第2103話・そして戻る日常

Side:摂津晴門


 尾張からの知らせに唖然とするしかない。内匠頭殿の奥方の面目を潰したことで、神宮が斯波と織田に見限られたとは。我が子に会うなと命じられたことで、院の蔵人でさえ引かず蔵人が罷免されたことなど知っておろうに。


「信濃の地におる奥方ということで序列が低いと軽んじたようだな」


「内匠頭の奥方に序列があるとは聞いておらぬが?」


「信濃だからな。鄙の地に出した故に序列が低いと考えたようだ、少なくとも使者を務めた者はな」


 孤児らを案じて猶子とする御方に情を通じた女の序列もなにもなかろう。前代未聞といえるほど大勢の子が猶子となったことでいかにするのだと騒ぎになったほど。ただ、尾張では特に騒がれることもなく困っておらぬ様子。


 それが猶子なのかと問われると分からぬが、尾張では賦役もまた意味合いが違う。ようあることなのかもしれぬ。


「夜殿と明け殿か。三河本證寺を壊滅させた奥方であろう? 面目を潰すと織田も引き下がれぬぞ」


「それで織田家中が怒っておるのだ。ここ数年、寺社は働かず銭ばかり求めると嫌がられ、奥羽の一件で寺社を信じる者は愚か者だとさえ言われておるというのに」


 上様はちょうど近江におられる。お耳に入れぬわけにいかぬな。




「神宮か。そろそろ騒ぎを起こすかと思うておったが……」


 驚くことに上様はお怒りになることもなく冷めた様子で聞いておられた。菊丸としてなにかご存じなのであろうか?


「弾正と一馬が神宮を案じ、莫大な銭を寄進しておったというのに。奴らはなにを始めたか知っておろう。贅沢をしておったのだ。一馬が見捨てたのには此度のこと以外にもわけがあろう。当人は口にするまいがな」


 近頃の上様は臣下の顔色を見て察してしまうので少し困る。わしが問うまでもなくわけを話してくだされた。


「いかが致しましょう」


 あまり早く口を出しては、斯波と織田ばかりか北畠も敵に回してしまう。今のところ神宮からはなにも言ってきておらず、尾張から知らせが届いただけなので動かずともよいが……。


「今しばらく捨て置け。神宮からの訴えがあるまで余もそなたもなにも知らぬ。それでよい」


「はっ、畏まりましてございます」


「もし余がおらぬ時に神宮から訴えがあれば、織田と北畠とよくよく話して動け。朝廷が騒いでも無視して構わぬ。困ったら、春たちの知恵を借りろ。頼んでおく故にな」


内匠頭殿の怒りは、東国においては朝敵に並び立つかもしれぬ。故に此度のように対峙する者に非があると止められなくなる。


 当人が穏やかな御仁なのでよいが、神宮とてただでは済まぬぞ。




Side:久遠一馬


 ウルザたちは神宮の謝罪を拒絶した。今後のことは清洲に一任するという書状が届いた。


 慶光院清順さんは信濃衆の主立った者たちに謝罪行脚をしている。神宮の非を認めて歩いているんだ。これだけでも驚くほどの行動と言えるだろう。


 まあ、神宮といえども争いもするし戦もする。そういう意味では穢れない寺社と言えるところじゃないんだけど。とはいえ、朝廷の祖を祀るところだ。信濃まで行って国人に謝る。なかなかあることじゃない。


「とのさま! さむくない?」


「うん、寒くないよ」


 オレは今日、那古野郊外の賦役現場に孤児院の子供たちと一緒に来ている。


 孤児院の子供たち、牧場の仕事が減る冬場は、時々近所の賦役に参加することがあるんだ。まあ、社会勉強の一環だね。正直、食べるのに困る状況じゃないから。


 ちなみに子供たち、着物姿だけど袴と靴下と靴を履いている。こんな冬の寒空の下で野外の仕事は厳しいからね。寒くないようにしてあげているんだ。


 それなりの年齢の子は大人と一緒の仕事だが、オレは年少組と一緒に土を踏み固める仕事をしている。近所の子供たちなどもいて、ほんと子供が遊んでいる光景にしか見えないけど。これでもいいんだ。


