第2344話・慶事の裏で

Side:津島の領民


 初めて黒い船を見た時は、なんと大きな船だと驚いたものだ。いずこかが攻めて来たのかと恐れおののいたことが懐かしい。


 すっかり日が暮れたが、津島神社は人で溢れている。津島の者ばかりか近隣の者らが集まり奥方様とお子の無事を祈っておるのだ。


 誰が始めたことでもない。皆、己が意思で集まり必死に祈りを捧げている。


 誰一人騒ぐ者などおらず、静かな場に走ってくる者がいた。


「久遠様の子が産まれたぞ! 奥方様もお子も無事だ!!」


 その声にある者は喜び騒ぎ、ある者は安堵したのか地べたに座り込んだ。かくいう、わしも力が抜けたのか地べたに座り込んで空を見上げた。


 今日はお月様がよう見えるな。


「皆の衆! 祝いじゃ! 祝いじゃ!!」


 祈りておったのは津島神社の者らも同じだ。神職の方々が我を忘れたように皆と喜ぶと、金色酒と金色飴を振る舞ってくだされた。


 変われば変わるものだなぁ。かつて久遠様が新しいことをなさる時、悩み困ると頭を抱えていたのは津島神社になる。


 今でこそ率先して世の安寧のために祈りを捧げる津島神社だが、かつては傲り高ぶり、我らを見下しておったからな。


 されど、真っ先に自ら変わったのも津島神社であったな。流行り風邪が尾張で猛威を振るい、年寄りや幼子から病に罹り苦しんだ時、皆を助けるために動かれた久遠様に自ら従い共に助けておった。


 そんなことが幾度かあったからであろう。寺社の者たちも間違うのだ。皆で正してやればいい。津島などではそういう者が多い。


「いや~、よかったな」


「ああ、なにも望まぬ。久遠様のお子さえ無事に産まれれば……」


 酒を酌み交わし、皆で慶事を喜び分かち合う。そういえば、かようなことも昔はなかったな。畏れ多い方々のことなど気に留めたことなどない。


 久遠様が尾張に来られて十年が過ぎ、今では戦どころか小競り合いすら知らぬ若い者が増えた。されど、その分、皆で喜びと悲しみを分かち合う者らがもっと増えた。


 津島は久遠様と共にあり。それは変わらぬし、変えてはならぬことだと思う。


 ともあれ、今は喜び神仏に感謝しよう。それがなによりだ。




Side:織田信長


 テレサが赤子を無事産んだことで清洲も大騒ぎしておるわ。行ってやりたいが、守護様と親父がいないことでオレは抜けられぬ。


 評定衆や奉行にも、上様の婚礼祝いのために近江に行っておる者が多いからな。致し方ない。


 織田家では誰かが休んでも困らぬように人を配しておるが、さすがにここまでおらぬ者が多いと残った者が忙しゅうなる。


「勝三郎、尾張は変わったな」


 共に役目に励む勝三郎に声を掛けると、オレの言いたいことを察したのか笑みを見せた。


「一馬殿は誰よりも妻子を大事と致しますから」


 家や一族大事と言いつつ、親子兄弟、一族で争う日ノ本の者と一番違うのはそこかもしれぬ。一族一門の繁栄を願いつつ血で穢して恨みと因縁を残す。これこそ、日ノ本からつまらぬ争いがなくならぬ理由ではなかろうか?


 妻子、親兄弟を大切にし、余裕があれば近しい者たちも大切にしろ。かずが望むのはそんな世だ。


「目新しいことなどない。坊主どもが教え説いておった慈悲を体現しておるだけなのだがな」


 今でも誤解しておる者が多いが、久遠の知恵とやり方の大元は寺社と通じるものがあり珍しゅうない。ただ、堕落した寺社では未だに猿真似すら出来ておらぬがな。


 官位や地位を得てもあまり喜ばぬ男が、子が産まれると周りが分かるくらいに喜ぶ。しかも己の子ばかりではないのだ。近しい者の子が出来ても喜ぶ。


 左様なかずの姿を見て、武士も坊主も民も学んだ。他者の慶事を喜び祝うことが必要なのだと。


 他家では義理で祝う者や主家が命じたことで祝う者はおるが、尾張では民が自ら祝う。織田家は祝えと命じるのではなく、やり過ぎるなと止めるくらいだ。北畠や六角の者らが信じられぬと驚くことのひとつになる。


「ですが、坊主が言うても誰も信じませぬ」


 ああ、そうだな。坊主にも高徳な者はおる。されど、乱世と言うても差し支えない世で祈りと慈悲だけで生きられる坊主はまずおらぬ。


 仕方なきことだ、責める気はない。無論、こちらから新しき形に変えてやり、贅沢な暮らしをさせる気もないがな。


 上様の婚礼で畿内がまとまるのではと案じる者が尾張には多い。もしかすると、まとまりてこちらから奪うのではとな。


 されど、この慶事でひとまず皆の心が晴れよう。




Side:久遠一馬


 赤ちゃんが生まれるといろんな人がお祝いに駆けつけてくれる。さらに尾張の各町では祝いの品を振る舞っている。


 当然、忙しくなる。子供たちとゆっくり赤ちゃんを見ていたいが、そうもいかない。


 まあ、こういう前向きで明るい忙しさは歓迎だけどね。


「この度は、おめでとうございまする」


 オレたちが津島に来た頃に町衆のまとめ役をしていた商人が来てくれた。


「ああ、お久しぶりですね。息災ですか?」


「はっ、おかげさまでなんの憂いもなく暮らしております」


 数年前に隠居して以降、顔を会わせる機会がなかった人だ。なんか昔を思い出すなぁ。


「近頃は、いかがされているのですか?」


「御領内を旅しております。昔と違い、御領内ならば憂いなく旅が出来まする故」


 へぇ。旅をしていたのか。裕福な人たちは隠居後の生活も変わりつつあるのは聞いていたけど。


 正直、武士だと立場もあるから働けるうちは働く人が多い。俸禄を貰って働かないと評判が悪いんだ。織田家だと。そういう意味では商人のほうが気楽なんだよね。


 家督を譲り隠居して悠々自適な暮らしをしている人もいるけど、働いている年配者も多いことで元気なら働けという風潮がある。


 個人的には早期リタイヤもいいと思うし、そういう人向けの道筋も付けてやりたいところだ。平手政秀さんにでも相談しようかなぁ。


 高度経済成長期みたいなものだからね、今の尾張は。働けば働くだけ暮らしは上向くし希望もある。


 ただ、これがいつまでも続くわけではない。働くのを強要するのもどうかと思うし、もう少しゆとりを持たせたいんだけど。


 尾張が豊かになり安定すればするほど、朝廷と寺社の信頼度が下がって警戒心が増すんだ。いつか、奪いに来るぞとね。


 国をまとめるには外敵がいることが楽ではあるものの限度がある。こちらもなんとか緊張緩和をしたいところだ。




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