第2305話・敵か、味方か。

Side:伊勢貞孝


 腫れ物に触るとは、まさにこのことよな。到着して二日、誰一人、わしを訪ねてくる者はおらぬ。


 町はまだ広げておる途中か。御所と周囲の屋敷はすでに使うておるようだが、とても療養のための御所と町とは思えぬ。


 まあ、仮の御所であるという言い分が方便であることは誰もが理解しておろうが。


 政にしても御所にしてもそうだが、上手くやっておる。奉行衆ではそうはいかぬ故、六角が苦労をしておるのであろう。


 この日、わしが呼ばれたのは、観音寺城下にある久遠屋敷であった。忙しそうに人が出入りする様子が見られた故、ここも忙しいようだ。


「お待たせして申し訳ない。いろいろと立て込んでおりまして」


 やって来た御仁に少し驚いた。会うたのは数年ぶりだ。多少、年月を感じさせる変化があるものの、相も変わらず若く見える。


 会うのは初めてではない。挨拶をした程度だがな。


 大智の方と滝川八郎が控えるように揃う姿に畏怖すら感じる。今の世を治めておるのはこの者らであろう。勝手ばかりし、すぐに揉め事を起こす奉行衆を黙らせ働かせるのは六角では無理だ。


「さっそくですが、少し今後のことを話したいと思いまして。予め言っておきますが、伊勢殿の非を指摘するためにお呼びしたのではございませんから。ただし、現状が良くないことは存じておられるはず」


 叱責してしまえばよかろうに。


 いかな理由があれど、わしは上様に逆らい本来の形を残し続けた。近江が上手くいかぬ時は役に立つこともあろうと思うてな。されど、それが諸勢力に付け入る隙を与え、天下の政を厄介にしておったのは事実だ。


 左様な状況にもかかわらず、わずか数年で誰も手が付けられなんだ政を変え、上様の権勢を押し上げたのだ。しかも己が家を大きくするためではない。わしが知らぬところでも戦にならぬようにと苦心しておるのは明白。


「某の用意した道は、最早、不要でございましょう。ひとつだけ、某の一族のことは良しなにお願い申し上げまする」


 上様に疎まれたことで倅の婚礼相手すら事欠く始末。かというて、上様や三国同盟と争うことを狙う小物と縁組するわけにもいかなんだからな。


 倅と一族を頼むのはこの御仁しかおるまい。


「ああ、ご懸念には及びません。そこはこちらでなんとかします。いろいろ上手くいっていないところとも仲介致しますので」


 そうか。その一言でわしは十分だ。


「ならば、某の身は内匠頭殿にお預け致しまする」


 腹を切れという御仁ではあるまい。されど、政所が上手くいっておらぬのは事実。責を負い、降格が妥当か。


「上様の下で新しき政に加わっていただけますか?」


「はっ、無論でございます」


 深々と頭を下げる。思うところがないとは言わぬ。されど、わしでは今の世を荒れさせずに治めることは出来ぬ。頃合いであろう。


「正直、安堵致しました。伊勢殿の今後ですが、今のところ京の都を任せようと思っています。ただし、政所の役目は変えたいと考えております。はっきり申し上げると、役目が集まり過ぎていますから。それを担う人も足りていませんし」


 わしを京の都に戻すか。まことに京の都に関わるのを避けたいか。朝廷や寺社を相手に恨まれたくはないのか? それとも……。


 政所は致し方ない。乱世と細川京兆の争いでまともな政など出来ておらぬ時が長く続き過ぎた。わしとて京の都に足利家の形を残すだけで精いっぱいだったのだ。


「尾張の政は聞き及んでおります。同じようにされるのでございましょうか?」


「すべて同じことにはしませんよ。京の都は厄介なことが多すぎますから。同じことは出来ませんし」


 やはり京の都を変えてやる気はないか。とすると……。


「かつてあった六波羅探題のようなものをお考えで?」


「さすがですね。考え方はそれで合っています。細かい形は今の世に合わせなくてはなりませんが。伊勢殿にも相応の地位は用意出来ると思います。いかがでしょう?」


 悪うないな。朝廷や寺社と争いを避けつつ、あの地が荒れぬようにするには相応の押さえがいる。内匠頭殿は京の都に深入りをすることを好まれぬようであるからな。されど、捨て置くと愚か者が集まって良からぬことを企む。


