第2347話・幻影

Side:仁科三社の者


 安堵した。ただただ安堵した。


 代官殿が無事に子を産んだと聞き、皆が安堵のあまり気が抜けたようになり涙ぐむ者までおった。


 母子ともに無事でなければ、我らが呪詛を掛けたのだと思われ根切りすらあり得ると誰かが言うたからだ。


 久遠内匠頭はなにより妻子を大事としておるとか。


 数年前、院が尾張に御幸しておる最中のこと。赤子は穢れ故、いつでも院に拝謁出来るように産まれた子に会うなと命じた院の蔵人に対し、激怒したという話は信濃でも知られておる。


 事態を重く見たのか、院は蔵人を解任し京の都に戻してしまわれたからな。数年過ぎた今でも許されておらぬと聞き及ぶ。さらに……。


「我らを許す以前に、絶縁された神宮のことすら誰も触れぬからな。公方様の慶事故、誰かが取り持つのかと思うたが……」


 近江に祝いの使者として出向いておった者が落胆して戻った時には、皆で肩を落とした。我らもそろそろ許されて良き頃だと思い待っておったというのに。


 これ以上ない慶事なのだぞ。誰かが取り持ち和睦するべきであろう。寺社を遇するのは当然のこと。絶縁されて立ち行かぬなど許していいはずがない。


「近江におられた方々で取り持つことが出来たとすると、院と公方様と管領代殿。誰一人動かれなんだことが内匠頭の力を示しておる」


「尾張で言われた通りだな。もっとも慈悲深いのは内匠頭であると。あのお方を怒らせると止める者がおらぬとな」


 皆の言う通りだが、京の都で上様に逆らい続けた政所の伊勢は、近衛太閤殿下と内匠頭が仲裁して許された。近江でも騒ぎとなったほどだとか。


 許されぬ者と許された者の違いはなんだ? 内匠頭は己の気に入らぬ者だけは許さぬと言うのか?


「寺社に厳しい男だという話は以前からあった。されど、同じ内匠頭の奥方が治める奥羽では許されておる寺社も多いとか」


 ということは我らをそれだけ憎んでいるということか?


「かようなことは言いたくないが……」


 皆が安堵と落胆する中、尾張に使者として出向いたことのある男が口を開いた。


「我らなど、いてもいなくても変わらぬと皆が見ておる。織田の者らはな。それがすべてであろう。内匠頭は我らのことなど興味もないかもしれぬ」


 つまり内匠頭が許す前に誰もが我らを要らぬと見ておると?


「織田は寺社の要らぬ政をしておる。祈りも自ら求めることは祭りの時くらいだ。食い扶持くらいは己で稼げというのが尾張者の考え。捨て扶持である禄を与えておる以上に遇する価値などないと見ておるだけのこと」


 傲り高ぶった武士の考えそうなことだ。されど、織田に仏罰が降るのを待ってもおられぬ。確かに禄はあるが、織田領内の商人は我らを避けるばかりなのだ。


 恩知らずの仁科が我らを知らぬと突き放したことで、元寺領の民すら寄り付かぬ。


 おのれぇ。罰当たりどもめが……。




Side:久遠一馬


 エミールの陣痛がこないなぁ。ウルザが産んでくれた子に会いに行きたいが、信濃に行くほど時間が取れない。


 赤ちゃんは武杓丸たけしゃくまると名付けることにした。これはウルザの考えた名前なんだよね。北斗七星信仰がある信濃にちなんだ名前らしい。北斗七星は柄杓と言われることから考えたみたい。


 通信機の画面越しでなく生で赤ちゃんがみたいなぁ。


 ただ、清洲も忙しい。近江に集まった諸勢力の使者が尾張まで足を延ばすことが多いんだ。


 当主クラスはまだ近江にいて、ひと月くらいは宴やらなにやらと参加するけど。一定の身分以下の使者はすでに帰り始めているからね。


 遥々西国や九州の使者も来ていることで、義信君と信長さんとみんなで相応の歓迎をしている。義統さんと信秀さんが近江にいて留守であることを承知で来ているからね。歓迎の宴はオレも出席している。


 近江で義統さんたちが挨拶を受けた時、オレは忙しくてほとんど同席していなかったからなぁ。使者がこちらまで足を延ばしたのは、それも原因かもしれない。


 まとまって来てくれるといいんだけど、毎日数人とか使者がくる。歓迎しないわけにもいかないから、毎晩、清洲で宴だ。


 まあ、相手方の身分を考えるとそこまで必要ない場合もあるのだが、ナザニンから歓迎の宴を開いて、使者から諸国の話を聞いておくようにと言われている。


 斯波家としても織田家としても、外交関係の構築が待ったなしの状況だからなぁ。


「隆光殿、ほんと申し訳ない。助かります」


「いえ、某で役に立つことならば、なんなりとご命じくだされ」


 ちなみに大活躍しているのは、隆光さんこと冷泉隆豊さんと彼の一族だ。織田家で足りない西国や九州の情報を知っていて使者とは面識のある人も多い。


 旧大内領からの移民、周防衆をまとめているし、実は西国との縁は今も生きていて書状なんかで情報収集をしてくれている。


「しかしまあ、大内卿に助けられている気分ですね」


 尾張に来る使者や隆光さんと接していると、今は亡き大内義隆さんの影響力が今も絶大なのだと教えられる。義隆さんが認めた尾張だとこちらまで挨拶に来る部分もあるんだ。


 大内の旧領である周防と長門は概ね毛利の勢力になっているが、元就は史実ほどあの地を掌握出来ていない。大内家は義隆さんの後継が決まらぬまま大内家の体裁だけを残していた陶が滅んだあと瓦解しただけだからね。


 いいか悪いかは別にして、義隆さんが大内家を託したのは隆光さんであると西国を中心に噂になっている。元就としては陶と彼に加担した国人衆などを討つことで大内の後継を自称しているが、影響力はいまいちなんだ。


 山口の町もかつての繁栄が嘘のように寂びれてしまい、どこにでもある程度の町に落ちぶれたと囁かれている。


 史実との違いは文治統治の評価もある。尾張発の文治統治は真似することが難しいものの評価を上げているんだ。自身の遺言もあり、義隆さんの影響力が史実よりもある。


 陶も毛利も義隆さんの亡霊に悩まされるように、かつての山口以上の町を築いて繁栄をと考えているらしいが、まあ、無理だろうね。勘合貿易のための勘合符は義隆さんの首と共に眠ったままだ。


 博多を手に入れて領内を変えればあるいはありえるが、博多は大友とか北九州の勢力も狙うから史実以上に苦労している毛利が手に入れて安定することは難しいだろう。


「亡き主も、争いのない世のため役に立つことを喜んでおりましょう」


 余計な一言で少ししんみりとしてしまったな。申し訳ないことを言ってしまった。だけどね。生きている者が思い出してあげることは悪いことじゃないとオレは思う。


 隆光さんなら理解してくれるはずだ。




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