第2332話・世を変えたあとに
Side:六角義賢
あの傲慢な叡山の僧が、端の者らが暴れたことに対して謝罪を申し出てきた。その様子に居並ぶ宿老らも驚いておるわ。
「上様の婚礼を穢した者らだ。許すわけにいかぬ。捕らえた者はこちらで処罰するがよろしいな?」
「はっ、異論はございませぬ」
この者らがわしを恐れておるわけでないこと、皆も理解しておる。この場におらぬ上様や三国同盟の皆を恐れておるのだ。近江の半ばから東は、叡山ですら恐れる織田の力が及ぶ地。
商いと銭を握る者の強みということであろうな。もっとも、こればかりは久遠殿以外に真似出来る武士はおるまいが。
「余所を荒らすなど珍しゅうない。叡山とて同じというだけ。そもそも我らと叡山では身分も立場も違うからな。こちらから口を出すことは出来ぬ。されど、こちらの領内を荒らすことだけは控えてくれ。我らは天下の叡山とは違う。尾張と共に人の力で治める国を作っておるのだ」
高僧の顔色が悪うなった。やはり突き放されるほうが困るか。
素直に詫びを入れたのだ。大事にはするまいが、叡山を今以上に厚遇する気も助ける気もない。近淡海の湖賊らを捨て置いているのもそのひとつ。奴らはこちらにも従うが叡山にも従う。
なにか言いたげな顔をしつつ黙ったままの高僧が下がると、居並ぶ家臣らが一息ついたのが分かる。それぞれに顔色は違うが、蒲生下野守は少し呆れた顔をした。
「叡山もこの程度でございますか。無策にもほどがある」
「仕方あるまい。織田の真似など誰も出来ておらぬからな。我らと北畠とて同じであろう」
我が身となって初めて理解するものだ。久遠の知恵や助言を理解しても、それを成すのがいかに難しいか。
織田が上手くいっておるのは久遠殿と奥方衆がいるということもあるが、弾正殿が主家である斯波家と家中や国人衆をようまとめておることも大きい。
今は叡山の相手などしておる暇がない。こちらの家中と所領を変えることが先だ。関東が先か畿内が先か。いずれ誰かが尾張の富を寄越せと騒ぎ出す。その時に西におる我らが揺れぬくらいに、確とした国にしておかねばならぬ。
Side:久遠一馬
そろそろ帰る日を決めるんだけど、今日はその前に上皇陛下に拝謁をしている。
特に呼ばれたわけではないんだけどね。直接話せる数少ない機会だから。なにか相談とか困ったことがあればお言葉があるかもしれないし。
無論、こちらから込み入った話をするつもりはないし、上皇陛下からも細かいことを問われることはないと思うが。
「大樹の御所の披露目と婚礼、すべて上手くいったのか?」
いろいろと世間話をしていると、ふとそんなお言葉があった。
どこまでお耳に入っているのか知らないが、上皇陛下はどこまでこちらの想定したことなのか、少し気になったみたいだ。
「概ねというところでございましょうか。皆で知恵を絞ったことが多くあります。ただ、此度は婚礼と南北の因縁を解き放っただけで十分でございますから。あとは、これからまた皆で考えます」
南北朝の始末と伊勢家を義輝さんの政権下に従えることが出来た。これだけで今回は十分過ぎる。
こちらの想定していない動きも当然あったんだよ。いろいろとね。近場で言えば、越後にいる関東管領上杉憲政。オレも挨拶には同席したが、思った以上にこちらと争う気はないらしい。
織田とウチが北条と通じていることに対する言及もなく、型通りの挨拶をして今後ともよろしくという感じで終わった。
当然、彼が仲介している安房の里見への物資提供も一切話に上がっていない。そもそも里見から得ている利益が尾張にも流れているからね。憲政としても一方的に里見の味方をしているわけではない。
あとこちらと絶縁中の堺の商人も義輝さんの祝いに使者を出したので、現在の立場に相応しい扱いは受けていた。
経済規模の縮小と落ちた名声は回復しておらず、史実の自治都市堺を知る身としては寂しい限りの扱いでしかなかったが。