 半端な者ほど、わしを焚きつけて上様と争わせようとするのだ。わしと若狭管領が立てば尾張など一捻りだなどと愚かなことを言う者もおったな。


 朝廷や寺社とて、今の世を表す如く堕落し勝手ばかりしておる。己らの血筋と権威をもっとも尊き者として、人を人とも思わぬほど見下す。無論、かような者ばかりではないが、わしのところにはかような者ばかり集まるのだ。


「元より従うつもりでございました。異論はございませぬ」


 この御仁の恐ろしいところは、朝廷も寺社も畏れ多いと言いつつ捨て置くところだ。愚か者は懐柔する価値もないと思うておられるのかもしれぬ。


 もはや、上様は京の都にお戻りにはなられまい。


 仮に上様の身になにかしらのことがあり代替わりされたとしても、次の将軍が京の都に戻れば三国同盟の助けが消える。よほど愚か者でもあらねば、次の将軍も近江にて政をすることであろう。


 ひとつ気になるのは、この御仁はいずこまで根回しが済んでおるのだ? 近衛殿下が出張ったのだ。相応に話は出来ておると思うが……。


「上様と奉行衆は、某のことを納得するのでございまするか?」


「ええ、上様のお許しはございます。奉行衆も快く納得していただきました」


 快くか。笑みを浮かべて言われると苦笑いが出そうになる。奉行衆如きでは、この御仁の頼みを断れぬだけなのは分かるわ。


「ああ、北条左京大夫殿も来ております。後日、一席設けるので、同席をお願い致します。不要な遺恨など残したくはありませんからね」


 なにからなにまで手配済みか。


「重ね重ね、ありがとうございまする」


 あまり表に出たがらぬ御仁に、随分と手間をかけさせてしもうたな。若狭管領と共に死ねと言われぬだけありがたい。


 少し前には神宮が見捨てられたと騒ぎになっておったからな。


「礼を言われるほどのことはしておりません。ここ数年、争いを避けようとしていたのは同じはず。伊勢殿のおかげで苦労もありましたが、畿内に兵を挙げるようなことがなかったのも事実。今の形もそこまで悪くなかったんですけどね。そろそろ伊勢殿と話をして政をひとつにしておかないと、いずれ困りますから」


 困るのは、わしであろう。戻る場を失うてな。


 ただ、尾張と近江の新しき治世は残さねばなるまい。そういう意味では、わしが足を引っ張ることだけはしとうない。


 他に道などないのだ。伊勢家のためにもな。




◆◆

 永禄六年、九月。近江御所お披露目と足利義輝の婚礼のために近江に来ていた久遠一馬が、政所の伊勢貞孝と会談をしている。


 長き流浪の身であった義輝に逆らうように京の都に滞在し続けて自身の役目をこなしていた貞孝だが、すでに足利家の政権運営は近江を本拠地として貞孝の関与しない形での政治に移行しつつあった。


 そのため京の都に残り続けていた彼の役目と行動が、近江政権内で度々問題視されていたことが関係する資料に散見している。


 そんな貞孝を庇っていたのが久遠一馬になる。明らかに将軍の命に背く行為もあったとされるが、当時情勢の難しい京の都を大きな問題を起こさず治めていた力量を高く買っていたと『織田統一記』や『久遠家記』にはある。


 この少し前には、近江にて政を担っていた奉行衆と貞孝の確執は抜き差しならぬ段階まで悪化しており、貞孝自身、戦も覚悟していたという逸話が残っている。


 この時、貞孝が御所のお披露目を理由に近江に出向いたのは、一馬に頼まれた近衛稙家が説得したからであると『久遠家記』に記されている。


 新しい御所のお披露目と義輝の婚礼前に、貞孝の処遇を解決しようとした結果であった。 


 貞孝は長年従わなかったと思えぬほど、素直に従ったことが分かっている。


 一馬も貞孝も政治の考え方や方向性は違ったものの、互いに認めていたことが様々な資料から読み解ける。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る