第2028話・飯富兵部の熱田祭り
Side:飯富虎昌(兵部)
意地を張り隠居して所領に戻ったが、気が付くとわしの暮らしですら織田の治世に支えられておった。
以前よりも上物の塩や酒、魚の干物が手に入るようになったと喜ぶ家人らの様子に、わしに残された最後の面目が失われた気がした。
家人らには隠居にまつわる詳しい仔細を話しておらぬ故、知らぬのだ。それ故、わしのためにと上物の塩や酒を手に入れてくれた。その心遣いへの感謝と、それが織田によりもたらされたものと知るわしの心中に折り合い付けるのにいささか時を要した。
「何ひとつ勝てぬとはな……」
熱田の町は人とぶつからず歩けぬほど賑わっておる。着物は明らかに余所者と尾張者で違いが分かるくらいだ。道沿いには物売りが並び、女子供が手伝うように働き笑みが絶えぬ。
戦をすることすら出来ず、所領の
御屋形様に命じられ町に出たが、なにをしてよいか分からぬ。沿道の隅で行き交う人を眺めつつ、ただ、時が過ぎるのを待つ。
「ほう、そなたも参っておったのか」
これだけ人があふれる場にて、先代様と若に出くわすとは。これは熱田の神の差し金か?
追放する前のように恐ろしき顔でわしを見る先代様に過ぎ去りし日々を思い出す。
先代様と若への挨拶はまだしておらぬ。甲斐を出てそのままここ熱田に来たからな。御屋形様は日を置いて会う場を整えると申されたのだが……。
「ご無沙汰しております」
なにも言うことなどあるまい。謀叛人。それだけだ。いかに取り繕うとも先代様にとってはな。
「そなたは運がいい。斯波の御屋形様は因縁をもっとも嫌う。故に我らは因縁をなくすべく努めておる最中なのだ。そなたとの因縁も水に流さねばならぬ。太郎、少し案内してやれ。甲斐者にもこの国が分かるようにな」
「はっ……」
仮にこの場で斬られても文句はない。ただ、先代様は顔色一つ変えずそう告げると若を残していずこかに行ってしまわれた。
武田家が上手くいかぬ時、我らは責めをあのお方にかぶせて追放してしまった。その怒りは察するに余りある。にもかかわらず……。
若の近習らがいかんとも言えぬ顔をしておる。かつてはわしを恐れておった者もおるが、今ではいかに相手していいか分からぬ様子。
「兵部、付いて参れ」
「はっ」
楽しげな祭りの喧騒の中、若とわしらは一言も口を開かず、すれ違う人の中を歩く。
たどり着いたのは海だった。湊と沖には黒船がいくつも見える。
「兵部、そなたの苦労を察することが出来ずすまなかったな」
まさかの一言だった。
「いえ、謝罪せねばならぬのは某でございまする。愚かな生き方しか示すことが出来なんだこと。申し訳なく思うております」
久遠がいかな者らか知らぬ。だが、尾張者は同じ日ノ本の武士。少ないながら織田の治世で生きておると、己がいかに愚かかは嫌というほど理解した。
「世は移り変わる。あれだけ上手くいっておるように見えた朝廷と尾張が、今では変わりつつあるのだ。尾張では古き書から学ぶことも盛んでな。それによると朝廷や畿内が我らから奪うのではと皆が懸念しておる。古よりそんなことが多々あったそうだ。そなたの教え、すべてが間違っておったわけではない」
「若……」
ああ、思い出す。若の幼き頃からの日々を。我が子以上にお傍で仕え、持てる限りを尽くしてお支えしたのだ。
「やり方は違うがな。尾張もまた奪われぬように必死だ。ところが争いになりそうなことは内匠頭殿らが内々に止めてしまう。織田と久遠は与えることで大きくなる。今や諸国に広まった事実だが、その内情は言うほど容易いことではない。かつてのそなたのように、斯波の御屋形様も織田の大殿も内匠頭殿も必死だ。それだけは分かってほしい」
必死か。わしはその事実から目を背けてしまったのだ。我が世の春を満喫しておるように見えた。わしにない富で他者の面目を潰しておると思うてしまった。
「はっ、愚かな身なれど、確と承りまする」
「さて、なにか美味いものでも食わせてやるか。近頃では久遠家以外でも美味いものがいろいろとあってな。民が考えて作るものもあるのだ」
涙が込み上げてくる。何故、わしは逃げてしまったのだ。疎まれようとも最後まで逃げずに付き従うべきではなかったのか。
先代様も御屋形様も若殿もすでに前を向いておられるというのに。わしは……。
「おや、武田の太郎殿じゃないか、そっちは確か……」
そのまま若と歩いていると思いもよらぬ者に出くわす。尾張一とも天下一とも言われる女だ。女はわしを見ると厳しき顔となりじっと睨むようにこちらを見てくる。
怒っておるわけではあるまい。わしを見定めようとしておるのが分かる。
「今巴殿、ご不快にさせたなら申し訳ございませぬ」
ただ、若がその様子に驚き頭を下げると、わしも続けて頭を下げた。
「ふふ、なかなか面白い男だね。すまないね太郎殿。飯富兵部殿の噂を聞いたことがあるから少し試してみたくてね」
やはりそうか。先ほどとはまったく違う顔をする女の声に若は驚いておられるが、今巴殿は上機嫌な様子だ。時折、かような者がおるのだ。もっとも女ではわしも初めてだがな。
「左様でございましたか」
「兵部殿、織田の下で働く気はないかい? 出家するとか小耳に挟んだけど、もったいないよ」
若と近習らが安堵したのもつかの間、今巴殿の思いもよらぬ言葉に啞然としておる。戯言でもなければ、わしを笑い者にしようと言うのでもない。本気か。
「御屋形様にも誘いを頂きましたが、断ってございます。理由はともあれ、今更、某がやるべきことはございませぬ故」
「本当に祈りの日々を望んでいるならそれでいい。だけどね、もし悔いることがあるなら祈る前に現世を生きることを勧めるよ。気が変わったらウチの屋敷においで。なにも下人の如く働けなんて言わないからさ。甲斐で苦しんだあんたには次の世のために働いてほしいんだ」
今巴殿はそう言うと去ってしまった。あれは武士だな。まことの武士と言える女だ。久遠の女武者、見事としか言いようがない。
「そなたはやはりそこらの武士と違うか。久遠家の方々が自ら勤めを請うのは滅多にないことぞ」
久方ぶりに見た若の嬉しそうな顔だ。
久遠か。得体が知れぬと蔑んだこともあるが、直に話すと理解することもある。見抜かれておったな。わしの心の内を。
「恐ろしき国でございますな。過ぎ去りし因縁も罪もすべて飲み込んでしまう」
乱世に挑む者か。神仏の使いという世評、あながち間違いでないのかもしれぬ。
尾張者は信じると決めたのだ。久遠という者らを。変わったのは偶然であり、久遠が求めれば修羅ともなろう。
かような者らがこの世におるのだな。
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