 無論、真面目に踏み固める子もいるけどね。中には隅から規則正しく歩いて踏み固めようとしている子もいる。


 今頃、清洲城では寺社奉行が神宮の団体と会っているはずだ。大宮司以下、外宮内宮の主立った者たちが揃ってやって来ている。


 本来なら歓迎の宴やら義統さんへの謁見などいろいろとあるはずだが、今回はなにもない。オレも会う予定はないし。


 神宮に対しては、しばらく様子見にしようということになっている。オレのためにも骨を折って仲介してもいいという人もいるけど、身分が釣り合わない。最低でもオレと同じくらいの身分でないと仲介も出来ないんだ。


 寺社奉行の千秋さんと堀田さんも苦悩しているけど、外務方で外交指南しているナザニンがふたりに、寺社の立場より織田家の立場を守るべきだと前に苦言を呈したこともあり、仲介する様子はない。


 中立な立場で動きたいなら役職を退くべきだと言ったらしいからなぁ。


「うえーん」


 おっと、転んだ子が泣いてしまった。


「大丈夫かい?」


 見てみると膝を少し擦りむいたようだ。着物の汚れを払い落として傷口を綺麗にしてやるか。このくらいならオレでも対処出来る。


「よーし、これで安心だ。まだ痛いか?」


「ちょっといたい」


「じゃ、少しここで休んでいるといい」


 賦役の現場にある救護所にて擦りむいた子を休ませると、オレは他の子たちの様子を見に戻る。


「こんどはこっちだよ」


「うん!」


 踏み固める作業をしている子たち、ちゃんと考えているんだよなぁ。遊ぶように騒いでいるけど、遊ぶ場所を自分たちで考えて移動しているんだ。なるべく均等に踏み固めるように。こういうのは代々、子供たちで受け継がれている行動なんだよね。


 神宮のことで気が滅入ることが多いけど、こういう光景を見ていると元気になる。


 正直、神宮領に関しては新しいことが決まるまでは現状維持なんだ。双方が合意して新しい形となる場合は変えるが、一度決めたことを一方的に変えることは今の織田家では基本していない。


 領民向けの医療活動も同じで、費用は神宮への寄進から天引きしており、神宮側がそれを要らないとして申し出があるまでは神宮への寄進と同様に続ける。


 ただ、身分のある者たちの診察はしないというだけだ。もともと身分ある者に関する医療の取り決めはない。暗黙の了解で来れば内密で受け入れていたが。祈りや祈祷を重んじる神宮において医療を必要とするという形を取りたくなかったのだろう。


 こちらはそれを利用させてもらった。


 神宮とは関わらず知恵も貸さないが、なるべく領民は困らないようにする。これが最大限の譲歩だ。神仏の名前でお金を集めて祈りの効果を過大に自任する人たちは祈りで解決したらいい。


「とのさま、こっち!」


「うん、今行くよ」


 ああ、オレも一緒に土を踏み固めるために移動しないと駄目か。子供たちに注意されてしまった。


 今日はお昼過ぎまで一緒に働く予定なんだ。まあ、オレにとってはちょっとした休日のようなものだけどね。




◆◆

 仁科騒動。


 信濃にある仁科三社と、三社を庇護していた仁科家の御家騒動である。


 事の始まりは、小笠原家と仁科家の対立にある。信濃守護であった小笠原家だが、信濃国内を従えていたわけではなく、仁科もまた同格と言える国人であり長時の正室も仁科の娘である。


 甲斐武田の信濃侵攻の際に、小笠原の不利を察していち早く武田に通じた仁科であったが、その後、小笠原長時が織田臣従という奇策で信濃守護を斯波に明け渡すと情勢が一変した。


 仁科の行動は当時としてはよくあることであり、長時も織田家の方針もあって仁科を許している。ただ、小笠原家中にとって仁科は裏切り者であることに変わりなく、あまりいい扱いではなかったと思われる。


 これに不満を持ったのが仁科神明宮、若一王子神社、穂高神社からなる仁科三社であった。


 仁科三社は織田臣従に際して、俸禄と引き換えに千国街道の徴税権も織田家へと移譲するなど情勢の変化に応じていたものの、歴史ある三社を厚遇しないことに不満を募らせていたとされる。


 三社は原因を仁科家の庇護であると判断し決別を画策して動くが、そもそも織田家では寺社を遇することで寺社の権威による統治をすでにしておらず、三社の動きに理解を示す者はほぼいなかったとされる。