しかし、上皇陛下。顔色とか体調は良さそうだね。史実だと亡くなっているんだけど。
きちんと日光に当たっているみたいだし、伝え聞くところによると食生活も改めたみたいで違うらしいんだよね。
お元気なうちは仙洞御所からお出になられ、近場でもいいのであちこち出歩かれたほうがいいんだろうが。なかなか難しいだろうなぁ。
上皇陛下に関しては、しばらく近江に滞在される予定になっている。足利政権のためにも朝廷のためにもそれがいいとみんなが判断した。
京の都を変えるには、京の都を脅かす象徴的な町が必要だと思うんだよね。近江御所に危機感を覚えて、少しでも自分たちで変えてくれるといいけど。
どうなるかなぁ。
◆◆
永禄五年、九月。足利義輝は近江御所の完成お披露目と婚礼を挙げている。
当時、義輝の権勢は、応仁の乱以前どころか足利義満と比肩されるほどになっていた。そんな義輝に対して、京の都に戻ってはどうかという話は数年前からあったとされる。
義輝が京の都を離れる原因となった細川晴元は若狭から出て来られず、三好とは和睦していた以上、京の都に戻る障害はなかった。
ただ、義輝が武芸者菊丸として生きるには尾張に近く京の都にもすぐに戻れる近江が最適であったことと、病と称したままの二重生活における秘密を守り抜いた六角家への信頼があったとされ京の都に戻っていない。
義輝自身、足利家による政治を早いうちから終わらせることを考えていたとも、また側近に対し、自身は流浪の将軍でいいと言っていたという逸話も残っている。
御所の造営も義輝は乗り気になるどころか、自分がいるせいで六角が困っているのかと案じたとされる。
しかしこの懸念とは裏腹に、御所造営と町の整備は六角からではなく久遠一馬の献策によるものだった。
一馬もまた足利政権の清算を考えていたとされるものの、義輝が自ら政権を返上するとしても御所と相応しい町が必要だと判断し進言している。
近江御所、現在の足利御所は三国同盟のみならず日ノ本の諸勢力が資金や物資を提供して造営が行なわれ、当時を代表する豪華絢爛な御所である。
当時最先端だった久遠流の建築も用いられ、欧州の影響を受けた南蛮風な館もある。
足利御所は現在もほぼそのまま残っており、地域の観光名所として人々に親しまれている。
足利義輝の婚礼は、足利義輝、斯波義統、織田信秀、北畠晴具、北畠具教、六角義賢、久遠一馬の七名で主に相談されたこととされる。
義輝自身は新たに正室となる者の実家が権勢を持つことを懸念して、婚姻を望んでいなかったという逸話が『足利将軍録・義輝記』に記されている。
他にも義輝の正室をどうするのかということは、懸案として度々あったといくつかの資料に散見している。
一馬としては相談には乗るが、もとより婚姻による政治には否定的であり、あまり口を出していない事案だったことが窺える。
先に挙げた七名と近しい者たちが悩みに悩んだ結果、斯波一族として扱われていた石橋家のおそねを北畠晴具の養女として輿入れする案が浮上した。
すでに斯波と織田による東国統一も見えていた頃であったが、奥羽の地では未だに南北朝の争いによる因縁が残っていたとされ、足利家と北畠家は、来たる新たな世の前に因縁の解消に動いたのがこの婚礼となる。
朝廷の助けを一切受けずに武士たちが自力で南北朝の因縁を終わらせた。この事実は日本史から見ても大きな変化であり、尾張を中心にした三国同盟が朝廷の権威から外れつつあったことを示す重要な出来事だと語る歴史学者もいる。
当時としても義輝の婚礼は、荒れていた世を鎮めることになると大いに期待されていたことが分かっている。
戦ではなく慶事で時代を変えた。現代ではそう評価されているが、北畠具教は後年、足利家と北畠家の意地により婚礼は成したと語った逸話が残っている。
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