第2340話・一馬のいない近江

Side:シンディ


 今日、少し時間があったので家中の皆様を集めて茶席を設けました。


 連日続く外交日程に、守護様と大殿以下、皆様方は少々お疲れですわね。


 東国の経済と物流を握っているのは尾張ですから。諸勢力とすると当然として守護様と大殿のご機嫌伺いをします。


 さらに、あれが欲しいこれが欲しいと内々に言い出す始末。お二方とするとうんざりするだけですわ。


「十年か。我らも理解しておるつもりでも忘れつつあるのかもしれぬの」


 紅茶をお出しすると、守護様は一息ついてそんなことを口にされました。


 諸勢力、とりわけ関東と畿内以西は尾張とは違う世界と言っても過言ではないですから。上から下まで争いと和睦を繰り返し、奪うことで生きている。


 そんな人の業を背負うような乱世の武将たちと対峙して、尾張がいかに平和で落ち着きつつあるか改めてご理解されたのでしょう。


 もっとも守護様も大殿も、安易に世が落ち着いたと過去を忘れるお方ではありません。一時の平和が続かないことを承知で、過去を戒めとしておりましたが。


 それでも享受している平和により、穏やかに暮らすことが当然となりつつある現状に気付かれましたわね。


「地獄の亡者にでも足を掴まれておるようでございますな」


 戯言とも本音とも思える大殿の言葉に同席している春たちが思わず吹き出し、守護様も笑っています。もっとも、今川殿や京極殿など、近江に残っている足利一門と名門の皆様方は反応に困ると言いたげな顔をしておりますが。


「シンディ、伊達はいかほど手ごわいのじゃ?」


 皆の反応を楽しまれた守護様は、喫緊で懸念となりうる相手のことを口にされました。


「勢力という意味では、そこまで恐ろしい相手ではございません。ただ、兵を挙げる程度の力と自負はあるかと思われますわ」


 幸いなことに奥羽の地は斯波一門もおり、南朝方の北畠の権威も使えます。南北の因縁を終わらせた現状では斯波一門が戦をして争うことまでしないでしょうね。


 ただ、どこも多かれ少なかれ家中の統制に苦しんでいるのが現状。伊達が本気で動けば相応に味方する者は現れるはず。もっとも、肝心の伊達もまた家中は国人などの寄り合い所帯。天文伊達の乱の影響が残っています。


 いずれにしろ、南奥羽でもう一戦くらいは戦があり、最初の一戦はまとまる可能性が高い。


「弾正、いかがする?」


「兵を挙げるまで捨て置いてよいかと。必要とあらば某が奥羽に参りまする」


 その言葉に同席する皆がざわつきましたわね。奥羽を決して見捨てないという断固たる覚悟。その覚悟で皆があの地を守ろうと本気になることでしょう。


 まあ、大殿が奥羽に行かずともよいと思いますが。今回もナザニンが諸勢力と外交関係の強化と構築をしています。その気になれば味方は増やせる。


 無論、伊達相手に味方を増やす必要があるのかは別問題ですが。




Side:北畠晴具


 おかしなことをさせぬために、関白らと話す席を設けた。その席に内匠頭の奥方であるシンシアら四人を同席させると、関白はいかんとも言えぬ顔をしておったな。


 北畠は久遠と共にあり。それを示したのだが、あまり面白いことではなかったらしい。無論、顔には出さなんだがな。


「大御所様もお人が悪いわね。関白殿下の顔色が悪かったわ」


 御所の近くに設けた北畠の屋敷に戻ると、シンシアが面白げに笑うた。こやつは多くを語らずとも察して合わせてくれる故、供をさせると楽だわ。


「人が悪いくらいでなくば政など出来ぬわ。わしは内匠頭のようにはなれぬ」


 人には定めがあると思うておる。わしは内匠頭のように人を信じさせる必要などない。むしろ近衛太閤が帝や院のために動くように、内匠頭のために動くくらいでよい。


「左様でございますね。我が殿は少し甘さがありますから」


 甘さか。確かにそう思う。されど、内匠頭の甘さが南北の因縁を終わらせた。北畠は返しても返しきれぬ借りを作った。


 坊主どもが語る慈悲。内匠頭の甘さはまさにそれなのであろう。


「されど大御所様、よろしかったのでございますか? 御身が矢面に立たずともよいと思いますが」


 しばし思案しておるとカリナが案じてくれた。こやつはあまり目立たぬように動くからの。わしの思惑を察しておるか。


「己の始末くらい付けねばならぬからの。わしは公卿じゃ」


 上様の治世で近江以東を守るならば不要であろう。されど、それを選んでしまえば畿内以西との対立が次の世に残ってしまう。公卿でもあるわしが朝廷と対峙して日ノ本をまとめる一助とならねばならぬ。


「それより関白をいかが見る?」


「動きたくても動けないというところでしょうか。不満はあるのでしょうね。担いでくれる者がいない現状ではこのままかと」


 シンシアの見立てはわしと同じか。信念があるようには見えぬ。父である太閤への不満、帝や朝廷への不満、三国同盟への不満、世に対する不満。様々な不満はあろうが、動きたくとも動けぬ様子。


 一言で言えば、それが今の世の関白という地位じゃからの。


 あやつが朝廷を変えようとすると、皆があやつに一目置くのじゃがの。太閤と同じことをして従順な倅に見えるのが嫌なのかもしれぬ。


 まあよい。釘を刺しておいた故にな。今はこの程度でよかろう。




Side:近衛稙家


 熊野三山の者らが内々にやってきた。神宮ほど困りてはおらぬようじゃが、斯波と織田では寺社はもうたくさんじゃと冷たいことでいかにしてよいか分からぬらしい。


「己が力で生きる。当然のことであろう? 手を出されず商いも許されておろう。ならばよいではないか」


 熊野三山を遇する利がないのじゃ。致し方あるまい。面目も捨てて織田の治世に従うならば考えるであろうが。熊野の権威をそのまま認めることはあり得ぬはずじゃ。


「されど……」


「そなたら、斯波と織田が弱き頃に助けたか? 助けておるまい。斯波と織田に、なにを差し出す? 祈りや頭を下げたという体裁など要らぬぞ。織田の領内に寺社はいくらでもあるからの」


 熊野に叡山のお守りをしろというようなもの。要らぬという一言で終わる話じゃ。


 神仏を信じる者こそ寺社を信じぬようになる。正直言うと、吾も寺社など信じておらぬ。


「諦めろ。主上以外で尾張の上に立ち、崇め奉られる身分には何人たりともなれぬ。吾とて同じぞ。大人しゅう今のまま生きるがいい。そなたたちにはそれがよい」


 無理に変われと言うても恨まれるだけ。神宮のようにおかしなことをするくらいならば、今のままでよい。熊野とていずれ人が減り、己が身にならねば理解せぬ。


 すでに織田の地の寺社では出家する者が減り続けており、寺社の形を変えるところがあると聞き及ぶ。


 そのうち公卿公家から出家する者も減る。そうならねば理解致さぬはずじゃ。



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