第2317話・南北が交わる時・その四
※書籍、お買い上げありがとうございます。
ご報告を嬉しく読んでおります。
すでに十巻の許可が下りて制作を開始しております。ご検討のかたは、どうかそこを加味してお願いいたします。
Side:斯波義統
院をお迎えしての婚礼か。足利が将軍として世を治め幾年月。上様の権勢は高まるばかりと鼻息が荒い者すらすでにおるという。
居並ぶ足利と北畠一門。この中の幾人が気付いておるのであろうか? 上様が将軍を終わらせる覚悟を秘めておることに。
今はいい。この場を喜び、同席出来ることをありがたいと考えておるからの。されど……傲り高ぶり、すべてを己の血筋と力のおかげと勘違いする者が現れる日は遠くあるまいな。
もっとも一馬らは左様なこと承知の上であるが。
あやつは本当に人の心情を大事とする。わしが管領を望まぬと言えば、その道を探し、上様が新たな世のために足利を終わらせると望めばその道を探す。
勝手ばかりいう身勝手な我らなど見捨ててしまえば楽であろうに。弾正など、今でも一馬は政に向かぬという時があるからな。
「武衛殿、一献」
「これはかたじけない」
隣におった細川右京大夫殿が声を掛けてきた。そういえば、この男は立ち回りが上手いな。我慢強いというべきか?
その気になればこの場におらぬ若狭管領を討ち、細川京兆をまとめることも出来たであろうに。特に仙洞御所にて茶会があった頃からは、こちらに合わせるようになった。
もとより争うようなことはしておらなんだがな。
「まさかこの場に同席せぬとはな。あの御仁はつくづく己の名を上げることを望まぬのか。今以上に名を上げることが理に叶わぬと思っておられるのか。わしには分からぬが……」
返杯にと右京大夫殿の盃に酒を注ぐと、なんとも言えぬ顔でそう呟いた。
「その両方であろうな。あやつは人とはいかに愚かかを理解しておる」
奉行衆は一馬に管領代殿と共に見届け人として同席してはと勧めたが、一馬は考える間もなく断ったからの。
奉行衆に悪気はあるまい。この婚礼が久遠の下支えで成り立つのは愚か者でも理解すること。誰かがそれに相応しき席をと進言せねば、一馬は生涯に一度の晴れの席を失うと案じた者が多かったのだ。
懸念はひとつ、一馬の名が上がり過ぎておること。無論、働きを思えば当然であるが、それでもあやつが日ノ本の外の者であることに変わりはない。潮目が変わると四面楚歌になるからの。
「己らの始末さえ出来ぬ日ノ本には、過ぎたる男なのではと思う時がある」
ほう、一馬を左様に見ておるのか? それともあやつの力で成り上がっておるわしへの当てつけか?
「わしは武衛殿に含むところなどない。されど、努々気を付けなされ。武衛殿の言う通り、人は愚か故にな」
「御助言、ありがたく承る」
不満はあちこちにあるか。考えてみればこの婚礼もまた細川京兆は右京大夫殿が同席するものの、本来あるべき管領としての立場で遇されておらぬ。右京大夫殿が抑えておるとみるべきか。
厄介よの。西などすべて捨ててしまいたいわ。
Side:北畠具教
御所を抜け出して密かに花火見物に行った頃をふと思い出す。家督も継いでおらず、あの頃は気楽であったな。
公卿家として生まれたが、実のところ公卿としてありたいと思うたことはあまりない。京の都の公卿と我が北畠は立場が違うからな。
敗軍の将、誰も口にせぬがその末裔というのが事実だ。足利相手にも意地を張り続け、今に至る。
それが今では朝廷と対峙するのは北畠の役目と変わり、数年前、当時の関白に堂々と兵を挙げると言うた父上は東国の庇護者のように扱われることもある。
上様の権勢が高まり続ける中で、いずこから御台所を迎えるのか。己が家から御台所をと望んでおったところは山ほどあろうに。
その実、いずこから御台所を迎えても厄介にしかならず、困り果てて北畠で引き受けたことを察する者はおるまいな。
一言で言えば、意地だ。一馬らに助けを受けてばかりいる我らのな。
