彼女に警告をしようとエルたちと話していたけど、先に会うことになったのが御所様だったのでお願いしたのよね。
「紫衣を許されておる尼僧なのだが……」
北畠家の老臣はまさかと言いたげな顔をしているわね。私もそう思いたい。でも……。
「神宮が名を落とした中、女の身で名を上げ過ぎたのよね。恨みや妬みは人を狂わすわ。彼女がいなくなれば、名が上がる機会を得られると思う者が、いないと言い切れるかしら? さらに慶光院の名が落ちれば、神宮が許されると思う者すらいるかもしれない」
誰も答えてくれない。当然ね。神宮がどれだけ追い詰められているか。私たちには察することは出来ても本心までは分からないもの。
「神宮にも、内々に御所様のご懸念が伝わるようにするべきでは?」
「ええ、それもいいわね。話の通じる相手に伝手があるなら、今日の話を伝えたらいいわ」
神宮との関係は、最早、司令が許すか許さないかの問題じゃないわ。寺社との対峙、神宮との関係は織田家ばかりか織田領の寺社すら考えていることだもの。安易な妥協は司令であっても許されない。
そんな状況で唯一尾張に認められている彼女が不審死を遂げると、たとえ神宮がなにもしていなくても疑われてしまう。
守護様や大殿、司令や私たちと同様に、彼女の命もまた世を揺るがす切っ掛けになる。だからこそ、みんなで守らないといけない。
「……その、神宮の一件。久遠の知恵でなんとかなりませぬか?」
ひとりの若い家臣の言葉に苦笑いが出てしまったかもしれない。孤立しておかしな噂が漏れてくる神宮を案じ、なんとかならないかという素直な意見でしょうね。
「左様なことを言うものではない。この件は奥方の面目にも関わる故、内匠頭殿が動けぬのだ。それに動くべきは神宮だ。奥方の面目を誰から見ても分かる形で立てて、斯波家と織田家に神宮が必要だと思わせる動きをしなくてはならぬこと」
私が答える前に老臣が若い家臣を叱るようにたしなめた。さすがは北畠家ね。
「そのとおりね。まあ、仮に策があるならば、御所様にお頼みすることも出来るんだけど。正直、こちらが策を教えてほしいくらいよ。私たちは日ノ本の外の者だもの。なにか考えがあるのならば聞かせてほしいわ。そのまま使えなくても、皆でそれを考えれば新しい道が開けるかもしれないから」
私の言葉に御所様と重臣たちは控えめに笑った。
ほんとこの件は老臣が語ったように神宮次第なのよね。批判を受ける覚悟で、今までと違う決断をしないと前に進まない。
「清順殿を軽んじるならば北畠が許さぬと伝えておけ。あとは知らん」
みんな神宮をなんとかしたいという思いはあるのよね。ただ、現状だとどうしようもない。ときには時間をかけてみることも必要になる。
御所様が席を立たれると、北畠家の者たちと清順殿の身辺について話しておく。北畠家のほうが伝手はあるのよね。南伊勢だと。
情報の共有と万が一の場合の対処。状態によってはやよいが助けられるかもしれないし。
通常なら清順殿のような者に手を出すなんて、あり得ないんだけどね。追い詰められると人はなにをするか分からないから。困ったものだわ。
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