第2386話・甲斐の冬

Side:春日虎綱


 空を見上げると雪がちらついておる。


「殿、いかがされました?」


「あの日を思い出してな。お方様と若殿が相模に行ったあの日をな……」


 泣いておる者もいた。涙をこらえておる者もいた。あの日だけは忘れられぬ。


 武田家は織田家のように正道を歩んでおったわけではない。恨まれても仕方ないと覚悟を決めねばならぬ身であった。今でも恨んでおる者は多かろう。


 ただ……、それでも我らは皆、必死だった。それだけは噓偽りなどない。


「あの日も雪が降っておりましたな……」


 家臣もまた空を見上げ、いかんとも言えぬ顔をしておる。


 正直、御屋形様の命運は尽きたかと思うた。信濃まで織田が迫る中、甲斐国内で争いが始まろうとしておったのだ。積み重ねた業が御屋形様を地獄へと引きずり込むと覚悟を決め、わしは甲斐に残った。


 御屋形様が地獄に落ちる寸前のところで手を差し伸べてくだされたのが、守護様と大殿だ。まさに仏の弾正忠様の慈悲で助かったと言えよう。


 東国一の卑怯者とも日ノ本一の卑怯者とも言われた武田家は、織田に仕えることで許されたようなものだ。


 あれから時が過ぎ、甲斐は織田の治める地となった。


 守護様や大殿の徳があれば甲斐の地も豊かになると喜んだ者もおったが、今も甲斐は厳しき国のままだ。


 仏の弾正忠でも救えぬほど罪深い国なのかと悲観する者も多かったが、尾張から来た織田家家臣たちは左様な噂を笑い飛ばしておった。


 徳や祈りだけで国は変わらぬ。国を変えるのは人なのだと言うてな。


 皆で国を豊かにするのだと、縁もない甲斐のために励む織田家家臣たちのおかげで、この国は変わりつつある。


 すでに所領を持つ武士はおらず、御屋形様ですら俸禄だ。己の食う米などを作る田畑を持つ者はおるが、武士であろうと寺社であろうと税を納めておる。神仏に奉納する米を作る僅かな田んぼを除いてな。


 今でも不満は聞かれるが、織田は噓偽りなく民草でさえ飢えさせてはならぬと、尾張や美濃から米や雑穀を連日のように運ばせておるのだ。


 その覚悟と助けにより甲斐は奪わずとも食うてゆけておる。


「いつか、この地も他国を助けるくらいに豊かになればよいな」


「左様でございますなぁ」


 立ち止まっていた我らは歩き始める。かつてより幾分歩きやすくなった道をな。


 いろいろと難しきこともあるが、甲斐でも尾張流の賦役が盛んだ。少しずつ変わる故郷の様子に皆が喜んでおる。


 ああ、この国では風土病もあり米は難しいからと、大豆や雑穀を多く作り、葡萄や林檎を増やそうと試すこともしておるな。


 長き時は必要だが、この地も変わるのだと尾張者は言う。


 見てみたいものだな。尾張のように豊かになった甲斐の国を。


 わしの孫かひ孫くらいは見られるのであろうか? 子孫のため、皆で励まねばな。


 いつか、豊かな甲斐という国が出来ると信じて。




Side:久遠一馬


 一月も中ばとなり、太陽暦では二月の下旬に差し掛かる頃。春が待ち遠しいな。


 領内は安定している。農閑期である冬場は賦役が盛んに行われている季節だ。今では難しい工事以外は土務総奉行である氏家さんの配下だけで、縄張りから予算と人員の配分などこなしている。


 費用対効果とか、きちんと考えられるようになったこと。権威権力の圧力に屈しない体制が出来たことも大きい。


 元の世界でも、有力者がいることで無駄な公共事業があったという話は二十一世紀になってもあった。この時代でもそれは同じで、特に寺社が自分たちの主張を押し通そうとすることは今でもある。


 まあ、それらは最終的に義統さんと信秀さんの裁定によって決まると知れ渡って以降、無茶を言う人はだいぶ減った。さらに投資を活用するなど、自分たちも身銭を切る形で地域を発展させようという方向に変化したところもあり必ずしも悪いことだとは言い切れない。


 そんなこの日だが、オレはまだ休みを多めにして仕事量を減らしている。


 妻たちはまだ尾張でのんびりとしていて、一月末まで休んでいるんだ。それもあってオレも妻と子供たちと一緒にいる時間を優先している。


 心配されるんだよね。まだ子供がいない妻がいるから。


「プロイ、あいり。これ用意したから使って」


 今日も最低限の仕事を終えたあとは妻と子供たちとの時間にしているが、領内の鉱物調査をしているプロイとあいりにふたつの書状を渡した。


 ひとつは六角義賢さんからの書状で、もうひとつは北畠具教さんからの書状だ。この書状を持つ者に最大限の便宜を図れとか書かれている。


 実は六角と北畠から領内の直轄地の調査を頼まれているんだ。すでに検地や田畑の調査する人員は織田家から出しているが、山の調査も全域とは言わないが両家で自由になる場所を調べてくれないかと頼まれた。


 プロイとあいりは目立つほうじゃないんだけど、領内の鉱山をいくつも発見した者だと知られているんだよね。


「了解~、どこまで助言したらいいの?」


「とりあえず現地の者には言わないで、調査結果は両家に直接伝えてほしいって」


 六角も北畠も、そんなに利益が出る山があるとは思っていないが、現状を把握したいというのはある。織田家でやっていることだからね。


 義賢さんと具教さんには、鉱山開発は後世のことを考えてやるように教えている。農産物や森林資源と違って有限だ。鉱山に頼り切った開発や政治はいずれ困ることになるのは歴史が証明しているだろう。


 ただまあ、将来的な開発が出来る鉱山があると、そこを考慮して街道を整備するとかいろいろとやれることもある。


「分かった。ちょっとくすぐったいって~」


 プロイとあいりは子供たちに囲まれていて、それどころじゃなさそうだ。まあ、書状はふたりと常に同行している侍女さんに渡しておこう。


「まーま! もう一回!!」


 尾張に住んでいない実の子も増えたからなぁ。ほんと収拾がつかないくらい大賑わいだ。


「あいりも無理はしないようにね。現地とは話を通して護衛と案内人も付けるって話だけど」


「うん、大丈夫」


 シルバーンでもバックアップしているし、大丈夫だとは思うけど。


 ちなみに妻たちが北畠領や六角領を移動する時は、最低でも百人以上の護衛がつくんだよね。半分以上は現地の護衛だ。


 近隣にちょっと出かけるだけでも護衛が付くから、近江に滞在している秋とか冬は気軽に出歩けないと愚痴るんだけど。残念ながら妻たちが少数の供の者で気軽に出歩けるのは尾張くらいなんだよね。


 織田領全体として治安は回復しているものの、妻たちは目立つから万が一刺客にでも狙われると大変なことになるからさ。


 なかなか難しい問題だ。



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