見渡せば、皆が喜んでおるな。院の御臨席があることで南北朝の愚痴などは聞かれぬが。
わしのところにも南朝方だった諸家から、ようやく功が報われたと喜ぶ者が幾人も挨拶に来た。
ただ、功に報いたのは朝廷ではない。上様と父上だ。南朝方諸家もそれは理解しておる。故に、この婚礼に当主やそれに準ずる者ばかり祝いに集まった。
院が御臨席されたことで、朝廷は辛うじて面目を立てたというところか。一馬は相も変わらず甘いわ。
まあいい。この先、北畠一門から愚か者が出ぬようにするのはわしの役目か。なんとも厄介な立場となったものよ。
剣一本で生きるほうがよほどよいわ。
Side:足利義輝
婚礼か。一時は要らぬとすら思うたのだがな。将軍を捨てて、いずこかの地で野垂れ死にすることを考えておった故に。
今でも公卿や名のある武家の娘は要らぬと思うておる。
南北朝の始末を終えることや三国同盟と共に歩むためにと決断したが、御台所に迎える娘が尾張の者だというのも承諾した理由のひとつになる。一馬の下で育った娘ならば、将軍を退いたあとも共に生きてゆけるかと思うたのだ。
石橋の娘で、名をおそね。実はこの娘とは那古野の学校で幾度も会うたことがある。武芸の手ほどきをしたことがある。
北畠の養女となると尾張を離れる前には挨拶を受け、オレが教えた武芸にて上様に尽くすと言うてくれた。
そんなおそねと、昨日、将軍として初めて会うた。おそねはオレの顔を見るなり目を白黒させておったな。他人のそら似にしては似すぎだ。当然であろう。
オレは、その場でおそねに打ち明けた。武芸者菊丸として生きておることも、いずれ将軍を退くつもりであることも。
常ならばやらぬことだ。将軍と御台所は家と家の関わりから子を成すための相手だ。御台所は将軍の妻であると同時に実家の者としての立場がいつまでも残る。母上のようにな。
ただ、オレはそれも変えたかった。無論、北畠卿には許しを得てある。もとより北畠が引き受けたのは、将軍と政を手中に収めるためではないからな。快諾してくれた。
おそねは終始戸惑うていたな。されど、理解してくれたと思う。
多くを望まぬ。されど、共に歩む者となってほしい。実のところ、オレが求めたのはそれだけなのだ。
◆◆
室町幕府十三代将軍足利義輝の御台所。北畠御前。名をそね。
実父は石橋忠義。養父は北畠晴具。
石橋家は明応の政変で足利家が力を失って以降は尾張にて生きており、室町時代末期には斯波義統に正室を出すなど斯波家と縁が深いことでも知られる。
すでに京の都で忘れ去られた存在であったという記載が義輝の婚礼に関する資料の一部に残るほど没落していたが、久遠一馬の織田家仕官以降、斯波家が権威を取り戻したことで相応に扱われていたことが分かっている。
実の父である忠義に関する資料は多くない。ただ、変わりゆく尾張において特に反発をすることなく斯波一門として遇されていたことで立場は悪くなかったと思われる。
娘のそねが義輝の正室として候補に挙がったのは、義輝と三国同盟の苦心の末の結果であり、忠義がなにかしたわけではない。
ただし、義輝とそねは婚礼前から縁があったことが、『足利将軍録・義輝記』に記されている。
武芸者菊丸として尾張で生きていた時に、義輝はそねに武芸の手ほどきをしていたとされる。これは織田学校の生徒名簿としても名が残っていて確かと思われる。
一説には、そねは義輝の素性を婚礼の夜まで知らなかったとされ、大いに驚いたと伝わるが、これは確たる証拠がある話ではない。
とはいえ両者が旧知の仲であったことは確かであり、現代の創作物ではふたりが以前から恋仲だったという設定が多く用いられている。
さらに義輝の婚礼に関しては一馬が特になにかしたという記録はないが、創作では一馬がふたりを取り持つなどしていることもある。
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