第2268話・学校にて
Side:久遠一馬
近江から菊丸さんが戻った。
「よし、あと十回だ」
「はい!」
学校で子供たちに剣を教えている様子は慣れたものだ。厳しくはあるが、ちゃんとひとりひとりの子供たちを丁寧に指導している。
ちなみに将軍様と似ているという噂、ちらちらと流れている。ただ、常識的に考えて同一人物だと言う人はまずいない。身分がある人で確信がある人は黙るし、それ以外の身分の人は上様がこんなところにいるはずがないと思うんだ。
武者修行の旅をしつつ何年も前から尾張で見かけるからね。塚原さんと共に尾張に滞在している武芸者として、みんなに認められている。
「ありがとうございました!」
授業が終わると、子供たちの挨拶と共に厳しい表情から一変して穏やかな顔になる。
「うむ、皆、ようやったな。各々で鍛練を欠かすでないぞ」
「はい!!」
子供たちに囲まれて校庭から校舎に戻る様子は微笑ましい。
ちなみに菊丸さんと与一郎さん、教師として学校に在籍しているので武芸者兼教師でもある。元の世界の非常勤講師のようなものか。寺社からの出向組に多い形で、実は教師としての俸禄だけでも食べていけるくらいに収入がある。
尾張を留守にすることも多いが、尾張にいる時は冠婚葬祭にも出席するし、いない時は同じ塚原さんの門弟の人が代理を務めている。
生活基盤が普通に尾張にあるからな。将軍様としての疑いが似ているくらいで止まっている。
「ああ、内匠頭殿。来ておられたのか」
職員室に戻った菊丸さんと与一郎さんに少し驚かれた。見ていたことに気付かなかったのだろう。
「ええ、子供たちの様子を見ようと思いまして」
近江の春からは、真継の件で少し機嫌がよくなかったと報告があったが、尾張ではいつもと変わらないなぁ。
最初の頃は立ち居振る舞いからして高貴な身分だとバレるくらいだったのに、今ではその使い分けもほぼ完ぺきだ。
それなりに教育を受けた者が武芸者となることは珍しくないしね。尾張には武芸者も集まる。
「世は変わるというのに、ここはあまり変わりませぬな」
確かにそうかもしれない。いや、学校も細々としたところは変えている。ただし、教育の基礎と子供たちの環境はあまり変えないようにしている。
「子供たちにとっては、この学校こそが世の中なんですよ。もっと広い世の中を教えるには憂いなく学べる環境が要るんです」
学校は、オレたちが手を出さなくてもこのままやっていけるだろう。予算とかお金のことはその時代によって考えていかなくてはならないだろうが。
教師陣と卒業生が学校を守り続けてくれるだろう。
「お茶などいかがでございましょう」
「天竺殿、かたじけない」
菊丸さんと学校のことを話していると、アーシャがオレたちに煎茶を淹れてくれた。
尾張だとお茶関係は、茶の湯のように形を整えない場で気軽に飲むことがある。きちんともてなしの場を整えることもあるが、こうして日々の務めの合間に飲むこともある。
ひとつの決まった形にとらわれない。尾張のいいところになりつつある。公私の区別と言い換えてもいいと思うが。
自由に振る舞うことを許しつつ、きちんとした形の場を整える時は整える。形にこだわって権威主義のようにならないのは、京の都を反面教師としているからだろう。
「子らに教えていると、むしろこちらが学んでいるのではないか。そう思える時がございます。己が未熟なのかもしれませぬが」
菊丸さん……。
「それが人なのだと思いますよ。いくつ歳を重ねようとも、いかな身分になろうとも。人は誰か他者から教えを受けて生きるものかと思います」
為政者がどうあるべきか。正直言うと、オレにもよく分からない。理想、形、いろいろとあるし、元の世界での歴史が積み重ねた経験からあれこれと言うことは出来るかもしれないが。
ほんと、偶然の産物なんだよなぁ。将軍が武芸者としての一面を持つというのは。
それが今では世の中を安定させる大きな理由になっている。
なにが功を奏するのか分からないね。生きるって難しい。
Side:とある商人
山越えは楽ではないが、それでも八風街道を使えるのはありがたい。東海道は混雑していて日数もかかる。
伊勢に入りひと山越えた。ちょうどよい川岸があったので馬と共にひと休みすることにした。
「伊勢に入ると安堵するな。近江も悪うないが、こちらのほうが襲われる懸念が少ない」
共に山越えをしている商人たちの顔つきも悪うない。賊の多くは討伐されたと聞いたが、念のため腕の立つ牢人を含めて二十人ほどで伊勢に向かっておるのだ。
賊と言うても様々で、近隣の村の者が賊となることも珍しゅうない。近江の村々は六角様と蒲生様を怒らせたとかでなにがあるか分からぬからな。
ここらは保内商人が占有していたところだ。我らはあまり地縁もないところなので、近江の村には立ち寄らず先を急いでここまで来た。
「織田様の治める地は違うからな……」
いずこに行っても、それなりに名のあるお方が治めておる。噓かまことか分からぬ血筋を誇る者らがな。
されど、実情はいずこも大差ない。ここらに出ていた賊と同じに思える。寺社とてそうだ。不興を買うとなにをされるか分からぬ。
それなりに旅をしているが、憂いなく領国を治めておられる者は僅かしかおらぬ。まして国人や土豪ばかりか、村にまで細かく命じて従わせておるところは他にはあるまい。
「おーい、そろそろ出立するぞ」
気が付くと、それなりに休んでおった。我らの後から山越えをしてきた者らが見えたので先を急ぐことにする。
わしもかつては畿内から近江に荷を運び細々と行商をしておったのだがなぁ。今では尾張から荷を得て行商をしておる。
大店を構えるような商いではない。数人の家人と共に営むだけの身だ。昔は道理にそぐわぬ理由で荷を奪われたことも一度や二度ではない。
織田様と六角様がなにを考えているかなど知らぬし、興味もない。
ただ、理不尽に奪われず商いが出来るだけでいいのだ。
「もうじき冬が来るな」
「ああ、東国ではあちこちで不作だとか……」
見上げると山の木々が色付いている。寒い冬がくるな。不作のところでは野草どころか木の皮や草の根すら食うて飢えをしのぐ。
身分のあるお方は下々のことなど考えてくださらぬ。尾張以外はな。
また、世が荒れるのであろうか?
余所が荒れようが滅ぼうが勝手にすればいいと思うが、尾張から奪おうと荒らすことだけは止めてほしいところだ。
尾張がなければ、我らのような身分は生きていけぬからな。
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