 同年の頃には奥羽で強訴未遂もあり、仁科と関係なく織田家では寺社に対しての信頼が失われつつあった。


 織田家としてはこの件を、仁科三社の地位と利権争いであり関与する必要がないと判断してのことになる。


 そんな状況で孤立を深めた仁科三社と仁科家は泥沼の争いを続け、代官である久遠ウルザが下した、双方で穏便に解決するようにという命と、分国法に反して死人が出たことで、仁科三社と仁科家の独立処分とした。


 これには働かず勝手ばかりする寺社など要らぬという、信濃のみならず織田家の中で広がっていた動きがあった。他の領国では取り潰される寺社もあったが、仁科三社は歴史も古く伊勢神宮や熊野大社の末社ということもあり、処罰ではなく表向きは独立するという形で収めている。


 ただ、この処分に伊勢神宮と熊野大社が不服とし、処分の撤回を求める使者を出し介入したことが事態を悪化させた。


 当時、伊勢神宮は古くからあった神宮領の多くを国人や土豪に横領され、彼らが織田家に臣従する際に所領の扱いを問題視し、毎年一定額寄進することでこの件を収めた経緯がある。


 これは久遠一馬が神宮の行く末を案じて献策したという記録がある。


 とはいえ神宮の内部にまで織田家は口を出しておらず、それぞれ独自に営んでいたが、この件で神宮が熊野と図り織田の政に干渉をしたことで、織田家中において神宮への印象が急速に悪化した。


 神宮の使者は独立が経済的な苦境に陥ることを理解していたと思われ、とにかく独立は困ると織田家に働きかけていたが、理解する者は少なかった。


 そのうえで内政干渉もして、信濃代官であるウルザとヒルザのことは二の次だと言わんばかりの態度が斯波義統・織田信秀・久遠一馬の怒りを買った。


 度重なる寺社の横暴と傲慢な態度に、織田家では寺社の扱いを変えようと模索していた頃だったこともあり、表向きは神宮の内政干渉を聞き届ける形を取ったものの、以後、仁科三社と神宮、熊野とは関わりを避ける方針が決まる。


 数ある寺社の中でも朝廷に通じていた神宮は、他が羨むほどの配慮を織田家から受け、織田学校で学ぶことや久遠病院での治療もほぼ対価なく受けていた。


 それらが前触れもなく停止されることになり、神宮は大いに動揺したと記録にある。


 神宮は関係改善のため、信濃代官であるウルザとヒルザの下に慶光院清順が謝罪に出向き、清洲には大宮司以下、伊勢神宮にいる上位神官が揃って謝罪に出向いた。


 形式としては最大限の謝罪ではあったが、伊勢神宮側は寺社奉行である千秋季光の提案した旧来の形に戻る完全な独立を困ると拒否したこともあり交渉は決裂。


 当時の情勢として朝廷や畿内との関係が悪化していることもあり、織田家では、なぜ苦労をして神宮の面倒を見なくてはならないのかという疑問が多くあった。


 その結果は、神宮領の返還と寄進停止、経済的な物価調整の支援も止めろという声が多かったほど。尾張では朝廷、とりわけ公家と寺社への信頼低下により、寺社にいる高貴な血筋の者の祈りそのものを信じていない者が多数派となりつつあったことが窺える。


 この件を以て伊勢神宮は、斯波家、織田家、久遠家との関係が一時的に途絶えることとなった。


 この仁科騒動は、織田信秀や久遠一馬など、伊勢神宮を盛り立てようと長きに渡り尽くした者たちの面目を潰し怒らせ、その権威をどん底まで落とした。この影響は大きいと言わざるを得ず、現代では伊勢神宮最大の汚点と言われる出来事となった。


 なお、近代に入り一部の伊勢神宮関係者と自称識者が、この件を傲慢な久遠家の謀だと主張することがあり話題を集めたが、一切反論しない久遠家に代わって諏訪神社が秘匿していた諏訪満隣の書状を公開したことにより、当時の信濃の詳細が明らかとなった。


 やっとひとつ恩返しが出来た。公開した時の大宮司の言葉が話題となり、その翌年の御柱祭には久遠ウルザと久遠ヒルザの直系子孫が見物に訪れたことでも話題を集めた。





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